悪役令嬢は自称・転生者の夫に溺愛される ~どうやら破滅は回避したようです~
岡崎マサムネ
転生者 Side:フェリシア
「フェリシア、今日も美しいですね。ああ、我が愛よ」
「……おはようございます、旦那様」
朝から過剰な賛美と共に跪き、恭しく私の手の甲に口づけるのは、メイガス公爵。
眩しいほどに輝く白金の髪に、金色の瞳。すらりとした長身、長い手足。
少々エキセントリックな中身を差し置けば、文句のつけようのないほどの美男子である。
彼は、私の新しい婚約者であった。
銀縁の眼鏡の奥で蕩けるように細められた視線に、耐えられなくなって目を逸らす。
初対面のときから激しく求婚され、私は当時の婚約者と別れて……半ば強引に別れさせられて、今に至っている。
彼はある時、こう言った。
「あの男はきっと、貴女を裏切ります。そんな男と一緒にいては、貴女はきっと不幸になってしまう。僕なら決して貴女を悲しませたりしないのに」
最初は何を言っているのだろうと思っていた。
当時の婚約者とは家族ぐるみで長い付き合いがあり、良好な関係を築いていたからだ。
家柄も釣り合いが取れているし、婚約者本人も少々気は弱いが優しい人間だった。きっと私は彼を愛することができるだろうと思っていた。
両親も私も、婚約者のもとへ嫁ぐことが幸せであると、信じて疑わなかったのだ。
対して、メイガス公爵は家柄と見た目は良いものの、変わり者として有名であった。
突飛な発明をしてどんどんと財産を増やし、人々の生活を豊かにしているという意味では立派な人物だったが……貴族としては、正直あまり関わりあいにならない方がよい相手だ。
そもそもまともな貴族ならば、婚約者のいる相手に求婚したりしないだろう。
私の両親も、友人たちも。彼に付きまとわれる私を憐れんでいた。
相手が変わり者だけに、不貞を疑われるようなことがなかったのは救いだったが。
その頃は私自身も、早く彼が飽きてくれないものだろうかと困惑していた。
〇 〇 〇
事態が急変したのは、私が彼と出会って数か月が過ぎたころだ。
私の婚約者が、他の女性と親しくしているという噂が流れ始めた。しかもそれが、ずいぶんと身分の低い……一代限りの男爵位しか持たぬ家の娘だという。
最初は単なる噂に過ぎないと、すぐに消えるだろうと一笑に付していたのだが……噂話は消えるどころか、どんどんと具体性のあるものとして広がっていくばかりだった。
そしてその日はやってきた。
婚約者のエスコートで参加したパーティー。
そこで、歩いてきた令嬢にぶつかられたのだ。
その令嬢は、大袈裟なくらいの音と悲鳴と共に床に転がった。
私は驚いてしまって、一瞬反応が遅れた。
だってほとんど、相手からぶつかってきたようなもので……さほど勢いもなかったのに。
手を差し伸べようとしたところで、また一瞬、身体が固まる。
その令嬢が……婚約者と噂になっている、例の男爵令嬢だったからだ。
「ローラ!」
私の隣にいた、婚約者は。
倒れた男爵令嬢の元に、駆け寄った。
どうしてかしら。
どう考えても、パートナーである私の身を案じて。
その後で、あの子を助け起こすのが、正しい手順でしょうに。
婚約者の彼は、男爵令嬢をそっと優しく抱き起こしながら、私のことを睨みつけた。
「フェリシア! どういうつもりだ!」
「どういう、?」
「ローラにわざとぶつかっただろう!」
彼はまるで糾弾するかのように、私を怒鳴りつけた。
そんなふうに強く言われる理由が思いつかなくて、咄嗟にどうしていいか分からない。
「あの、あたしは大丈夫ですから……」
「いいや、この際だから言わせてもらう!」
彼は男爵令嬢を庇うように背中に庇いながら、立ち上がった。
自分よりも背の高い男性に、このように居丈高に詰め寄られることは初めてだった。
「もうたくさんだ! 今日だけじゃない、ローラに嫌がらせばかりして。何か文句があるなら彼女ではなく俺に直接言えば良いだろう!」
「お、お待ちください、嫌がらせ? 何のことだか、私には」
「とぼけるな!」
語気を荒げてぴしゃりと跳ね除けられる。
恐ろしくて、声が出ない。
少々気が弱いけれど、優しい人だと思っていたのに。
