-10-
にこり、とフィリアは微笑む。
あとはなにも言わなかった。
その笑顔にはやはり、男心を掴む力がある。しかし見方によっては、軽くあしらわれているようにも思えてしまう。種々の欲をたぎらせて言い寄ってくる男を、道の小石のように蹴り転がしているような……。そう考えるのは
太く逞しい二本マフラーに似合わず、なだらかで物静かなエンジン音。回転する芸術のようなホイールが
「はぁ……」タイガは肩を落とした。「無理だよなぁ……。フィリアさんと恋仲になるなんて」
ばり、と首筋に音がした。
首が丸ごと焼けるような熱。
一度ひどい痛みに襲われ、
それからすぐに痛みがなくなった。
痛みどころか、なにも感じない。
頭と躰が離れたのではないか。
それくらいに全身の感覚が真っ白になった。
ここは人がほとんど歩いていない場所だ。
公園からも離れている。
住宅街といえばそうだ。
しかし、だからと言って、
タイガの首に電気ショックを与える人などいるだろうか。
「こいつが? タイガのイヴァンツデール?」
男は、地面に伏せるタイガの髪を鷲掴んで、まるで戦国時代の生首のようなあつかいをした。
「はっ」そしてゴミのように地面に投げ捨てる。タイガの頬がアスファルトにぶつかり、切り傷が生じた。「こんなの金になんのかよ」
「
もうひとりの男が言った。
「客っつったって。あんたにとっちゃただの金だろ」〇七型と呼ばれた男は言い返す。「てかさ、型番で呼ぶのやめてくんない?」
「どう呼ぼうが我の勝手だ。おまえよりスペックが上なのだから。上位下達の権限は我にある。さっさと連れていけ」
「あいよ……。われさま」
〇七型はタイガの腹に片手をまわして、そのまま肩に背負う。
「じゃ、行くわ」そして開いた片手で、西の方を指した。「あとのこと頼む」
車に乗るフィリアは、なぜかバックミラーが気になった。どうもざわざわとなにか動いているように見えたのだ。そこにはタイガひとりが映るはずだった。せいぜい見送るために手を振っているだろう、くらいに思っていた。
「止めて!」フィリアのひと声でセダンは急停車した。「タイガくんが……!」
そして有無を言わずにフィリアは車を降りた。
「お嬢さまっ!」
慌てた執事も車を降りてフィリアを追いかける。そして彼女の背中越しにいる男たちを確認した。センター分けの茶髪の男がタイガを片手で担いでいる。その傍らには見覚えのある姿。金髪で背の高い男がひとり。約六〇メートルの距離を全力で走り、フィリアは男たちに近づいた。
「うそ……、あなたなの?」
金髪の男に、フィリアが言った。
「なりません、お嬢さま!」
必死の執事が、フィリアを庇って間に立った。
「なつかしいな。あのクソガキか。
こんなことを言うようになったのか。本当に彼は、私の知っているアンドロイドなのだろうか。状況を飲みこめないフィリアの顔が歪んだ。
「アインなの?」当時の名前をフィリアは呼んだ。「あなた……、まだ生きていたの……?」
「人間というのは、おかしな生き物だ」アインは鼻で笑った。「事実を確認できているのに。改めて質問をして、さらなる確証を得ようとする。我が生きていることなど見ればわかるだろう」
横で話を聞いている〇七型がくすりと笑った。
「元気してた? とかいうのもそれだ」アインはそのままの口調で、「元気なことくらい見ればわかるだろうに。そんな
「タイガくんをどうするの」
フィリアは構わず一歩足を踏みだす。
「お嬢さま、危険です」
執事は足に力を入れて、その動きを遮った。
「どうするか……」アインは無表情に、「その質問の答えは簡単だ。こいつを盾に金を要求する。それだけだ。金さえ手に入れば、あとは逃してやってもいい。こいつに害はない」
「それなら私を拐えばいい」
フィリアは意を決して言った。
「だめです! お嬢さま!」
執事は全身を強ばらせた。アンドロイドがなにをしてきても、この命を捨てて、お嬢さまを守ると決めて。
「ほう……」アインは少々考えた。「それもありかもしれん。が、こいつでいいのだよ。もう捕らえたからな。我が必要とする金額を得るにはタイガ・イヴァンツデールで十分だ。それに、フィリア」
