雨宿りの暮雨

日々人

夜を越えて


狭い飛空艇の操縦席。

唸るエンジン音に耳が慣れてくると震える鼓膜の更に奥、私の脳は静けさを感じ始めていた。

仲間には仕事終わりに一息つく趣味のようなものだと告げているが、本音としてはどうだろうか。

ただ、今日のように空に昇りたくなる日は素直に従う。

雲を突き抜け、高度が安定してしばらくすると体がいつものようにがたがたと震え出した。

格安で仕入れたおんぼろのふたり乗り飛空艇では、空調も自動操縦もあまり機能していない。

微かな隙間風がひりひりと吹き抜ける、そんなおまけつきだ。

分厚い防寒着を身にまとったまま、狭苦しい操縦席で身体をひねり、後ろの席に転がっているリュックを手繰り寄せ、湯の入った水筒を引っ張り出す。

こぽこぽと用意していたカップにお湯を注ぎ、操縦桿に軽く手を添えながらインスタントコーヒーを啜る。

曇ったゴーグルを額にずらして、窓に顔を近付けて夜空をうかがう。

上空は今日も大きくゆったりと波打つ。

その高波の奥で月が滲み揺らめいている。

天の川と聞いて、天体のことを思い浮かべる人はもういない。

昔、夜空に瞬いていた数多の星は海底に揺らめく小さな泡の如く、しかし深い闇に沈んでしまったまま浮かんでくることはない。



 ー ー ー ー



天の主。

そう呼ばれるとても大きな魚がいる。

その魚は鈍色の鱗を身にまとい、大きさはといえばあの鯨を凌ぐほどだ。

大昔の書物にその巨大な生物の記録が残っていたが、現代では架空の生き物だと皆が思っていた。

それがどうやら実在するのだと知るのは、あの天変地異があってからの話だ。

ただ、私はその少し前から知っていた。

一度きりだったが間近で見たことがあったからだ。

とはいえ、当時はその話をしても誰にも信じてはもらえなかったのだが。


あの日、世界中で雨が観測された。弱弱しい雨だった。

雨に濡れようがこれくらいならば構わないという程度、そんな雨が三日程降り続けた。

雨が上がると、天は大地に湿った空気だけを残し、もろもろの水資源を空へ奪い去っていた。

誰も気付かなかった。

この星で雨が降り続けているのにどこも水難事故は起こらず水位が上がることがなく、加速度的に雨のカーテンに紛れて、この星の水資源は空へと舞い上がっていった。

その日から、人々の生活は一変してしまった。

しかし、どうしてこうして、地表から水が、海が消えて天に昇ってしまったのか。

現代の科学では解明することができないそうだが、とりあえず隕石の墜落でもなく、巨大地震でもなく、しかし文字だけならば「天、変、地、異」と表することができるそれによって、一瞬にして天と地がひるがえった。