私を怒鳴りつける彼が、まったく知らない人のように思えて……どうすればいいのか、頭が回らない。
「全部ローラから聞いているぞ! 彼女の悪口を言いふらしたりドレスを汚したり、果ては男を雇って彼女を傷つけようとしたと!」
「そんな、私は何も知りません!」
「まだ言うか!」
「きゃっ」
伸ばした私の手を、彼が音を立てて振り払った。
それは明確な、拒絶だった。
「もういい。もともと気位が高いところが気に入らなかったんだ。君との婚約は解消させてもらう!」
その言葉に、頭の中が真っ白になる。
そんな、私は、本当に何も知らないのに。
目の前にいるはずの……泣きじゃくる男爵令嬢に寄り添う彼の姿が、ひどく遠のいていくように感じた。
それとは逆に、周囲のざわめきだけがやけに大きく、くっきりと聴こえてくる。
皆、私が男爵令嬢に嫉妬して、ひどいことをしたのだと。
そう話しているように感じられた。
彼は憎しみを宿した目を私に向けていて、男爵令嬢はさめざめと泣くばかりだ。
周囲の好奇の視線だけが強くなっていく。
今この場所に、私の味方は誰もいない。
その事実を突きつけられて――ふらりと気が遠くなりかけた、その瞬間。
「失礼。少しよろしいですか?」
「……メイガス公爵。何でしょうか」
私の肩を支えるように……メイガス公爵が歩み出た。
眼鏡の奥で瞳を細め、薄く笑う。
「この茶番、僕、いつまで見てないといけません?」
「な、」
メイガス公爵の言葉に、彼が言葉を詰まらせる。
みるみるうちに彼の顔が真っ赤になっていった。
「茶番だと!? 貴方もローラが嘘をついていると言うんですか!?」
「嘘というか。だってこれ、全部ローラ嬢の筋書きじゃありませんか」
「……は?」
にっこりと笑ったメイガス公爵。
しんと周囲が静まり返った。
「言葉で話しても信じてもらえないかと思いますので、こちらをどうぞ。ああ、これ写真っていうんです。僕の発明品なんですけれどね。絵と違って、真実を写すものですから、本当に起きたことしか描けないのが難点ですが」
メイガス公爵が懐から取り出した紙をばら撒いた。
そこに写っているのは、婚約者の彼と身を寄せ合う男爵令嬢の姿。
寄り添っているどころではなく……もっと直接的なものまであった。
とても絵とは思えない精巧な出来栄えで……作り物だとは思えない、説得力がある。
周囲にどよめきが広がる。
その写真とやらには……男爵令嬢が、他の男性と仲睦まじくしている姿も収められていたからだ。
「銀と銅が必要ですし、レンズもかなり透明度の高いガラスを加工していて。結構高いんですよ。まぁ、僕にとっては銀もガラスも、札束も。パピルスと大差ありませんけどね」
どこからそんなに大量の紙が出てくるのか、胸ポケットからさらに何枚もの写真を取り出した。
「これが自分のドレスをわざと汚すローラ嬢。貴方は偶然だと思ったかもしれませんが、彼女は貴方が来るのを見計らっていたんですよ」
婚約者の彼が、腕の中にいるローラ嬢に視線を向ける。
ローラ嬢は顔を青くして、首を振っていた。
「ああ、これは街で男性に絡まれていたローラ嬢を貴方が助けたところですね。ローラ嬢は何でもフェリシア嬢の指示で襲われかけた、と言っていたそうですが……はて。ではどうしてローラ嬢が、その男たちと仲良くお茶をしている写真があるのでしょうね?」
「ち、違います、わたし……!」
「これが君と熱烈なキッスを交わすローラ嬢、そしてこちらが協力してくれる殿方に熱烈なキッスをお見舞いするローラ嬢」
「ローラ……?」
「違うんです、伯爵様!」
「もっと濃厚なのもありますけど、ご覧になります? 僕はお勧めしませんが」
メイガス公爵が薄く笑って、ゆるゆると首を振る。
「全てそこのローラ嬢の計画したことでした。それはそうでしょうね、一代限りの貴族の娘が、これからも貴族として暮らしていくことを望むなら、貴族に嫁入りすることが最も手っ取り早いですから。……多少強引な手段を、使ってでも」
ローラ嬢は、違うんです、を繰り返しながら、さめざめと泣いていた。
だが、もう誰も……彼女に同情していない。
先ほどまで私に向いていた、好奇と嘲笑の視線は――いつの間にか、ローラ嬢に向けられていた。
