吸血鬼と永遠(とわ)の処女(おとめ)

東 友紀

第1話 ゴールデンウイーク

「真緒」

 レオンは真緒の部屋のドアを叩いた。

 真緒はレオンとの2人の時間を大事にしてくれるが、それと同時に、1人きりであれこれと考える時間を与えねばストレスを感じるタイプだ。だから自室に篭った真緒に会うのは、極力自重してはいたのだが。

「いーよー。入って」

 フラットな声が部屋から聞こえた。

 レオンは巨体を屈めて部屋へと入る。浅築のマンションで、昨今の多様性を考慮して建てられた天井の高めの物件だが、190cmを超えるレオンにはまだ天井が低い。やはり家は自ら建てねば。

「なぁに?」

 紺色のシルクの寝巻姿で腰に手を当て、ベッドに並べられた四角く畳まれた布たち─この国では「着物」という─を眺めていたらしい。

「明日のメシ。スクランブルかベーコンエッグにするか聞くの忘れてた。すまん」

「あー……。そういえば聞かれなかったね」

 くりくりした眼を天井に向け、考えること10秒。

「目玉焼きが食べたい」

「あいよ。それ明日の服か?」

 あっさり決まった朝食の件を脇に追いやり、レオンは真緒の横に並んだ。

「そう。明日からゴールデンウイークでしょ? もう単にしちゃっていいかなぁって」

 でもまだ4月ではあるし。そこが悩みどころなの。

 真緒は季節を大切にする以上に、人と違うことをして変に目立つのを極端に嫌う節がある。単は教科書通りに行くと、6月からの着物だ。今は暑さもある5月から単を着る者も多いが、末とはいえ暦はまだ4月の明日に、単を着てもいいものか。そう悩んでいるのだ。

「いいんじゃねぇの? 誰も裾回りなんざ気にしねぇよ。寒けりゃ袷の襦袢を着りゃあいい。それより、着たいんだろ。その単」

 真緒のベッドには、レオンが最近ネットでよく見せられていた単が一枚、真ん中に置かれている。赤紫を基調に美しい縞のグラデーションの入った、遠州の綿紬だ。昨年ネットでオーダーしたものが、やっと真緒の手元に届いたのだ。

「にへぇ。わかる?」

 普段はアルカイックスマイルの、「自分」の感情を表に出さない真緒だが、今は口元ににんまりとした笑みを作っていた。

「その顔見りゃあな。いいじゃねぇか、新しい着物で客を出迎える。ゴールデンウイークの初日にはピッタリだろ」

「ほんと? じゃあそうする。帯はやっぱり黒かなぁ。同系色でまとめても可愛いんだけど」

 クローゼットの中にみっしりと詰まっている衣装ケースから帯を引っ張り出し、ああでもないこうでもないとコーディネートを始め出した。帯も帯で、半幅帯から名古屋帯まであるものだから、たちまちベッドは布で溢れかえる。

 真緒のコーディネートで、収集がつきそうにない時、レオンはこう言うことにしている。

「店長としての威厳を持たせるなら黒。だがお太鼓でお堅くしてたんじゃ客も緊張しちまうから半幅。着物の柄が地味だから華やかな柄がいいと思うぜ?」

 結婚5年目にして身につけた術である。

「そっか。じゃあこれかこれのどっちか。明日の気分で決めようっと。ありがと」

 真緒は素直にレオンの言葉を聞き入れ、手早く古典的な花柄と七宝柄の黒地の半幅帯を選び、ぱたぱたと他の帯と着物をしまいはじめた。

「そろそろ10時だぞ」

「ん。そっちで寝る」

 明日の準備を終えた真緒は、部屋を出るレオンにとことことついていった。


 朝。2人ぶんのアラームで目を覚ましたレオンは、だだっ広い天井を見上げて「棺より全然寝やすいな」と、ベッドで寝始めてから何十度目かの感想を抱いた。隣でむうむう寝ぼけている真緒を置いて、ベッドから抜け出す。

 500年前、レオンは棺で寝ていた。それは吸血鬼である彼にとってデフォルトで、伝統で、習慣だった。それが寝ている間に盗賊の手によって棺ごと盗まれ、気が付いたら長崎の小さな港にいた。棺を開けた宣教師の腰を抜かして驚いた顔を今でも思い出す。

 真緒にこの話をすると、気が付かなかったの? 船だよ? 今と違って数週間とか数ヶ月かかってるんだよ? 揺れるよ? どんだけ眠かったの? とものすごいツッコミを食らった。

 そこでレオンは吸血鬼には冬眠のような時期が周期的にくること、その時期に下手に目を覚ますと、体調を崩し、普段より多くの血が必要になることを説明した。真緒はふぅん? と不承不承納得した感じだった。


 顔を洗いシャツとスラックスに着替え、真緒が縫ってくれたエプロンを身につける。濃紺の綿のやや厚手のエプロンで、太い針でひと針ひと針丁寧に縫われているそれは、体格のいいレオンにぴったり寄り添っていた。

