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「問題はなさそうだったから、私は一旦部屋の前を離れた。が、それからもう一度。今度は気配を悟られないように近づいた。ドアに耳を当てると、やはり聞こえたのだよ」
ふふ……、んふふ、ははは……。という不気味な笑い声が。
「もう、怖すぎますよ ご主人さま……」セリカは苦い顔をした。
「どうしてしまったのだろう。イヴァンツデール家の呪いか?」
ソクラは冗談のつもりで言った。が、呪いというのは、とても的を得ている言葉ではないだろうか。
普通ならば悪党に拐われたその日に、たとえ無事に家に帰れたとしても、精神的にやられて二、三日寝込んでもおかしくはない。まるで拉致されていた時間、そのものが存在していなかったように。タイガは、普段どおりの生活を再開していたではないか。
それを強いたのはソクラ自身であり、そのソクラもまた、先祖代々伝わる家の在り方を忠実に守っているに過ぎない。悪気などないのだ。むしろ、それこそがタイガの為になると信じている。しかしこれは、見方によっては精神的虐待にもなりかねない。
「やはり今日くらいは、ゆっくり休ませておくべきだったか……」
ぼそりと言った主人のうなじを見つめながら、そりゃそうでしょう、という顔でメイドのふたりはうなずいた。これぞ、セリカの本心でもある。
「しっ……」
L字廊下を曲がれば、タイガの部屋はすぐそこだ。
ソクラはジェスチャーをする。
まず人差し指を口に添えて、静かに……、のポーズ。
立てたその指を二回振って、私が先行する……、のポーズ。
足元が赤いカーペットで良かった。
木の床よりは音は鳴らない。最小限の足音で済む。
より用心をして。
より静かにして。
ゆっくり。
ソクラが、ドアのそばまでたどり着いた。
指を一本立てる。メイドたちに手招きをする。
ひとりずつ、こっちに来い……、のポーズだ。
まずはセリカが進んだ。
足音を立てないように。
一歩、二歩。
たどり着き、ドアを挟んでソクラの反対側に立つ。
壁に肩を当てる。
スパイ映画さながらの緊張感。
これで拳銃を持っていれば完璧だ。
最後はアイリーシャ。
三人のなかでいちばんに背が低い。
セリカとおなじように進み、その隣に立った。
ソクラが再びジェスチャーをする。
片耳に手を当てて、耳を
「んふ、んふふ……。ジンギスカン……。ジンギスカン」
聞こえた。
たしかに聞こえた。
ドアのむこうから、タイガの壊れている様子が伝わってくる。
「羊が四五六匹。羊が五五五匹。羊が六六六匹。へへへ」
ダメです、無理です。
アイリーシャは顔を蒼白させた。
小刻みに首を横に振った。
想像を絶する怖さだったのだ。
セリカは、ソクラに向かって両手をだらりと折ってみせた。
その手つきは幽霊そのもの。
「お兄ちゃーん、起きてるー?」
少女の声がした。L字廊下の奥からだ。曲がり角のむこう側から聞こえる。その姿は確認できない。
「ねえ、テレビ映んないんだけど。深夜のアニメ録れないじゃん。私もう寝たいんだけど」
この家で少女の声を発するのは、ひとりしかいない。タイガの妹、サクラ・イヴァンツデールである。彼女の声がだんだんと近づいてくる。三人の緊迫が加速する。
「お兄ちゃんの部屋のテレビに録画してもらお……」
廊下の角を曲がりながら、サクラはふわぁ……、と大きなあくびをした。大口を開けて、天を仰ぐほどに首を反らしてから、正面に戻す。そしてなにも知らない純朴な瞳は、兄の部屋のドア前で謎の行動をとっている三人を見つけてしまった。パジャマ姿でスパイ映画ごっこをしている、いい大人たち。サクラの表情は次第に
「なにしてんの。あんたら」
「お、おお、サクラ。起きていたのか」
あたかも、廊下ですれ違っただけな感じを、ソクラは必死に装った。
