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「サクラさま。明日の朝食は、パンかライス。どちらにいたしましょうか」


 てっきり、ソクラが謝っているとか。その類のことを言われるとサクラは思っていた。意表を突かれてしまい、目がぱちりと開いた。


「パンだったら、スープはコーンにいたしましょう。ライスでしたら、最近マーカスさんがお気に入りの、味噌スープが合いそうですね」

「……味噌、きらい」

「あら、そうだったんです?」

「……にごってて、やだ」

「たしかに、大豆らしさはありますね」

「味はいい」

「いままで、味噌スープを残したことは、なかったですものね」セリカはふわりと微笑んだ。「でも、スープを飲んでいるとき、やたらと視線が上の方を向いていましたから。それは味噌の濁りを、見ないようにしていたのですね」

「そう」サクラは、あえて不機嫌を装った。

「ソクラさまは味噌の濁りも、味も。大嫌いなのだそうですよ」


 しん……、と空気が止まった。サクラからの返事がなかった、というのもあるが、それよりも彼女の不機嫌に拍車がかかったような。そんな緊迫感が漂った。セリカはあえて火を投げたのだろうか。サクラを激昂させかねない、火を。


「だったら、なに」

「いえ、大したことではありません」セリカは優しい口調を保ちながら、「ソクラさまは味噌スープを残したことはありません。そして口に含まれるときも、味噌の濁りをしっかりと見つめながら、スープを味わいます」


 セリカが言わんとしていることを、サクラはなんとなく理解した。


「嫌なことから、目をらすな……。そう言いたいの?」

「いえ、サクラさまに対してなにか咎めようなどと、まったく思っておりません」


 くるりと寝返りを打って、サクラは怪訝な顔をこちらに見せた。鳥の嘴を生やした猫を見つけたような視線をセリカにぶつけている。なに言ってんの? この人……、とサクラが口に出さずとも十分に伝わってくる。


「ソクラさまは、嫌なことから逃げません。目を逸らしません。たとえ相手が味噌スープであろうとも、真剣に向き合います」


 味噌スープですら、真剣なのだ。

 息子や娘に対して、真剣でないはずがない。


「タイガさまに対しても、サクラさまに対しても。言わなければいけない、と思ったことは、親として言うしかありません。ソクラさまは父であり、同時に母であろうとしています。その二倍の責任感のため、少々きつい口調になることも、きっとございます……」


 両親をすでに失っているセリカだからこそ、この話題に深く踏みこめるのだ。片親であっても、血のつながった親がいま現在も生きている、という点において。サクラは、セリカよりも恵まれた環境にある。


 会話はここで一旦いったん途切れた。

 それから一分ほどが経っただろうか。

 夜の海に小船がゆっくりと沈むような、深い沈黙が流れる。


「写真で見たお母さんは髪が長いし、おっぱいも大きい」耐えかねたサクラが、さきに口を開いた。「程よく背も高くて、すっごく美人。お父さんなんか敵わないわよ」

「そうですね。ソクラさまは、お髭の処理からはじめないと、お母さまには近づけません」

「あと、水着の写真を見たときは足も綺麗だった。すらっとしてて。お父さんの足なんかゴツゴツしてる。頭にVの字がついた巨大ロボットみたいに」


 農業はスクワットの連続だ、とは、ソクラの口癖である。


「きっと大人になったサクラさまは、お母さまに似た、とんでもない美人さんです」

「いまでも美人だし。おっぱいがないだけ……。う、いてて……」


 急のことだった。サクラは布団の中でお腹を押さえ、ぎゅう、と全身を縮めた。


「サクラさま、どうかなさいました?」


 表情を青くしながら、セリカはすぐに立ち上がった。シルクのカーテンをくぐり、サクラの顔を覗きこむ。


「今日、午後からずっと頭が痛くてイライラしてた……。今度はお腹……。最悪……」

「そんな、どうして言ってくれなかったのですか?」

「お兄ちゃんの拉致事件のせいで、それどこじゃなかったじゃん……」


 もしや、とセリカには心当たりがあった。しかし一〇歳のサクラには、まだしばらく来ないと思っていた現象だった。


「ちょっと言いにくいのですが。下半身に違和感はございませんか?」

「え?」サクラは苦しそうな顔で、「お腹が痛いの……」


 どう言ったらいいものか。セリカは悩んだ。しかし、この言葉しか思い浮かばなかった。


「おまた……」

「は?」

「おまたを、確認してもらえます?」

「ここで?」

「はい」セリカは、いたって真剣だ。

「どうやって? パンツを脱げっての?」

「いえ、脱がなくても、触れてみるだけで大丈夫です」


 その後、セリカに言われたとおりに確認をしたサクラは、初潮しょちょうというものを知った。



 どたどた、と慌ただしい足音を鳴らしながら、セリカは部屋から飛び出した。廊下にはソクラがいた。サクラの自室から五メートルほど離れたところの壁に背をもたれて、腕組みをしていた。たいそう、娘が心配だったようだ。


「どうした、セリカ」ソクラは壁から背中を離しつつ、セリカを呼び止めた。「サクラになにかあったのか!」

「あ、いえ、えと……」


 女性ならではのプライベートなことだ。もし、ことをサクラに知られたらまずい。年頃の女の子にとって、初潮の問題は非常にデリケートである。父親には特に、知られたくないと思う子もすくなくない。


 察してくれ。察しなくても、どうかなにも知らずに去ってほしい、我が主人よ……! 顔をひきつらせながらセリカは念じた。


「な、なんでもないです」

「なんでもなくて、部屋から飛び出すやつがあるか」


 そしてソクラは、早足でサクラの部屋に近づこうとする。生理用品をとってくるのがさきか、ソクラを止めるのがさきか——。セリカは狼狽うろたえた。


「あ、だめです、いまはだめです!」

「なにがだめなんだ!」ソクラは足を止め、振り返った。

「だめなんです!」

「心配なんだ、様子を確認させてくれ!」

「い、命に別状はありません!」

「な……」ソクラの表情が凍った。「まさか、病気か! そういえば今日のサクラは顔色が悪かったな……。ジンギスカンに気を取られていて、そのことをすっかりと忘れていた!」


 ついに息子をジンギスカンと呼称してしまうほどの焦りを、ソクラは見せた。一方のセリカは、しまった、と思った。これでは火に油を注いだようなものだ。いま現在サクラは下になにも着ていない。いくらこの家の主人とはいえ、男である以上は、ぜったいに入室させてはならないのである。


「サクラ、大丈夫か!?」ソクラはドアノブに手をかけ、「お父さんがいま行くからな!」

「ぎゃぁー!」ドアのむこうでサクラが絶叫した。「いまはぜったいに無理

 、来ないで!」

「だめです、ご主人さま、どうか落ち着いてください!」


 目にもとまらぬ速さでセリカは飛びついた。がっ、とソクラを羽交はがめにし、動きを完全にロックした。そのまま二、三歩退がる。ソクラの足がばたついた。身長差はあるが、持ち前の怪力を使っての拘束——。あと一秒遅かったら、間違いなくドアは開いていただろう。


 対するソクラも抵抗をやめない。どうにか前へ、サクラの部屋へ、一生懸命に進もうとしている。ガニ股で踏ん張るセリカの両足が廊下のカーペットに深く噛みつく。


「なにをするセリカ! 離しなさい!」

「これだけはどうしても、だめなんです!」

「主人に逆らうというのか!」


 一瞬、セリカの全身がピクリと震えた。


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