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「もう、三メートルの距離を
不機嫌そうにタイガが言うと、アップルちゃんは距離をつめた。
「これくらいでよろしいですか?」
「誰も腕と腕がくっつくまで近づけって言ってないよ」
「では……」アップルちゃんは一歩横にずれた。「これくらいですか?」
「うん。そこでいいよ。ありがとう」
なんだかんだとやりとりをしながら、ふたりはL字路を曲がった。緑色の街灯が目印だ。すると、前方に人影が。こちらをじっと見ている。
「タイガさま、ミーの後ろに」アップルちゃんは前に出てタイガを
しかしタイガは気を許した様子で、前方の人物に声を投げた。
「サクラじゃないか。どうしたの? こんなところで」
「お兄ちゃんを迎えにきた。さっきまで友達の家で遊んでたの。そのついでだよ」
お兄ちゃん……? 最近はタイガと呼び捨てにしていたような……。若干の違和感を覚えつつも、タイガは歩み寄る。
「ありがとう。他には誰もいないの?」
セリカとか、アイリーシャとか。
「うん。私ひとりだよ」
「そっか。わざわざありがとうね」
「ねぇ。おトイレ行きたい。友達の家でおしっこできなかったの。恥ずかしくて。だから、おトイレ行きたい」
そっか……、とタイガはあたりを見渡した。いつもの公園がこの近くにあるのを思い出した。体操界の神童が自主練習をしている公園だ。
「むこうの公園に行く?」
「うん。行く」
「じゃ、そういうことだから……」
タイガはアップルちゃんを
「もちろんです。すぐに参りましょう」
サクラが公園のトイレに入ってから、アップルちゃんも
「ふう……」公園のトイレ前でタイガはひとり。「いまのうちに僕も行っておこうかな」
そうつぶやいてからすぐに、サクラが戻った。
「お、サクラ。おかえり」
「ただいま」
「いまアップルちゃんを待っているから」
「そ」
「うん」
「ねぇ」
「ん?」
「お金持ちって、どんな気分?」
なにを言っているのだろう、この妹は。
自分だってイヴァンツデール家の
「どうって……」
返答に困る。
「貧しい人の気持ちなんか。わからないわよ。——わかんねぇよなぁ? タイガ・イヴァンツデール」
はっ、とした瞬間。
タイガは手首にちくりと痛みを感じた。
それから視界がぐるぐると回転して。
ばたり、と音がした。
それはたぶん自分が倒れた音。
サクラの姿をしたなにかは、一度どろどろに溶けて銀一色の液体に変化した。それから半秒もしないうちにソクラの姿に変わった。服からなにから、すべてを模倣している。
地面に倒れたタイガを両腕に抱えて。
「こんなところで倒れるなんて。困った子だな」
通りがかりの奥様がそれを見かけて。
「あら、どうかなさいました? 具合でも悪いのです?」
「いえ。うちの子、風邪がまだよく治っていないのです。それなのに無理をして出歩くから、高熱をぶりかえして……。これから病院に連れて行きます」
「そうなんですね。優しいお父上ですこと。どうぞ、お大事に」
「ありがとうございます」
人気がない場所にゴミ箱を用意しておいた。その中にタイガを詰めこむ。あとは楽だ。清掃員のふりをして、二〇〇メートルさきに停めた商用バンまで運ぶだけ。青い制服と青い帽子が世間に溶けこんでいる。
「車を盗むのも、ばかを一匹拐うのも簡単すぎてあくびがでる。どうせ世間が騒ぐのに、こそこそとすることもないけど。バレるかバレないかのスリルを味わいたいんだよ。せっかくならね」
液体金属によって全身の
そして地面に落ちている小さな注射器を見つけた。
全身の血の気が、さー……、と引く感覚がした。
「ぎゃー! 城ノ藤いいぃぃ!」
リビングのテレビにかじりつくアイリーシャの絶叫ときたら、それはもう凄まじいものであり。
——夕方のニュースです。
いつもの女性キャスターがテレビに映った。つらつらと慣れた様子でニュースを伝えている。すでにアイリーシャはテレビに興味はない様子だ。しかし、ソファでチョコレートをつまんでいたサクラの表情が一変した。
