第333話 竜の戦い(ガルツ峡谷)

(な、なんだこの娘は……)


 アーロフは唖然として、突如現れた少女を見つめた。黒を基調とした奇妙な恰好。黒い長髪にふちどられた美しい顔には他者を見下すような威圧感が感じられる。


「なにこいつ。マジありえないんデスけど」


 体勢を立て直し、唸り声をあげる獣を見ながらその少女――デスドラゴンが言う。先ほどまでアーロフを狙っていた獣は脅威とみなしたのか、標的をデスドラゴンに変えたようだ。


 獣は身を屈め、そして少女に向かって跳躍する。


 常人の動体視力では追いつかないほどのスピードだった。


魔児有罪マジうざい!」


 デスドラゴンの口から闇の塊を放つ。突進してきた獣はその闇に包まれた。


 物質を吸収するデスドラゴンの闇のブレス。獣を包んだその闇は全ての空気を吸収し、真空状態とした。


 急激に気圧が変化し、獣の血液が沸騰する。体内に残された空気は膨張し肺を破裂寸前にした。眼球や内臓、毛皮から飛び出した肉が真空によって吸引され、引きちぎれそうになる。


「ヴェラララァッ!」


 獣は悲鳴を上げる。だがその悲鳴は真空に遮られ闇の外側までは届かない。幸か不幸か、カザラス兵たちには闇の中で何が起きているのかを把握する術はなかった。


「これじゃ終わらないか……だるっ……」


 しかしデスドラゴンは闇を見ながらそう呟いた。


 次の瞬間、闇から獣が飛び出してきた。眼球は飛び出し、口や毛皮の裂け目から血が噴き出している。しかしその凶暴性は失われておらず、大きく口を開いてデスドラゴンへと襲い掛かった。


 獣の口が閉じられる。不揃いな牙同士が衝突し、ガツンと音を立てた。しかし獣が期待していたような、柔らかい肉を貫通する感触はない。その違和感に、獣は首を傾げた。


 デスドラゴンは空中にいた。獣に襲われた瞬間に跳躍し、空中へと逃れたのだ。


 その体から煙幕のように闇が噴き出し、デスドラゴンを覆う。


 そして次の瞬間、その闇の中から現れたのは黒い鱗に覆われた巨大なドラゴンだった。


「なっ……!」


 アーロフは絶句する。アースドラゴンよりもはるかに大きい。そしてその体にどれだけの力が宿っているのか想像もつかなかった。


「これが……神竜……!?」


 目を見開いたアーロフの前で、デスドラゴンが獣に向けて落下を始める。


 その体が黒い光を放った。


暗落鬼アンラッキー!」


 デスドラゴンは両手を組むとハンマーのように獣の頭に振り下ろした。ゴキュッと鈍い音がして獣の頭が地面にめり込んだ。


「うわぁっ!」


 隕石が落ちたかのような衝撃にアーロフは後ろに吹き飛ばされる。巻き起こる土埃。しかしアーロフは必死に目を凝らして何が起きているのか把握しようとした。


 いびつに歪んでいた獣の頭蓋骨はデスドラゴンに粉砕され、中身が飛び出ていた。獣の手足は抵抗するように数度地面を搔いていたが、やがてその動きを止める。


 そしてその傍らにはいつの間にか人間の姿に戻ったデスドラゴンが立っていた。


「あの怪物を一瞬で……!?」


 カザラス兵たちがどよめく。


 突如現れた謎の獣。そして続いて現れた少女がドラゴンへと変身し、その獣を倒した。いったい何が起こっているのかわからず、カザラス兵たちは武器を構えたままキョロキョロと事態が進展するのを見守っている。


 そんな中、獣を仕留めたデスドラゴンはゆっくりとその死体に歩み寄った。


「あっ……」


 アーロフは思わず息を飲む。デスドラゴンの美しい顔。その表情は先ほどまでの険しいものではなく、慈愛と悲しみに満ちた複雑な表情になっていた。


 デスドラゴンは獣の死体に向かって手を伸ばす。まるで弱者に手を差し伸べるかのような、優しく優雅な手つきだった。


 その手に闇が生まれ、獣の体を覆っていく。


闇界葬還ブランドバック


 闇の中で、獣の死体はゆっくりと吸収されていった。闇は徐々に薄まり、闇が晴れた時には獣の死体は完全に消え、窪んだ大地だけが残された。


「……バイバイ」


 消えた獣の死体に向かって、デスドラゴンが切なげな表情で別れを告げた。


「助かった……のか?」


 アーロフが茫然と呟く。だがそんなアーロフをデスドラゴンがキッと睨んだ。


「うっ!?」


 狼狽えるアーロフにデスドラゴンがズカズカと歩み寄る。そして尻もちをついたアーロフにぐいっと顔を近づけた。


(美しい……!)


