第6話:アード

 これから先、なんでも一つ言うことを聞く。

 もう二度と浮気はしない。


 そう約束させられて、アードは婚約者であるレイナ・ソファンの部屋をあとにした。

 腹の底が煮えくり返るようだった。なぜ自分が、レイナなんぞに頭を下げなくてはならないのか。


 それもこれも、あの不気味な執事が傍に控えているせいである。

 得体の知れない気配を放つあいつさえ近くにいなければ、もっと強い態度で脅してレイナに命令できたのに。


「クソがッ! 大体あいつめ、主人は敬うものだろうに……」


 破棄しようとはしたが、アードはレイナの婚約者だ。

 それならば、あのトリッドダストなどという妙な名前の執事の主人は、自分だと言っても差し支えない。


 それなのにいつも、あの男はアードのことを、まるで敵であるかのように冷ややかな視線で射抜くのだ。


「まったく、これだから下賤な生まれの者は……」


 トリッドダストの出自をアードは知らない。

 なんでも、レイナの祖父がどこからか連れてきたのだという。恐らくは、スラム辺りで拾ったのでは? とアードは思う。


 そんな得体の知れない男を執事として雇っているのだ。

 やはりソファン家の人間には、ひとを見る目がないのだろう。


 アードのような優秀な男と、レイナみたいな愚鈍な娘を婚約させてもらっているのだ。

 もっと皆、自分に頭を下げて、常に敬うべきであるはずなのに。


「あの女は、いつもそうだ……」


 そもそもレイナからして、アードに対する礼儀というものがなっていない。

 婚約者である自分と会うのに、傍に男を侍らせているとは何事だろうか? それこそ浮気ではないのだろうか?


 ――いや、違う。そうではない。

 アードは親に押しつけられた婚約ではなく、真実の愛を探していただけだ。それは浮気とはいえない。

 彼という優秀な男に対し、相応しい妻を見繕っていただけ。今回は運悪く騙されてしまったが。


 アードにはまったく落ち度などない。

 浮気をしているのはレイナのほうだ。


 ……自分はメイドを”手付き”にしたりしているが、もしやレイナもあの男と体の関係を持っていたりはしないだろうか? もしそうなら父上に言いつけたあと、炎の魔術で焼き殺してやる。


「チッ、そういえば、あいつはガキのときからそうだった……」


 むしゃくしゃして、アードは独り言の合間に舌打ちをした。

 レイナが十歳の誕生日パーティを思い出し、苦々しげに顔をしかめる。


 婚約者ならば仕方ないから仲良くしてやろう――と話しかけてやったアードに対し、あの女はあろうことか文句を言ってきたのだった。邪魔なぬいぐるみをどけただけなのに、まるで親の仇のように睨まれた。


「フン。やはり、あの女は俺に相応しくない」


 ブツブツと独り言を続けながら、アードはふと目に付いた銀の燭台をさっと懐に仕舞い込んだ。廊下の調度品である。街で売れば、はした金にはなるだろう。


 なにしろ今、アードの財布の中身は少し寂しい。

 ヨハンの手下であった馬鹿女のシルヴィア嬢を相手に、見栄を張るため使いすぎたのだ。

 事情が事情だけに、こづかいの追加を父上に申し出るわけにもいかない。せめて酒代くらいは確保しておきたかった。


「――アード様、それはなさらないほうがよろしいかと」


「ッ!? なぁッ!?」


 ふいに背後から声をかけられ、アードはびくりと跳ね上がるように振り返った。

 そこには、いつもの冷ややかな薄青い瞳でこちらを見やる執事の男の姿があった。

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