ではなぜ、君は

mee

001

 誰かを愛するということは、ぼくたちの敵であるところの世界の一部分を、許してあげるということです。きみは、この世界において、人間一人分のスペースを満たしている。その一人分の分量だけ、到底許せなかったはずのこの世界を、許してあげるということ。

 この世の欠片であるきみが、この広大で許しがたい世界の、ごくごくわずかなスペースのなかで笑っている。それだけのことが、どうしてこんなにも価値のあることだと思えるのかぼくには分からなかった。分からないことこそが愛だと思った。


 炎が光を弾きとばし、世界を少しだけ明るくする。闇の中できみがつまらなさそうにキャンプの炎を見るのを、その隣で眺めているのが好きだ。ひとつの炎をふたりで見つめているとき、ぼくたちは太陽のまわりを手を取りながら回るたった二つの星なのだ、という気がしてくる。遠雷がきみを呼んでいる。その声が聞こえているはずなのに、きみは全部を無視して嵐のなかで炎を見つめている。

 永遠の命ってどんな感じ、と昔きみに聞いたことがあった。

「そうね。下りのエスカレーターにずっと乗っている感じ」

「上りじゃなくて?」

「うん、下り。みんなは上がっていくの。すれ違う人にずっと挨拶をしながら、永遠に一人だけ下って行って、みんなは上へ消えてしまう。そして下からは永遠に人が上がってくる」

 終わらない夜とか、消えない太陽とか、そういう比喩を聞くのを期待していたぼくは、彼女の言葉にすこし面食らってしまった。彼女にとっての「永遠の命」は、篝火でも浦波でもなくて、ただ、とにかく他者との相違点の一つなのだ。乗り換えることはできない。彼女がその身に受けた運命を変えることはできず、違う方向へ進み続けていく――それも永遠に。

「あなたもどんどん上がっていくのよ」

 ときみが笑った。

「そうしてやがて見えなくなる?」

「そう。わたしの方は、たまに振り向いてあなたの姿を探すんだけど、雲に隠れたのか、遠すぎてもう見えないのか、どんどん霞んでいって、名前も忘れちゃって、最後には本当に居た人なのかどうかも分からなくなるの」

 ぼくがノーベル賞を取ろうと思ったのは、彼女のこの発言がきっかけだった。市井の人だと霞んで忘れてしまうのであれば、誰もがその名を知るような偉人になって、たしかにその人は生きていたと、きみに永遠に思い出し続けてもらえればいい。その存在を疑うことなど決してないように。

 偉人になるのは当然楽な作業ではなかったが、ぼくにとって達成しえない目標というわけでもなかった。

「支えてくれた妻のお陰です」

 とぼくはインタビューで繰り返し繰り返し語った。ぼくの伝記が将来出来たときに、そこに確実にきみの名前が載るように。後世で語り継がれやすいように工夫したスピーチ、自己啓発本で応用できそうな名言、妻とのエピソード(それもきみの賢さが引き立つような)、そして、あるいは……。

 ぼくの献身は我ながら見事なものだったが、世間の人の目には逆に見えたことだろう。きみの名前は賢妻の代名詞のように扱われるようになり、後世での名声は確実なもののように思われた。ぼくは自分の人生に、「満足」と呼べそうな何かを感じ始めていた。

「ようやく?」

 と、きみが笑う。そう、ようやく。老成し、余生を過ごしている、余韻のエンドロールのような、ミュージカルのカーテンコールのような、本来なくても構わないような気のする、ある意味で最も自分本位な時間。ここに至ってようやく、なにかを満足できる程度に精神が老いてきた。

「この上ないぐらい成功を収めたのに、まだ十三の子どもみたいに世界のことを許せないの?」

 世界を許すことができない理由を、理論立てて語ることは難しかった。

 きみはまるで、スポットライトをその身に浴びたままの少女だった。劇場は闇に包まれて、照らされたきみだけがぽつんと浮かんで見える。たまに前の席の観客の頭が見える。その影は要らぬ前景で、不必要だけれど、この劇場が存続するためにはどうしたって必要なものだ。ぼくは最前線に座れなかったのだから仕方ない。それでも、衣擦れの音を立てる後ろの席の観客や、なぜか離席する二階席の観客の足音を、心地いいものとして受け入れることはできない。責めることを前提にしたうえで、それを、「許してやる」ところまでが、ぼくの最大の譲歩だった。

「生まれた瞬間から怒ってた気がする。何かに対して」

「今も怒ってる?」

「いや、そうでもない。激しい怒りはもうないんだ。ただ、まだ、許せないなあって」

 そして全ての観客が入れ替わっていくこの舞台のうえに、たった一人だけきみを置き去りにしていくということ。ぼくが許せないのはどちらだろうか、とふと思った。この世界という劇場のほうなのか、それともぼく自身のほうなのか。

「でも少なくともぼくは上手くやったよね」

 第一幕の、幕引き手ぐらいにはなれただろう。幕が下りて、わずかばかりの休憩がとられ、きみの命がすこし休まることがあればいいと、ぼくはきみの手を握りながら思った。名を富を心をいくら残そうと、それらは結局きみごと現実にすべて置き去りにしていくしかない、というだけの話だった。死ぬ直前、ぼくは貯蓄していた「満足」が薄れて消えていくのを感じ、やがてゼロになったのと同時に鼓動が止まった。


< 了 >

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ではなぜ、君は mee @ryuko

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