「彼女の涙ぐましいばかりの努力の結晶。たくさん集めましたよ。努力は美徳だと考える人間が多いそうですね? それなら彼女の行動はまさに美しく、賞賛されるべきものなのでしょう。僕は結果が全てだと思いますけれど」
さて。
そう言って、メイガス公爵が手を叩く。
そしてこちらを振り返って、私を見つめた。
普段私に向ける笑顔とは違う……真剣な表情をしている。
「フェリシア嬢。貴女はどうしたい?」
「え、」
「貴女の婚約者を騙したのはローラ嬢です。婚約者を誑かした泥棒猫です。彼女には貴女を貶めようと言う悪意がありましたし、同情の余地はないかもしれません」
メイガス公爵に言われて、ローラ嬢に視線を向けた。
私の婚約者の胸に顔を埋めて泣く彼女に……きっと怒るべきなのだろうが、驚くほど、何の感情も湧かなかった。
「ですが彼は騙された側です。貴女が許すと言うのなら、きっとまだやり直せる」
「フェリシア、……」
彼が私の名前を呼んだ。
婚約者である私の前で、他の女に縋りつかれておいて……振り払うこともせず、そのまま。
呆然と、私を見上げていた。
「フェリシア嬢。僕が言ったことを、覚えていますか?」
メイガス公爵の言葉に、思い出す。
彼はきっと私を裏切ると。私を不幸にすると。
そう忠告されていたことを
「騙されていたとはいえ、彼が貴女を裏切ったことは事実です」
「違う、違うんだ、フェリシア。俺はどうかしていた」
「彼を許して、結婚して。それが幸せだと貴女が心から思えるのなら、僕はその選択を応援します」
言い募る婚約者の声は、どこかくぐもっていて、まともに頭に入ってこない。
だけれどメイガス公爵の言葉は……よく通るその声は、しっかりと私の脳まで届いていた。
「けれどもし、そうでないなら」
「私、は……」
ぺたりと、その場に座り込んだ。
涙が一筋、頬を伝う。
きっと怒るべきなのだろう。
ひどいと彼を詰るべきなのだろう。
そんな男こちらから願い下げだと糾弾すべきなのだろう。
だけれど……私の頭に浮かんだのは、ただ。
「もう彼を信じられません……きっと、もう、二度と」
どうしたい、という問いかけに答えられないほどの……失望だった。
〇 〇 〇
呆然とするばかりで、その後のことはよく覚えていない。
聞いた話では、動けなくなってしまった私たち当事者の代わりに、メイガス公爵がてきぱきとその場を取り仕切って、事態は収拾したのだという。
私の婚約は白紙になった。
あれだけの騒ぎを起こしたのだ。当然だと思う。
メイガス公爵が私の両親に婚約撤回の助言をしたことも大きかったと聞いている。
今にして思えば、その時の私はまともな判断が出来る状態ではなかったので……無理矢理にでも彼から離れさせてくれたのは、ありがたいことだった。
メイガス公爵は以前にもまして、私の元へと足繁く通った。
両親も、今や恩人となった彼が私に求婚していたことを知っていたので、何も言わなかった。
彼は変わり者ではあったけれど……ふたりきりでゆっくりと話してみると、少々エキセントリックなだけで、まともな男性だった。
私を楽しませようと突飛な発明品を持ってきたり、実験で失敗した話を聞かせてくれたり。
彼の話を聞くのは面白く……いつしか私も、彼に心を許していた。
ある日ふと、疑問に思っていたことを口にした。
「どうして公爵様には、彼が裏切ると分かったのですか?」
私の問いかけに、彼は困ったように微笑んだ。
そして言いにくそうに眼鏡の位置を直してから、口を開く。
「僕は転生者なんです。貴女の未来を知っていたんですよ、フェリシア」
彼の話した内容は、今まで聞いたどんな発明品の話よりも突拍子もないものだった。
彼はここではない別の世界で生きた記憶があり、そのときにこの世界とそっくりな物語を読んだのだと言う。
その物語には私や私の婚約者、ローラ嬢が登場していた。
名前も見た目も本の通りだったので、すぐにわかったそうだ。
「貴女は悪役令嬢だったんです、フェリシア」
「あくやく、れいじょう?」
「本当はあのパーティーで悪者として断罪されて、婚約を破棄されて。そのあとは破滅の道を辿る。そういう筋書きでした」
転生? 悪役令嬢? 断罪? 破滅?