アインは一度顔を伏せた。
そして、憎悪に燃えたぎるような表情を持ち上げて、
——おまえの顔なんか二度と見たくないんだよ。スタンホープのクズが。
二台のアンドロイドは深くしゃがんでから、大きく跳ねた。高さ七メートルの跳躍を余裕で見せつけた。家々の屋根を足場にして、西の彼方に消えてゆく。
「す、すぐ、イヴァンツデールに知らせなければ!」執事は慌てて携帯を取りだした。「お嬢さまは早く、お車へお戻りください!」
「お嬢さま!」 執事は申し訳ないと思いつつも、ここは強めの口調で、「一刻を争います!」
その言葉にはっとしたフィリアは正気を戻した。
「私がイヴァンツデールに電話をします」フィリアはいつもの清閑な口調で、「あなたは警察に知らせて。あと、お父さまにも」
ここ最近、夕方五時を過ぎると、アイリーシャは日本のチャンネルをテレビに映す。だいたいこの時間帯になると、彼女が推しているお相撲さんが一番をとるのだ。
「くる、くるよ、そろそろくるよ……!」お目当てのお相撲さんがテレビに映った。「ぎゃー城ノ藤ぃぃい!」
いつのまにか必勝のハチマキを額に巻いて、手にはメガホンを持っている。そんなアイリーシャを、セリカは愛しい目で見つめる。
「もう、本当に好きなんですね。お相撲さん」セリカは野菜を切りながら、「いつか日本に旅行できたらいいですね」
「まじ! いつ!」
テレビに視線を投げつつ、アイリーシャは派手に反応した。
「いつか、です」
「いつかって、いつ!?」
「それはソクラさん次第かな?」
「明日がいい! 明日も城ノ藤が一番とるもの!」
「明日はさすがに無理じゃないかな」
はっけよーい……。
行司が掛け声をして。
——のこった!
それからアイリーシャの声にならない実況が挟まれ。
城ノ藤が場外に投げだされると同時に。
アイリーシャは屍のように沈んだ。
「あら……」
相撲に興味はない。が、その勝敗によって左右されるアイリーシャの反応に興味があったセリカは、包丁を握る手を止めた。
「負けちゃったのね」
テレビ画面を見なくとも、アイリーシャの様子で勝敗の行方がわかる。
「もっと体幹を強くしないとだめだよ。
するとリビングの電話が鳴った。
「あ、私が出るよ」
アイリーシャは、メガホンと必勝ハチマキを床に叩きつけながら電話に向かった。はい、はい……、としばらく話していたが、その表情は次第に蒼白してゆく。城ノ藤が負けたことなど、もはや気掛かりでもなんでもない。
「わかりました、すぐに」アイリーシャは受話器を置いて、「セリカさん、大変だ、どうしよう」
ただごとではないと察したセリカは料理をやめて、アイリーシャに近づいた。
「どうしたの? なにか……」
「タイガさまが……、拐われた」
玄関を出て、セリカはペンダントを握りしめた。
金色の球金属が熱く感じる。
——叶えたいと思うことにぶつかったとき。目を閉じて、願いごとを念じなさい。導きは音、導きはにおい、導きは光——
「導きは音……、導きはにおい……、導きは光……」
この言葉を誰に言われたのか、覚えてはいない。もしかすると自分が勝手に考えた言葉なのかもしれない。しかし外側から聞いた気がするのだ。優しい父のような人の声が耳に触れた記憶。霧にまみれた森の中を飛ぶ蛍の光のような記憶。それを自分はいつの間にか覚えていて、忘れていないのだと。
「タイガさまはどこ、教えて……」
昨日も無意識にこうしていた。
タイガの帰りが遅くて。
セリカは不安になって。
ペンダントを握っていた。
そうしたら見えたのだ。
薄暗い地下室に運ばれて。
手足を拘束されてゆくタイガの姿が。
「……」セリカは深く、深く目を閉じる。眉間にしわがよった。「家々の屋根を跳ねてゆく、ふたりのアンドロイド、タイガさまを抱えて、向かってゆく、場所は……」
すると玄関に他のみんなが顔をだした。
各々にサンダルや靴を履いて、セリカの背後に並ぶ。
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