夕暮れの待ち人

@natsumeyuki

第1話

 茜色に染まった夕陽が照らし出す中で、俺は傍らの柵へガシャリと音を立ててもたれ掛かって深くため息を吐いた。


「はぁ……」


 ここは俺の自宅のマンションの屋上庭園。小洒落た花壇に可愛らしい木なんかが植えられていて、時折吹き抜けていく風に葉を揺らしている。

 正直、同期の連中に比べれば、こんなオートロックと屋上庭園付きのマンションに住めるくらいには、けっこう良い給料を貰っていると思う。


「でも、それだけなんだよな……」


 ズルリ……。と。

 柵へと預けた頭をずり落としながら、俺は虚しさを噛みしめて言葉を漏らした。

 俺には、趣味なんて何もない。いや……正確には、趣味も何もする暇はない。と言うべきか。

 毎日朝から晩まで働いて、夜遅くに帰ってきてから、申し訳程度の家事をして寝る。そして起きたらすぐに仕事だ。

 そのお陰でたまの休みも、溜まりに溜まった仕事の疲れを抜くだけで手いっぱいなのだ。

 そんなエリートサラリーマンの俺が、こんな所で何をやっているかって?

 聞いて驚くな。俺は今日、この世に産まれ落ちて二十とそこそこの人生で初めて、無断欠勤という奴をしてやったのだ。


「……ハハ。超怒ってるだろうな」


 乾いた笑みと共に、俺の脳裏には禿げた頭を真っ赤っかにして激怒している部長の顔がありありと浮かんでくる。

 正直な感想を述べるのであれば、こんな所にまでしゃしゃり出て来ないで欲しいものだ。


「ま、もう……どうでもいいか」


 気を取り直した俺は、ぷしりという景気の良い音を響かせて、コンビニで買ってきた缶ビールを開けると、どこか清々しい気分で暮れゆく夕日を眺めた。

 どうせ俺はクビなのだ。だが、そんな俺を誰が責める事ができるだろうか。俺は昨日まで、3日も徹夜で案件をこなし、ようやく家に帰り付いて泥のように眠り、目が覚めたらもう夕暮れだったのだ。


「スマホ、電池切れてたな」


 寝る前はそこそこに残っていたはずだから、きっとひっきりなしに鳴っていたのだろう。


「……っと、空か」


 そんな事を考えながら手元の缶を呷ると、落ちてきたのはほんの滴だけで。

 だが、俺はそんな数滴を啜るなんていうさもしい事はせずに、足元に置いていた袋の中から、新しい缶を取り出してプルタブを開ける。

 同時に、再びプシィッ! と小気味良い音が響き渡り、もうもうと泡が立ち上ってくるのを口で迎えてやる。ビールというやつはこれがたまらないのだ。


「こんばんは」

「おん……?」


 ふと気付くと、誰も居ないはずの庭園にひとりの女の人が立っていた。年のころは20そこそこだろうか、白いワンピースと風になびく長い黒髪がとても綺麗だ。


「……どうも、こんばんは」


 他の住人か? 俺は曖昧に挨拶を返しながら胸の中で舌打ちをする。ご近所なんて、引っ越した当初に数件行っただけでもう覚えてなどいなかった。


「フフ……気持ちよさそうですね」

「そう見えますか?」


 どこか不思議な雰囲気を纏った女性が、そう言って涼やかにに笑う。その笑顔はとても綺麗で、仕事漬けの俺にはどうにも刺激が強くて目線を逸らした。


「何て言うか、解き放たれたような……スッキリした表情です」

「っ!!?」


 だが直後。事も無げに言い放った彼女の言葉に、俺はまるで胸の内を見透かされたように感じて目を見開く。

 そう、この彼女の言う通り、俺は今更になって心地よさのようなものを感じていたのだ。


「フフフ……何か、良い事があったんですか?」


 一陣の風が吹いて彼女の黒髪がなびき、柵にかけておいた俺のネクタイが何処かへと攫われていった。

 しかし、俺は旅立って行ったネクタイを追って手を伸ばすなどという真似などしない。

 何故なら、これはいわば末期の酒なのだ。終ぞ自らの生に意味を見出さず、辛うじて保っていた価値さえも放り出した俺のような男には、たとえ缶ビールとて過ぎた土産だろう。

 だが、最期にこんな綺麗な女の子と飲めるなら悪くない。

 ふとそんな事を思って、俺は足元の袋からビールを一缶彼女に差し出す。


「良かったら。ただ話に付き合わせるのもアレだし」

「いただきます」


 差し出してから、もしかしたら拒絶されるか……とも思ったが、女は予想外にすんなりと酒を受け取って口をつけた。

 渡した俺が言うのも何だが、こんな人気のない所で黄昏ている見知らぬ男から受け取った酒を躊躇わず飲むなんて、この女は少々危機意識に欠けているのではないだろうか?