 アーロフはデスドラゴンに睨まれながらも、近づけられた顔を見てそんなことを思った。流れ落ちた黒髪から甘い匂いが漂う。


 デスドラゴンは手を伸ばすとアーロフの首にかけられた小像を手に取り、アーロフの目の前に突き出した。


「これであいつをキモアデルたちにけしかけるつもりだったの?」


「は?」


 何のことかわからないアーロフは、ただ間の抜けた表情でデスドラゴンの目を見つめた。


「バカじゃないの? 人間が制御できると思ったら大間違いなんデスけど」


 デスドラゴンは小像を持った手を握り締める。パキパキという音がして、像の破片がアーロフの胸に降り注いだ。


「ま、待て! これのせいでアレが来たと言うのか?」


「はぁ!? 知らないでこんな危ないもの持ってたの!? 脳みそスライム脊髄カルパス!」


 言葉の意味は分からなかったが、なんとなく罵倒されたのだとアーロフは察した。


「まあいいわ。人間襲うなって言われてるし」


 デスドラゴンはそう呟くと、興味をなくしたように立ち去ろうとする。


「ま、待ってくれ! 少し話を……」


「無理」


 アーロフに視線を向けることもなく、デスドラゴンは跳躍した。軽く跳んだようにしか見えなかったが、数十mの距離を一瞬で飛び越えていた。さらに二度ほどデスドラゴンが跳躍すると、その姿は完全にアーロフの視界から外れてしまったのだった。


「あれはなんだったんだ?」


「ケルベロスだろ。死の砂漠に住む魔獣が血の匂いに引き付けられてやってきたんだ!」


 危険が去ったと確信したのか、カザラス兵たちが口を開き始める。アーロフは茫然としながらそのやり取りに耳を傾けていた。


(いや、あれは間違いなく俺を狙っていた……)


 アーロフは起き上がる。気づけばびっしょりと冷や汗をかいていた。さらに失禁でズボンが濡れており、アーロフは気恥ずかしさを感じる。ただし、傍から見ればアーロフが浴びた兵士の血の方が気になり、そこまでズボンの濡れは目立っていない。


「アーロフ様、ご無事ですか!」


 そこに大声を張り上げながらヤナスが近づいてきた。


(こいつ……!)


 アーロフはヤナスを睨みつける。


(知っていたな……!?)


 今回の戦いの最中、ヤナスは露骨にアーロフのそばにいることを避けていた。またラーベル教会から渡されたお守りと言って小像を渡したのもヤナスである。


「申し訳ございません。アーロフ様の危機に駆け付けられぬとは……副官としてはあるまじき失態です」


 アーロフの疑いを知ってか知らずか、ヤナスは殊勝な態度でアーロフの前に膝まづく。


「どっちだ?」


 そんなヤナスにアーロフは尋ねた。


「……は?」


「父上か? 教会か?」


「い、いえ私は何も……」


 アーロフの質問に虚を突かれたのか、慌ててヤナスは答えた。


(間違いない。知っていたか)


 ヤナスの答えにアーロフは確信する。もし関りが無ければ、この問いが何に対することか確認するはずである。しかしヤナスはその確認もなく否定した。つまりアーロフの問いが襲撃の主に関する質問であることをわかっていたからこそ、ヤナスは誤魔化さざるを得なかったのだ。


(しくじった……!)


 平静を装いながらも、ヤナスは失敗したことに気づいた。


(だが私が関わった証拠などない。それに今回の敗戦でこの男はおしまいだ。いますぐ首を切られたりしなければどうにでもなる……)


 ヤナスは心の中で算段を始める。しかしそれはアーロフも同じだった。


(犯人は教会か? 父上が俺を殺すはずが……いや、ヒルデガルドの件もある。そもそもあの獣は何なのだ?)


 互いに思考を巡らせるアーロフとヤナスの間に、不気味な沈黙が流れた。


「……すまぬ。変なことを言ったな」


 先に口を開いたのはアーロフだった。


「……は?」


 ヤナスは呆気にとられる。てっきり執拗な追及をされると思っていたからだ。


「恐ろしい獣に襲われ、気が動転していたのだ。兵の撤収を急がせろ。また化け物が襲ってくるかもしれん」


「しょ、承知しました」


 アーロフの指示を受け、内心で首をかしげながらヤナスはその場を去る。


(誰にせよ犯人は、あの恐ろしい化け物を使役できる者だ……)


 ヤナスの背中を見送りながらアーロフは物思いにふけった。


(しかしいままでその存在を隠してきたからには、今回もできれば秘密にしたいはず。事を荒立てようとすれば口封じのためにすぐに次の刺客を送り込まれるだろう。だが俺が今回の件を黙っていれば、俺を早急に殺す必要はなくなり、しばらく時間は稼げるはず。まずは情報を集め、反撃の計画を立てる。ヒルデガルド、お前のやり方を使わせてもらうぞ……)


 アーロフの暗殺事件。しかしそのことは関係者しか知ることのないまま、謎の獣の襲撃として処理されたのだった。

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