いや、厳密には、天に海が渡った。

それまで私たちが住んでいた陸地には海、川、池さえもなくなり干上がってしまっている。

水資源は天に召され、海にいたはずの海洋生物も一緒に天へと連れ去られたのだった。



 ー ー ー ー




「ピー、ポポッピー」

レーダーが後方から大きな飛空艇の接近を示す。

振り向けば、漁船タイプの大きな飛空艇が遠くからやってくるのが目視で確認できた。

帆をはためかせながらぐんぐんとスピードを落とすことなく接近してくるので、大袈裟に大きく舵をとって避ける。

それでも漁船タイプの飛空艇が過ぎ去った後、空気の渦にこの小さなおんぼろ飛空艇はがたがたと音を立てて震えてしまう。

ようやく船体が安定した頃、遥か先の空では幾筋かの眩い光が交錯し始めた。

なるほど、あそこが今日の漁獲ポイントらしい。

他の漁船もそこへ群がり始め、空に光の溜まり場があっという間に出来上がった。

ズボンのポケットからプラスチック製のおもちゃを取り出す。

これが私の魚群探知機。

こんなものがあの天の主の居場所を知らせるのだと言って、やはり誰が信用してくれるものか。

微かな赤い光を発しているが、その光の弱さからして近くの海には奴はまだ姿を現していないようだ。

奴は賢い。多額の懸賞金がかけられているが、一度も罠にかからない。その全容をはっきりと捉えた寫眞すらないのだから。

うねる天海の奥深くで、地表の何を見つめているのだろう。



巨大な商船タイプの飛空艇を見つけたので、そこに身を寄せることにした。

おんぼろの飛空艇を甲板に預ける。

この手の商船タイプの飛空艇が空にいくつか点在している。

利用するためにはもちろんお金がかかるわけだが、ただひたすらに空を飛び続け凍えるわけにもいかない。

休憩だ。

遠くで大型漁船が天海から魚を引きずり下ろすのを横目に、私は甲板の熱があがる位置に身を寄せて暖を取っていた。

釣り糸を真上へと、上空に広がる海に浮かべて時間を潰していた。

遥か遠くの空が微かに明らみ始めた。

この待ちぼうけもあと30分が限度だというところだ。

そろそろ戻って寝ないと仕事に差し支える。

今日もこのまま天の主は姿を見せないのだろう、と諦めかけていた時だった。

おもちゃの受信機が突然震えだすと、これまでとは違う強さの光を発し始めた。

私は急いでおんぼろの飛空艇に向かって走り出した。



 ー ー ー ー



あの頃はまだ、波が寄せては返してを絶え間なく。

その頃に、鱗一つが子どもの体ほどの大きさがある巨大な魚の影を海原で一度だけ見たことがある。

あんなに巨大な魚が、いったいこれまで海のどこに潜んでいたのだろうか。

漁村で生まれ、小さな頃から海の上が生活の場のようなものだった。

そんな村の出の私でも、あんなに大きな魚の話は一度も耳にしたことがなかった。

だから、あの時の驚きと恐怖が未だに実際のことだったのかと、信じられないような気さえしている。

しかし、確かにあの時に私は彼女を失った。

この深い悲しみだけは疑いようのない事実だといえるのだった。


当時、私の一日は父と一緒に早朝から漁へ出ることから始まった。

港に戻ってからは魚の仕分け作業をした。それから昼前に家に戻る。

早めの昼食をとったら一時間だけ仮眠をとって、それからは母に勉強を教わり、家の手伝いもした。

それらがすべて終わると、ようやく私に与えられた自由時間がやってくる。

日が大地を傾かせ、やがて辺りが暗くなるまで。

その短い時間。名残惜しさの繰り返しの中で、私は成長していった。

そして、傍らにはいつも彼女がいた。

出会った頃はまだ互いに幼かった。

この、男の子、女の子の出会いがいつからだったのか。

なぜだろう。それが、今となっては思い出せない。

桟橋をわたって小さな舟に乗り、近くの無人島へ。

夕日に染まる海辺でいつものように彼女を待つのが常だった。

彼女は近くの島の、別の漁村に住んでいたという認識だが、これはもしかすると後々私の頭が創り出した話なのかもしれない。

知らぬ間に、一緒に遊ぶ仲だった。

無人島に渡って、そこで走り回ったり、果物を分け合ったり、夕日に染まる海を眺めながらおしゃべりをしたり。

そして、日が海の彼方へ身を潜める頃になると、またね、と別れる。

そんなやり取りが何年か続いた。

そして、こういう関係とはなんなのだろう。

なんだかよくわからないが、そろそろ恋の一つでも、という年齢に差し掛かった頃だった。

小雨の降る夕刻。海原で、寄りそって浮かんでいた彼女の乗る舟が、とてつもなく大きな魚に丸ごと飲み込まれたのだった。

一瞬の出来事、私はひっくり返った自分の舟の底にへばりついて、ただ暫くその光景を反芻するばかりだった。

どうやって村に戻ったのかを覚えていない。

後から漁村の大人に聞いた話だが、私が口にした特徴を持つ女の子はこの付近の漁村には居ないという話だった。

その証拠に、行方知れずの女の子が出たという話は一切なかった。

私は思春期の難しい時期を顧みず、大泣きしながら訴えたのだが、大人たちは困った顔をしたまま、ただ私の口から出る語りに何度も何度も耳を傾けるといった返しのないやり取りがあるだけで、やがてその話を私はしなくなった。


雨は三日間降り続き、そして今の世界へと繋がった。

私はといえばその日を境に引き裂かれた。

始まりは知れず、けれども失ってからそれとわかる、私の初恋の終わりのはずだった。

しかし、どれだけ月日が経とうと、大きくなった今でも一緒に遊んだあの彼女の影を追っている。

その発端はキーホルダーの受信機が放つ微かな光だった。

八芒星の形をした灰色のボディ。

受信機はあの天の主が姿を現す少し前、彼女に私がプレゼントしたものだった。

赤い塗装が施してあったが、経年によって今は渋い色合いとなっている。

設定した者同士が接近するほど光を強めるという機能を備えたおもちゃで、当時の子どもたちの間で流行っていたものだ。

微かな振動をエネルギーに変える代物で、半永久的に受発信できる。

それを抱えたまま、あの大きな魚の中に彼女は消えていった。

皆が彼女の存在を認めなくても、自分だけは決して疑わない。

あれからずっと、肌身離さず受信機を持ち歩いている。

再び光が強く放たれるときを信じている。



 ー ー ー ー 



飛空艇を海面ぎりぎりにつけ、手元の光を頼りに天の主の影を追う。

途中、眩い朝日が海底から姿をみせたが、私は構わず操縦桿を傾ける。

飛空艇内を突き抜ける隙間風に、妙に懐かしい海の匂いが交じった。





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