「今日、初めて無断欠勤してさ」

「あら」


 けれど、そんな事など一瞬で忘却の果てへと追いやった俺がのんびりと口を開くと、女の表情が柔らかにほぐれる。まるで、愉快な話でも聞いたかのように。


「そんな……面白いこと言ったかな?」

「ええ、勇気を持った無断欠勤。立派だと思います」


 目を細めて笑いながら、女はとても上品に、俺のやったビールを呷る。


「無断欠勤が立派……ね」


 ともすれば、女の言葉は嫌味にも聞こえる。だが何故か、その言葉が俺の癇に障る事は無かった。


「ええ、ご自分の体調管理をきちんとされている証拠ですもの」

「……そういうモンかね」


 満面の笑みで笑う女に、俺はむず痒いものを覚えてため息を零しながら暮れ行く夕陽に目をやる。

 俺には見ず知らずの他人に自分の事をべらべらと喋るような趣味は無いし、そのような事は過去に一度もやらかした事は無い。だからきっと、この何とも耐え難い会話への誘惑は、きっと酒の為せる業なのだろう。


「酔っぱらったついでだ……少し、話に付き合ってもらっても?」

「もちろん。お代はもう、いただいちゃいましたし」


 心の赴くままに囀った俺の言葉に、女が悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ビールの缶を軽く持ち上げてくる。


「俺の勤め先、いわゆるブラック企業なんですよ。残業まみれで仕事しかした記憶がない」

「あらあわ……」

「でもね、3日突貫して気が付いたら寝坊してた。携帯も連絡凄くてさ……」

「徹夜明けで、お布団の誘惑から逃れられるなんて……凄いです」


 俺はこんな調子で軽い笑いを浮かべながら、見知らぬ美女に次々と愚痴をこぼしていった。

 そんなやり取りを、一体どれくらいの時間続けていたのだろうか。


「――んでさぁ、あのタコ部長……人に仕事押し付けて自分だけ帰りやがるんだよね」

「そんな部長さんの仕事も支えて……会社の大黒柱じゃないですか」


 あれだけ赤々と輝いていた夕陽が陰るころ、俺はすっかり出来上がっていて。けれど口からは仕事の愚痴を止めどなく零し続けていた。

 けれど彼女は、まるでそんな俺を励ますように、実に心地いいタイミングで絶妙の相槌を返してくれている。


「っと……もう、酒も切れたか……付き合わせて悪かったね」

「…………」


 俺が最後の一滴を口内へ招き入れたところで、薄闇の中に突然静寂が訪れる。


「見ての通りベロベロだ。少し冷ましてから部屋に戻るよ」


 だが、どうしようもなく酔っ払った俺は、周囲に漂う雰囲気が変わった事になど露ほども気づかず、柵に体を預けながら適当な出まかせで彼女を煙に巻こうとした。これからは、彼女が居ては、少し都合が悪い。


「いえ……もう少しだけ」


 女が呟きと共に、ゆっくりとした挙動で缶を足元に置くと、暮れかけの陽の悪戯か、目の前に居るはずの女がどこか禍々しい雰囲気を纏い始める。

 それでも尚、チラともそんな異変に気付かない俺は、ぎしりと柵へ預けた身体を大きく反らして言葉を続けた。


「すっかり付き合わせてしまって申し訳ないが、もう話す事は――」


 だがふと、悪寒を感じて視線を戻すと、女は首でも折れたのではないかと見紛う程に顔を傾け、頬が裂けるような恐ろしい笑みを浮かべていた。

 そしてその口元ではブツブツと、まるで呪詛のように言葉を繰り返している。


「もう少し……もう少しだけっ……」

「ヒィッ……」


 瞬間。全身の肌が粟立ち、腰が抜けた。我ながら、身を投げようとしていた者とは思えない程の恐怖を抱いていた。

 投げやりな意識に装飾された自棄など跡形もなく粉々に消し飛び、全身を包んでいた幸せな酔いさえも霧散する。


「ひぁ……ぅあ……ぁ……ぅ……」


 圧倒的な恐怖に、最早俺の頭の中からは逃げるなどという選択肢は無くなっていた。

 今の俺に出来る事は一つだけ。嗚咽にも悲鳴にも似た情けない声をただ口から漏らしながら、がたがたぶるぶると震えているだけ。

 そんな化け物のような笑みを、どれくらい見ていたのだろう。女は突如として綺麗な笑顔に戻ると、その笑みにどこか誇らしげな色を浮かべて薄闇へと溶け始めた。


「アナタは、留まれた……お酒、ありがとう。美味しかったです」


 そして姿も見えなくなった頃に一言。

 涼やかに微笑む彼女が告げたかのように、何処からともなく囁くような声が聞こえてきた。


「なっ……お……おいっ!?」

「えっ、わっ!? ちょっ、ちょちょちょ……先輩っ!?」


 だがその直後。女を引き留めようと伸ばした上体の、具体的には額の部分に衝撃を受けて俺はとっさに身を起こす。


「神崎……」


 そこにはスーツに身を包んだ小柄な一人の女性が、頭を押さえてうずくまっていた。

 彼女は俺の職場に勤める同僚の一人だ。こんなチンチクリンなナリの成人女性を、俺が見紛うはずも無い。

 しかも何故か、その手には悪戯な風に攫われていった筈の俺のネクタイが握り締められていて……。


「あいっ……たたたた……なにお酒なんて飲んでるんですか! 心配したんですよ? 先輩。様子を見に来たらなんかネクタイまで飛んでくるし……。コレ、先輩のですよね? ……ってあれ、なんであんな所に一本だけ?」


 きゃんきゃんとまくし立てながら体を起こした神崎が、まるで鎖でつながれた囚人のように柵に脱力してもたれ掛かる俺を見ると、その目線がふと横にずれる。

 間を置かずして放たれた疑問符に神崎の目線を追うと、俺がもたれる柵の外……僅かに内側へと傾いた段差の上に、俺が飲んでいる銘柄と同じ銘柄の缶ビールが一本。暗闇の中で誇らしげに佇んでいたのだった。

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