「ねぇ……、ねぇ!」サクラはテレビを指差す。「いまニュースで流れてる死んだ人、このあいだ山ですれ違った人じゃん!」
え……、とアイリーシャは画面を確認する。夕食の準備をしていたセリカも手を止めた。エプロンで濡れた手を拭きながら、すぐにテレビの前に立った。
キャスターは淡々と伝える——その男性は山道から外れた森の中に倒れていた。死因は
——全身に
ざっ、ざっ、と画面にノイズが走りはじめた。ついには砂嵐だけの映像になってしまった。それから数秒後に映像は復旧した。が、流れたのは、ノートパソコンのインカメラ映像をそのまま流したような、雑な映像であった。とてもテレビ局が放映しているものとは思えない。
「あー、あー。こんばんは。僕は人間社会から追放されたアンドロイド。ReT-1500です。レットと呼んでください。ビスクドールと政府のみなさんはご存知でしょうけども。軍用として極秘開発されていたステルス兵器型です」
どうしたことか。自らをアンドロイドと名乗っているのは、タイガではないか。画面にはタイガの姿が映っている。
がさごそとパソコンが動かされた音。映像がかたむく。芝生のようなもの、金網のフェンスのようなもの、そしてコンクリートの壁が映った。パソコンの位置がぴたりと固定され、最後に映ったのは地面に寝そべるタイガであった。
両手両足を縛られ、ぐったりと倒れている。それはたったいまレットと名乗ったタイガとは別物あろう。明らかに倒れている方が本物なのだ。それ以外に考えられない。
「こいつ、金持ちらしいから拐ってみた」
レットの顔が画面に映りこんだ。元気なタイガと、ぐったりとしたタイガが同時に映っている。
「警察でも誰でもいいや。お金を持ってきてよ。ものすごく、ものすごい額。アンドロイドがむこう二〇〇年はメンテナンスに困らない額でいいよ。ここはテレビの中継局。いわゆる電波塔だ。勝手にハッキングさせてもらったよ。たくさんの人に聞いてほしかったからね。ちゃんと金を持ってこないと、ここにいるイヴァンツデールの子供は死ぬし。手当たり次第に市民を殺して歩いてもいいさ」
ジャックザリッパーみたいにね、とけらけらと笑いだした。冗談ではなさそうだ。
「ほら、街中が騒ぐんじゃない? 金をあいつに渡せ、渡さないとおれたちが殺されるかもしれないだろ、ってさ。ばかだから。人間なんてけっきょく、自分の
公共の電波を乗っ取り、言いたいだけを言った。この放送を見ていたほとんどの人間が、とても他人事のように思えなかった。明日にも大切な家族が殺されるかもしれない。毎朝顔を合わせる家族が、いつの間にかアンドロイドに変わっていて。そいつにいきなり殺されるかもしれない、と。
がたん、と椅子の転がる音がイヴァンツデール家のリビングに鳴った。セリカが慌てて走りだした際に椅子を倒してしまったのだ。
「セリカさん!」アイリーシャが呼び止める。
「セリカ! ちょっと!」サクラも声を投げる。
廊下を駆け抜けて、玄関に向かう最中、ドリシラもセリカを見かけた。
「あら、どうしたの? そんなに慌てて」
なにも答えず、玄関のドアも開けっぱなしにして。子を守る虎のような勢いそのままに、セリカはイヴァンツデールをあとにした。
「さーて、どうなるかな」レットは微笑み、「金なんか実際のところ、いくらでも手に入るんだよ。僕のカモフラージュで人間なんて簡単に騙せる。本当にばかばっかりだよ。人間はばか。ばーか。ばーか」
倒れたタイガに向かって、上から言葉を浴びせている。
「ちょっと飽きたんだよね。派手なことをしてみたかった。警察をがんがん出動させてさ。世間を騒がせてさ。ああ、アンドロイドが怖くて、夜も眠れないわぁ……! なんて」
ひとりごとを言い連ねるレット。話す内容によって警察官や、若い女性などに、ころころと姿を変えている。しかし最後はタイガの姿に戻った。それが、定位置であるかのように。
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