第2話
車に揺られること二十分、俺たちは一棟の大きなマンションの前に立っていた。全体が銀色にピカピカと光って、築何年も経っていないような立派なマンションであった。俺が暮らしている木造の朽ちかけた見窄らしさが漂うアパートと比べるとなんだか悲しい気持ちになってくる。
「ここが私のマンションだよ」そう言いながらまおらは歩き始める。しかしエントランスに入る前に俺の方を振り向きいたずらっぽい笑顔を浮かべ「ただここ
俺は愕然として立ち止まる。なんだって? 寮になってる……寮になってるだって! まおらの言葉が頭の中でリフレインする。やっぱり来るんじゃなかったと思った。なぜ今まで言わなかったと非難する声をあげようとするが結局言葉にならず、どんどん先に行ってしまう背中を追って歩いて行くしかなかった。
もうここまで来てしまったらどうしようもないと諦める。終電なんてとっくの昔に終わっているし、ここから自宅まで帰るタクシー代なんていくらかかるかわかったものじゃない。なんとでもなれ、どうとでもなれとラブホテルで抱いたような覚悟を改めて決める。
エントランスを通り抜け、まおらがエレベーターのボタンを押す。エレベーターを待っている時間がまるで永遠のように感じられ意味もなく手のひらを開いたり閉じたりしているとまおらがすっと俺の手を握り「手汗すごいね」と言った。
軽快な音が響き渡り目の前の扉が開き、俺たちはエレベーターに入る。覚悟を決めたものの体は正直で心臓が口から出そうなくらい緊張している。
しかし意地でもそれを顔色に出すまいと奥歯を噛みしめた。そんな俺の様子を見透かしているように手を握ったままにまおらは俺に密着し柔らかいその肢体をグイグイと押し付けてくる。
「おい、やめろよ」と俺が言うが「え〜なんで〜」とエレベーター内に響くような声量で抗議の声をあげる。先程自分で言った「部屋に入るまで静かにね」という言葉を忘れたのかと口に出しそうになるが、喋ること自体が危険だと思い眉根に皺をつくり黙り込む。まおらは意味ありげに笑っている。俺が誰かに鉢合わせにならないか、誰かに見咎められやしないとソワソワしているこの状況を楽しんでいるのだ。
見つかったらやばいのはまおらもまた同様のはずであるが、いやデリヘル嬢の寮に男を招き入れたとなると俺よりもはるかにめんどくさいことになるはずなのにこの泰然自若としている様は俺に少なからず尊敬の念を抱かせた。
無事に誰とも鉢合わせになることもなく、まおらの部屋に入ることができた。安堵の気持ちからため息を一つ溢す。その安心した気持ちを打ち砕くように「ただいま〜! 今帰ったよ〜! 」とまおらが声をあげたので俺は今度こそ心臓が口が出るほど動揺し脱ぎかけていて靴で足を滑らせ体勢を崩した。
その姿を見て、まおらはけらけらと笑い「嘘だよ。誰も居ませんー」とおどけた。
「お前なぁ! いい加減にしろよ! 」と本来なら怒声をあげたいところだが隣人に聞かれることを恐れて声をできるだけ落としながらまおらに詰め寄った。
「わぁ、叫ばないように怒鳴ってる。器用だねー」
詰め寄る俺をひょいっと避け、まおらはキッチンへと入り小さめの冷蔵庫を開けて「なにがいいかなー」と中を物色している。
「お前な、正直に言うけど俺結構びびってんだよ。あんまりからかわないでくれ」
俺は正直に降参する。これから何度もこんなことをされては明日ここから出るときには本当に心臓が口からぶら下げっていそうだ。むしろここから無事に帰れない可能性だって充分にある。
「それは、私がデリヘル嬢でここがその寮だから? 」まおらはまだ冷蔵庫から顔を上げずそう呟いた。その声はなんだかとても冷たくこちらを突き放すような声音であった。
当たり前だろ。と思わず言いそうになるが「女が一人暮らししてる部屋にあがって緊張してるんだ」と言い換えた。理由は特にない。なんとなく、まおらがデリヘル嬢だからということは今頭の中から追い出しておきたかった。
「へー。女の一人暮らしの部屋に上がり込みまくってるのか思ってた」
「どんな男だと思ってんだよ」
「デリヘル大好き性欲滾らせマン」
あまりの言われように言葉を失うがまおらが「飲む?」と缶ビールを手渡してきたのでなにも言わずビールを喉に流し込む。
「おーいい飲みっぷりー。やっぱりバーテンダーはお酒飲めないと務まらないもんなのー? 」と俺に尋ねつつ、まおらも缶ビールのプルタブを小気味いい音を鳴らして開け、ビールを喉を鳴らしながら一気に飲み干す。俺よりよっぽどいい飲みっぷりであった。
「まおらならいいバーテンダーになれるよ」俺は思わず笑って負けじと缶ビールを飲み干した。
「ねぇこれからどうする? 」車の中で聞いたセリフだ。
「私明日お休みもらってるんだよね」これも車の中で聞いたセリフだった。
一気飲みしたビールのアルコールで心地良い浮遊感を感じ、どこかへ飛んでいかないようにまおらの腕を取り引き寄せる。
「シャワー浴びよう」