「寝るの、これから。テレビが映んないの。深夜のアニメが録れないから、お兄ちゃんの部屋のテレビで録る。てか、なにしてんの?」
どう答えたらいいものか……。変に腰がひけた格好のまま、サクラ以外の三人は硬直している。
「いい大人が三人もそろって。スパイって基本単独行動でしょ。三人で潜入捜査するのなんてチャーリーズエンジェルくらいよ。メイドふたりとおっさんひとり、ってどうゆう組み合わせだよ。ハリウッドなめんなよ」
冷ややか口調でサクラが畳み掛けた。
「あ、ああ、例の虫が!」セリカは明らかな作り笑いをした。「ね、アイリーシャ、こっちの方に逃げてきたのよね、ね」
「そ、そう! まったく隙間のないドアの隙間を通って、タイガさまの部屋に逃げるなんて……。いったいどうなっているのかしら!」
あたふた、と混乱しているメイドふたりとは対照的に、サクラの表情は変わる気配がない。ずっとしかめっ面のままである。
「まったく隙間のないドアの隙間って、なによ」サクラの低い声だ。「隙間ないじゃん、それ」
すると雷が鳴った。
かなり近い、大きな音だ。
空が割れるような音が屋敷中に響いた。
「きゃっ……!」サクラは怯え、いちばん近くにいたアイリーシャに飛びついた。「こわい、かみなり、苦手……」
「大丈夫ですよ、サクラさま」アイリーシャはサクラの頭を優しく撫でて、「すぐにおさまります」
「今夜は晴れだったはずだが、おかしいな」ソクラは冷静だ。「通り雨でも降るのか?」
廊下の蛍光灯が明滅しはじめる。セリカは天井を見た。そして、さらに大きな雷鳴が響く。全身が引き裂かれるような大音だ。ぱちぱち、と照明が不安定になり、ついには消えてしまった。真っ暗だ。なにも見えない。
「わっ、無理むりむり!」サクラは、アイリーシャの脇腹を肉ごと握った。「腰、抜けちゃう」
「サクラさま、痛いです。脇腹がとても痛いのです……」
「ごめん……」サクラは握る力を緩める。
「どこかの電線がやられたか?」ソクラが言った。「このまま数時間は復旧しないかもしれない。セリカ、ランタンはどこにある」
「リビングの戸棚にございます」
「とってこられるか? 暗がりで目が効くのはおまえだけだ」
「はい、すぐに——」
からん、からん……、蛍光灯が独特の音を鳴らした。それは紛れもなく電気が復旧することを知らせる音であった。ほどなくして、何事もなかったように廊下の明かりは戻った。
「あ、点いた」サクラは上を見上げ、「良かった……」
「なんだ、大事にはいたらなかったな」ソクラも胸を撫でおろし、「安心した」
ふう……、と息をついて、セリカはドアに目をやった。
開いている。誰かが立っている。微動だにせず。うつろな顔。頭髪は乱れきっている。死んでいるような目をぎろりと見開き。ゆっくりと首を動かして。点のような視線は、セリカの眼球を捉えた。
「ジンギスカン……、僕は、この家に喰われるジンギスカあああん……!」
ぎゃあ、とセリカが大声で叫んだ。それにつられて、サクラ、アイリーシャ、ソクラの順で恐怖の叫びは連鎖した。正気を失ったタイガは両手を大きく広げて、セリカに抱きつこうとする。その様は鮮血を求める怪人そのものだ。次に聞こえたのは、とてつもなく爽快で心地の良い音。セリカの平手打ちがタイガの左頬を綺麗にひっぱたいた、その音であった。
「ふざけんなよ、ばか。ばかタイガ」
ベッドの上で意識を失っているタイガに対し、サクラの悪態は遠慮を知らない。
「急に襲われたので……、つい……」
タイガの片手を、両手で包むように握りながら。セリカは申し訳なさそうに言った。まるでたったいま息絶えた大事な人を、病室で看取っているかのような光景である。
「これではメイド失格です。主人のご子息を守るどころか、ビンタでぶっ倒してしまうなんて……」
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