その言葉はまったく馴染みのないもので、言葉の意味自体は分かっても、彼の言いたいことがうまく理解できなかった。
彼はとんでもなく頭が良いので、時折私には想像もつかない話をすることも多かったが……今回のそれは、その範疇すら超えていた。
「信じられない?」
困ったように笑う彼に、私は躊躇いながらも頷いた。
「ええ、だって、そんな話……お伽話でしか聞いたことがありませんもの」
「ですが、そうでもなければ僕が貴女に忠告したことに、説明がつかない。そうでしょう?」
確かに、そうかもしれない。
婚約者の彼は、気が弱いけれど優しい人だった。
その彼が私や家族の信頼を裏切るなどと、考えてもみなかったことだ。
何故、まだ何も起きる前の段階からメイガス公爵がそれを言い当てて忠告し……事前にあんなにたくさんの証拠を集めて、あの場から私を助け出すことができたのか。
頭がいいというだけでは、説明がつかない。
どんなに考えてみても……「最初から起きることを知っていた」以外に、理由が思いつかなかった。
転生がどうとか、物語の世界だとか。
それはまだ信じられないが……彼があの出来事を予測していたことは、どうやら事実であるらしい。
「ここが物語の世界だと気づいた時には、僕も貴女がローラ嬢に意地悪をするのだろうと思っていました。だから、断罪されるのだと。ですが、初めて貴女を見た時、分かったのです。こんなにも美しいひとが、つまらない悪事をするはずがないと」
彼がとろけるように瞳を細めて、私を見つめた。
ストレートな褒め言葉に、かっと頬が熱くなる。
そしてその言葉は……あの日の私が欲しかったものだった。
どうしたい、の答えが、やっと分かった気がした。
私は信じて欲しかったのだ。
私がそんなことを、するはずがないと。
「それで、貴女に忠告してみたりしたんですけれど。当たり前ですが信じてもらえなかったので、僕なりに調べてみたんです。貴女が物語の通りに断罪された時に……助けられるように」
彼が立ち上がって、私の傍へと歩み寄った。
そして跪いて、肘掛けに置いた私の手に、自分のそれを重ねた。
冷たい手だったが、嫌悪感はなかった。
「おかげで写真の技術も実用化レベルにまで向上させることができました。ああ、あの発明品も実は、転生前の記憶を頼りに作っているんです。うろ覚えのものは失敗してしまうことも多いですが」
「どうして、」
震える唇から、掠れた声が出た。
彼が悪いわけではない、それは分かっている。
だがそれでも、思ってしまった。
初めからすべて分かっていたなら……もっと違う道が、あったのではないかと。
「どうして、初めからそう言ってくださらなかったのですか?」
「だって、こんな話信じてもらえないと思いましたし……それに」
彼はふっと目を伏せた。
長い睫毛が、金色の瞳を覆い隠す。
いつも優しく微笑んでいる彼の見慣れない表情に、どきりと胸が高鳴る。
「貴女に変な誤解をされたくなかったのです」
「誤解?」
「貴女の未来を知って同情しているから優しくするんだ、とか。そういう誤解です」
言われて、言葉に詰まる。
もし彼から先に未来の話をされていたとして……仮にそれを私が信じたとして。
彼のくれる言葉を、同情と思わずに受け取れたかどうかは……自信がなかったからだ。
「僕は貴女のことを愛しているから、こうして貴女の幸せのために尽くしているのに。それを同情にすり替えられたら、悲しくてたまりませんから」
彼が私を見上げる。
レンズ越しの瞳は、とても真摯な輝きを宿していて……どんどんと鼓動がうるさくなる。
「一目惚れだったんです、フェリシア。僕は貴女のためだと言いながら……貴女の愛を得るために行動してきただけの、下心にまみれた男です」
ふっと彼が眉を下げた。
少し自信のなさそうな仕草で、おずおずと上目遣いで私を見るその仕草に、心臓が跳ねた。
変わり者で、いつも優しく笑っている彼が、こんな顔をするなんて。
「失望しました?」
「……いいえ」
むしろ、逆だった。
その日、私は完全に、彼に心を掴まれてしまったのだ。
そこから私が彼の愛情を受け入れ、婚約するまでに……そう時間はかからなかった。
〇 〇 〇
婚約してからの彼はまさに溺愛という言葉がぴったりくるくらいの愛情過剰っぷりで、会うたびに私を甘やかした。
耽溺していると言って差し支えない。
きっと傷ついた私のことを気遣ってくれているのだろう。
全部僕がやるからと言ってきかない彼のせいで、ふたりのときは横の物を縦にもしない日々を送っている。
だがそれも……彼が私を不安にさせないように愛情表現をしてくれているのだと思えば、そう悪くはなかった。
彼は言葉通り、彼の手を取った私を不幸にしないために行動してくれていた。
私は、幸せだった。
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