そう言ってキスをした。ビールの苦い香りとまおらの甘い香りが混ざり合いなんだかひどく頭の芯が痛むような気がした。
────────
次の日ベッドのうえで目覚めるとすでにまおらは起きているようで隣には居なかった。見慣れない部屋で目を覚ますといつもなんだか不思議な気持ちになる。自分がその部屋の異物になったような、部屋にある小物たちから警戒され遠巻きに眺められているような心がざわざわとするような感覚。しかし俺はこの感覚が嫌いじゃなかった。
ベッドの上でしばらく辺りを見渡したり天井を眺めていたがいつまで経ってもまおらは寝室へと戻ってこない。
床に脱ぎ捨てていた服を着て、寝室から出る。あまり家主(と言えば大袈裟だが)が居ない中部屋を歩き回るのは気が進まなかったがいくら待っても帰ってこないので仕方ないと心で言い訳をした。
驚いたことにまおらはリビングにもベランダにも風呂にもトイレにも居なかった。つまりこの部屋にいなかった。
「おいおい」と思わず呆れた声が出る。
客(と言えばこれもまた大袈裟だが)を置いて外出したのかよ。大丈夫か? と残された者である俺が心配するのも変な話だがそう思った。
スマートフォンを確認するが特にまおらからのメッセージはない。こちらから連絡するかとラインを開くと同時に部屋の扉が開く音がした。
思わず身構えるとそこにはビニール袋をもったまおらが立っていて「おはようございますー」と呑気な挨拶をする。
その顔を見るとなぜだかとても恥ずかしくなり顔が熱くなる。まおらを抱いたのは昨日が初めてじゃない。ビジネス関係で金銭のやり取りがあるものの何回も肌を合わせてきてはずなのになぜか照れている俺がいる。
そう、照れているのだ。信じられないと内心驚愕の嵐が吹き荒れる。知り合った女とこんな風に一夜を共にするなど俺にとっては別段珍しい話ではなかった。中には名前さえ知らないような、今じゃ顔も思い出せないような女だっている。街ですれちがってもお互い気が付かないようなそんな淡泊で乾いた関係を何人もの女と重ねていた。
昨日まおらが言った通りだった。女の一人暮らしの部屋になんて上がり込みまくっている性欲滾らせマン、まさに俺はそんな男だった。
そんな男が今まるで純情無垢な男子高校生が片想い中の女子を目の前にしたようなそんな心持ちになっている。らしくないぞ、どうした。
そこでふと気が付いた。名前さえ知らないような女、そう言えばまおらの名前だって俺は知らないじゃないか。まさか店で使っているまおらという名前が本名だっていうことはないだろう。
「どうしたの? 」挨拶も返さずバカのように固まり、ただまおらを見つめるだけの俺にまおらは怪訝そうに視線を向ける。俺が感じている照れなどまおらの方ではまったく感じてもないようだ。その様子に俺は八つ当たり的な苛立ちを少し感じた。
よっこいしょっと婆臭い掛け声を言いながらフローリングにあぐらをかくように座り込みビニール袋からおにぎりとサンドイッチを取り出す。
「朝はパン? それともご飯派? 分からないからどっちも買ってきたよー。ちなみ私はねー春雨派! 」そう言いながらまおらは春雨たまごスープと書かれた黄色い容器を取り出した。
「まおらは……」まおらは本名なんて言うんだ? そんな言葉を続けそうになる。そこで猛然とした怒りがこみ上げてくる。どうしたんだ俺は、寝ぼけているのか、と思う。たかが家に呼ばれてセックスしただけでなにを舞い上がってるんだと自分で自分を殴りたくなる衝動に駆られる。
それをなんとか抑えて「昨日夜はあれだけ食べたのに朝は少食なんだな。俺は断然ご飯派だよ、おにぎりもらってもいいか?」そう言いながら鮭おにぎりを手に取る。
「もっちろーん。そのために買ってきたんだからね。っていうかおにぎりもサンドイッチも全部食べてよ」と春雨スープにお湯を入れにキッチンへと向かう。
「全部って……」そう言いつつビニール袋の中を覗き込むとおにぎりがまだ三つも、さらにサンドイッチもまた三つ入ってあった。とても食べられる量ではない。
そんな俺の気持ちを察したのだろう「私のおにぎりとサンドイッチが食えへんのかい! 」とキッチンから顔だけ出して妙な関西弁でまおらが凄む。
その顔と声がおかしくて、俺は声を出して笑った。
まおらは初めはなにがそんなにおかしいのか分からないという顔をしていたが俺があんまりにも笑うものだからそれにつられて笑い出した。
この部屋は朝の日の光がよく入り明るく暖かい。おそらく南向きなんだろう。その心地良い空間で俺はまおらと笑い合っていた。
これは危険だ、危険だぞ。と昨夜思ったようなことを思う。
今、俺の危惧している内容は昨夜ずいぶんと違う。それこそ百八十度も変わった内容である。
つまり、なんというか、俺はまおらのことを好きになっていた。
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