 手早くレタスを千切り、スプラウトを乗せてクルトンをひとふり。フライパンを取り出し、厚めのベーコンにじっくりと火を通す。焼けたベーコンを一度皿によけて、その脂で目玉焼きを四つ焼く。冷凍のクロワッサンを電子レンジで解凍し、グリルで少々温める。横に切れ目を入れてたっぷりバターを塗る。電気ケトルで沸かした湯で、挽きたてのコーヒーを淹れる頃に真緒がキッチンへとやって来た。昨日選んだ遠州の綿紬に、七宝柄の黒帯を締めている。

「おはよう」

「おう。ちょうどできたぜ。着物、いい感じじゃねぇか」

「うん」

 食事をテーブルに並べるのを手伝って、真緒はレオンの向かい側の椅子に座る。

「いただきます」

 真緒がレオンより幾分も小さな手を合わせて食事のあいさつをした。


 吸血鬼は基本的に食事は必要ない。月に数度の吸血で、生きていく栄養が全て賄えるからだ。真緒もレオンに血を吸われた処女だから、半人前とはいえ、輸血パック数個で生きていける。

 だが、それでは寂しい、生活リズムが整わない、と真緒が言い出し、朝は6時に起き、朝食をとり、昼食は職場で、夕食は2人揃ったときにとり、夜はレオンが遅くならない限りは10時に寝るという、真緒の「元人間」のスケジュールが取り入れられた。レオンは当初、好きな時に寝起きできないのは面倒臭いと思っていたが、東京が江戸と呼ばれてた頃、人に紛れて生きていた頃の生活と変わりないと割り切り、結婚してからこの生活を続けている。まぁ人間の食事は美味いし、料理は面白いと思っているし、それを食べた真緒の血も美味いので結果オーライなのだが。

 この生活を提案したのは真緒だが、真緒は滅多に食事を作らない。野菜スープやホットケーキなどシンプルなものは気まぐれに作るが、1回の食事を全て真緒が担うことはなかった。真緒曰く「美味しいものは食べたいけど、自分ではそこに至らないし、作る労力に見合う見返りが皆無だと作る気失せるのよね。血を分けた家族でさえ美味いまずいいただきますごちそうさま片付けやるよの一言でもくれた人いないんだもん」

 母親を早くに亡くしたこの家族は、真緒が料理を作るのが当然すぎていて、また、父が再婚しても古風な風習が根付いており、きょうだいでひとり女子であった真緒に家事の全てを押しつけていた。父も義母も男兄弟も、真緒が仕事を持ち始めるまで何度頼んでも皿拭きの一つも手伝わなかった。レオンと結婚して家を出た真緒は、その後家族がどうやって生活しているか知らないという。

 

「ん〜、クロワッサンさくさくで美味しい。ここの冷凍は当たりだね。目玉焼きもいい感じでとろとろだし、レオンほんと料理上手だね」

 満面の笑みを浮かべて朝食を平らげる真緒。レオンが作る朝食のレパートリーは少ないが、毎回違う部分を褒めたり感想を言ったりする。気分の優れない日でも、最低でもありがとう、ごちそうさまを言う。これが十数年間1回もなかったなら、さすがに料理をするのが嫌になるだろう。コーヒーを飲み干してごちそうさまと満足そうに言う。食べ終えた皿の汚れを軽く拭き取り、食洗機に食器を入れるのは真緒の仕事だ。ウィンウィンと快調に動く機械を見て、これがあったら楽だったのになぁとときどき零す。そんなとき、レオンは真緒の額に軽くキスをして今はあるだろ?と慰める。過去の傷は時間をかけないと癒えないものだ。


 花のレースの黒羽織を羽織って、真緒は出勤の準備をする。愛用の山葡萄の籠バッグに、タブレットとスマートフォンと化粧ポーチ、念のためのメモ帳と筆記用具を入れ、スーツ姿に身を固めたレオンに手渡す。レオンは恭しくバッグを受け取り、玄関へと向かう。

「今日の草履は?」

「赤い鼻緒の烏表」

「かしこまり」

 レオンはシューズボックスから烏表の草履を出すと、真緒の前へ出した。自分の靴も出し、靴べらを使ってするりと履く。その間に真緒も草履を履いて、玄関ポーチがやや狭くなった。

「じゃ、行こうか」

「おう」

 オートロックの扉を開けて、2人仲良く出勤する。レオンは山寺の参道にある真緒の営む店まで、彼女を送ってから、通りを2本行ったところにある自分の勤める不動産屋へと向かうのが日課だ。

 しっかり手を繋ぐのは恥ずかしいからと言う真緒の文句に、レオンは妥協案として自分の左の薬指と小指を真緒に握らせ、通りを歩く。だいたい毎朝同じ時間に出るので、朝に出会う人々もだいたい決まっていた。

「あら九十九やさん。今朝も仲良しねぇ」

「よう市村さん! いいワインが入りましたよ! 奥さんも日本酒どうだい?」

 九十九やは真緒の店の屋号で、市村はこの夫婦の姓である。よそゆきの笑みを浮かべて2人は朝のやりとりをそつなくこなす。

 参道の中腹にある店の引き戸の鍵を開けて、真緒が中に入る。

「んじゃ、ほどほどに稼げよ?」

「うん、レオンも車の運転気をつけて」

 レオンは体を屈め、真緒はうんと背伸びをして、互いの耳元に、キスをする。

 ゴールデンウイークは、始まったばかりだ。

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