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「ねぇ、どうしたらいいの!?」サクラの声が飛んでくる。「なにも履けないじゃん! セリカ、早くしてよー!」
このままでは、下着もなにも履けない。サクラはそう言ったのだ。しかしそれを聞いたソクラの耳は、まったく別の解釈をしてしまう。
「なにも、吐けない……。そんなに嘔吐してしまったのか!? これはノロか、ノロウイルスなのか!」
ソクラの顔面蒼白に拍車がかかった。
この瞬間、セリカはふと思った。このままノロウイルスのせいにしてしまえばいいのでは、と。ノロは感染力が非常に強い。それを理由にソクラが入室することを拒むのはごく自然であり、よほど説得力があるのではないか。
「そ、そうなんですご主人」腕の筋肉を
「そうさな……」ソクラの抵抗が弱まった。「たしかに、ここで私が倒れても困る。サクラの看病どころではなくなってしまうな……」
「そ、そうですよ、ご主人さま」
抵抗が若干弱まったのを感じたセリカは、羽交い締めを解こうとした。
「いや、イヴァンツデールたるもの菌が怖くて娘を守れるか!」
「ご主人さまっ!」
頑固なソクラを制止するのはやはり無理か、と内心落胆しながらセリカは再び腕に力を入れた。
「ええい! 行かせろ、セリカ!」
負けじとソクラも全身に力を入れる。
農業で鍛えた筋力は
「アイリーシャ、アイリーシャ!」セリカは大声で、「おまたを持ってきて、おまたを!」
「こんなときになにを言っている!」ソクラのテンションは変わらない。
前に進もうとするソクラ。
それを抑止するセリカ。
両者は、互いの筋力のかぎりを尽くした。
片手で金棒を振りまわすことができるセリカの方が、力の差では上まわっている。しかしソクラも負けてはいない。農作業では重たいものを運び、土と戯れる度に足腰を鍛えているからだ。大手農業会社の社長ではあるが、ソクラは社員とおなじ立場で仕事をする時間を、週に何度かかならず
下々とおなじ労働をする時間がなければ、社長はいずれ腐ってしまう。ふかふかの椅子に根を張って、
「行かせろ……、セリカあああっ!」
「だめです、ご主人さまあああっ!」
両者の気迫は、龍が吹く大炎のごとく燃え上がる。
そこに行きたい者。
それを抑止する者。
そしてソクラは、浮遊感を覚えた。
「おお、なんだ、なんだ」
足が浮いている。さきほどまで肩にあったはずのセリカの両腕が、別の場所にまわされている。腰だ。か細い両腕は輪を作り、主人の腰をしっかりと掴んでいる。さらにセリカの頭が、ソクラの片脇に潜っているではないか。
ソクラの視線が動いた。
いままで目の前にはドアがあった。
放物線を描くように、月が弧を描くように。
視線が上へ、上へ、と
天井が見えた。
「ご主人さま、ごめんなさいっ!」
ぐっと噛み締めたようなセリカの声のあと、ソクラは背中に衝撃を覚えた。脳幹が揺れた。がふっ、と変な声が出た。視界が真っ白に——
「セリカさーん? どうしたのー?」
廊下の奥からアイリーシャが近づいてくる。
そして彼女は見てしまった。
「え、なに、してんの……」
アイリーシャは目を疑った。同僚のメイドが、我が主人にプロレス技を決めているではないか。
ソクラの背後から片脇に頭を潜りこませて、その腰を両腕で抱え、後方へと反り投げた、パジャマ姿のセリカ。真後ろへブリッジを組むように反り返った彼女の姿は美しい。新体操の選手のようだ。が、一方のソクラは無惨だ。
天井にむかって伸びた両足は虫の触覚のようで、ぐにゃりと折れ曲がった上体はしなった枝のようで、情けなくバンザイをしてしまった両腕は、床にべたりと張りついている。そしてその両目は白目を剥いている。
「あ、あ、あ……。セリカに……、ジンギスカンの呪いが移った……。ソクラさまが、首の骨が、折れて、死んで、しまっ……」
ばたり、と音がした。
アイリーシャが卒倒してしまったのだ。
負はどこまでも連鎖してゆく。
「なにやら、騒がしいですがぁ」
イヴァンツデール専属医師のクルーゲンが、部屋から顔を出した。彼の部屋は、サクラの部屋から七メートルほど離れた場所にある。齢六五の、おっとりとした性格の持ち主。出来事に対する反応がワンテンポ遅いことで有名だ。
「……これは、どうしたもんでしょうかぁ」
サクラの部屋からは、まだか、なにやってんの、ばかなの、足が寒い、と怒号ばかりが聞こえてくる。ひとまず確認するべきは、ソクラが生きているかどうかである。クルーゲンが近づくと、セリカは技を解いて立ち上がった。支えを失ったソクラは、躰を左に向けてぐったりと倒れてしまう。
「なぁにを、やっとるんですかぁ」
ナマケモノのような声で、クルーゲンが言った。
「た、たぶん大丈夫です。
控えめな声でセリカは答えた。
その息はぜえ、ぜえ、と上がっている。
「バックドロップ?」クルーゲンが尋ねる。
「はい」
「さっき、おまた、おまた、叫んでいたけど。サクラお嬢は初潮?」
おっとりとした雰囲気に似合わず、クルーゲンは察しが良い。
「はい。そうなんです、急のことで……」
「そんで、なにか別の病気と勘違いしたソクラさんが、むりっくり部屋に入ろうとしたの」
「はい……」
我が主人にバックドロップをしてしまった——。
鎮火した直後の火事場。そこに漂う黒い煙のような
それが、セリカの胸にもくもくと充満しはじめる。
「はやく、サクラお嬢にナプキンをあげなさい。初めてだから、そんなに量はないでしょうけど。それでもびっくりするからね」
「はい、すぐに……。ご主人とアイリーシャをお願いします……」
「いいよぉ」
国営の病院にいたクルーゲンは、六〇歳の頃からこの家に常住している。髪が白いのは年齢のためだ。当人に若作りをしようなどという気概はない。白髪染めの経験もない。
マーカスとクルーゲンをひっくるめて、ダブルじじい、とサクラはよく言う。片方の姿しか見えないときは、シングルじじいである。
「私の躰になにが起きたのよ。説明しなさいよ。シングルじじい」
リビングのソファに深々と座り、不機嫌そうな腕組みをしながらサクラが言った。
「おや、最近の小学校では話をされないのですか? 生理のこと」
床に敷かれたクッションマットの上で寝ているふたり——バックドロップを食らって気絶をしたソクラ、それを見て気絶してしまったアイリーシャ——の看病をしつつ、クルーゲンはいつもの口調を見せた。
「わたくしの記憶では、小学校五年生の頃に、初めて授業をした覚えがあります」
看病を手伝いながらセリカが言う。
「そうですかぁ。そんなもんですかぁ」クルーゲンはおっとりと、「では、サクラお嬢は一足早かったのですな」
「なんだか知らないけど、病気じゃないのよね」サクラは誰を見るでもなく、視線を正面に固定したまま、「この歳になっておむつを履いてるとか意味不明。タイガじゃあるまいし」
「タイガさまは関係ないかと……」セリカは苦く笑う。
「これ、いつまで履いてないといけないわけ?」
いくら宥めても無駄であろうサクラの雰囲気は、相変わらずである。
「すくなぁくともぉ。一週間は履いておいてくださいませんかぁ」
「は!? 一週間!?」
クルーゲンのおっとりとした口調も
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