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「わたくしめは……」枯れたきくのように、マーカスは意気消沈している。「ソクラさまの大事なメイドを奴隷のように思っているような、わたくしめには……。屋根裏が似合っております」


 ゾンビのような足取りで、マーカスはきびすを返した。そのまま廊下に出て、二階への階段を登り。木製の湿気った梯子を伝って、天井の低い自室に戻ってしまった。つん、とくるカビのにおいが、マーカスの鼻腔をいつもどおりにくすぐった。


「うむ……」


 リビングにひとり残されたソクラは、気難しい顔で足を組み直した。


「すこし、言いすぎたかな……」



 消灯時間ぴったりに、タイガはベッドにもぐった。いつもより、マットレスが硬く感じる。何度が寝返りをうったが、肩が張ってしまってどうも寝付けない。地下室で囚われの身となっていた、その余韻だろうか。無駄に冴えたままの交感神経が、まぶたの重みを感じさせてくれない。


「いつもどおり勉強をした。いつもどおり武道の稽古をした。いつもどおりお風呂に入った……」


 そしてタイガは羊の数を数えはじめる。


「羊が一〇匹。羊が二五匹。羊が四七匹」


 数え方がめちゃくちゃである。


「みんな拐われて、毛皮を剥がされて、ジンギスカン……。ジンギスカン……。ジンギスカン……」


 タイガは目の前に鏡がなくて良かったと思った。もし、いまの自分の顔を見てしまったら、さながらホラー映画のワンシーンを観ているような気分になっただろう。薄暗いランプの明かりのなか、眼球を剥きだしにして、幽霊のような声でジンギスカンを連呼する。そんな自分を見てしまったら、それこそ眠れなくなる。


「ふふ……、ははは……」


 ついには笑いだしてしまった。



 二段ベッドの下段に座る、パジャマ姿のセリカは、やたらと分厚いカタログを読んでいた。


「セリカさん、どんな柄にするの?」


 二段ベッドの上段で寝転んでいるアイリーシャが、天井に向かって言った。彼女もおなじく、リフォームに関するカタログを読んでいる。


「私、やっぱり薄いピンクの壁紙がいいかも」


 逆さまで読んでいる分厚いカタログのページを、アイリーシャは仰向けのままめくろうとする。しかし——


「あいたっ」

「どうなさいました?」セリカが上を見上げて心配をする。

「カタログ、顔面に落としてしまった」


 寝ながら本を読んでいる人、あるあるだ。そもそもこのカタログ、寝ながら読める厚みと重さではない。


「大丈夫です? 角が当たったらケガしますよ?」

「やってしまった……」


 を諦めたアイリーシャは躰を起こし、布団の上であぐらをかいた。普通に読むことにした。普段はポニーテールに結んでいるミルクティー色の長い髪を、背中の方へと払った。


「それにしても、本当にいろんな種類の壁紙があるんだね……。セリカさんは、どんな色にするの?」

「うーん……。わたくしは白でいいかと」

「そっかぁ」


 あまりにも普通の答えが返ってきて、なんだか面白くないな、とアイリーシャは思った。


「せっかくだから好きな色にしたら? セリカさん、青とか赤とか、原色系が好きだったでしょ?」

「さすがに原色の壁紙は……」


 話が違ってくるような気がする。


「真っ赤な壁紙にさぁ、全身を拘束できるX型のを設置してさぁ」アイリーシャは普段どおりの口調で、「ベッドにも鎖と手枷てかせみたいなのを設置して。鞭と、黒いハイヒール、三角木馬……」

「その世界SMには興味がないです。残念ながら」

「そう? セリカさんスタイル良いのに。ボンテージスーツとかけっこう似合いそうだよ?」

「着たくありません」

「そっかぁ。カビ防止とか、クラック防止とか。そのへんの機能も捨てがたいよね」

最近いまのボンテージスーツって、そんなに多機能なんですか?」

「ううん。壁紙の話」

「ああ……」


 その世界SMの話は、いつのまにか終わっていた。どこからが冗談で、どこからが真面目な話なのか。その境めが曖昧あいまいで、いつのまにかスルッと切り替わっている。それが、アイリーシャという人の会話術である。セリカは彼女のトークに慣れている。


 するとノックの音が室内に響いた。顔つきを変えたセリカは背筋をピンと正した。んんっ、と喉を整えてカタログをベッドに置く。完全にオフだったアイリーシャも、枕の横に置いてあった輪ゴムでポニーテールを結ぶ。とても素早い手つきだ。さきほどまでのふざけた様子は、微塵も感じられない。


「すまない、ちょっといいか」


 ドアのむこう側から聞こえたのは、ソクラの声だ。


「は、はい」


 セリカはすぐに立ちあがり、下腹部をぱん、ぱん、と叩いてパジャマのシワを飛ばした。それからドアノブに手をかけ、ゆっくりと開く。


「ああ、就業時間でもないのに、すまないな」ドアの隙間から、ソクラの半身が見えた。「アイリーシャは寝ているか?」


 彼女がすでに寝ているのでは、と思ったソクラは、なるべく小さな声で喋ろうとしている。


「起きております」二段ベッドの梯子を降りながら、アイリーシャは応えた。「私になにか?」

「いや、どちらでも良いのだが」ソクラは気まずそうな様子を見せて、「ちょっと来てくれないか。助けてほしい」

「トラブルですか?」セリカの顔が仕事モードになった。

「なんというか、その……」


 口ごもったソクラが次になに言うかと、メイドのふたりは固唾を呑んで待った。一〇秒ほどの間があった。その間、今日一日のメイド業に不備がなかったか。ふたりは脳を焼く思いで回想した。


 火の元栓は閉めてある。

 水まわりもよく見た。

 掃除をしていない部屋はない。

 皿も、グラスも割っていない。

 戸締まりは、しっかりと確認した。


 いちばんに可能性があるところでは、虫の出現だろう、とセリカは思った。ソクラは虫が苦手だ。


 例の這う茶色い虫は、どこからともなく突然現れる。凍結スプレーなるものを武器に、我が主人をそいつの襲撃から守ったことは幾度もある。今回も、やはりそれだろう。セリカとアイリーシャは気持ちのスイッチを切り替えた。虫退治のスイッチだ。


 それが本日最後の仕事だろうか。

 あいつは素早い。

 こうしている間にも、どこかに逃げているかもしれない。


 すぐに行きます。アイリーシャ、凍結スプレーを持ってきて。わたくしは、動きまわるを拘束する虫網と、遺体を始末するための箒とちりとりをとってくる。大丈夫です、ご主人さま。いつもどおり、わたくしたちがお守りいたします。


 セリカは伝えようとした。

 ソクラよりもさきに、口を開こうとした。しかし——


「助けてくれ。タイガが壊れてしまった」


 我が主人あるじは、情けない声でそう言った。



 ぬきあし、さしあし、忍び足とは、よく言ったもの。本当にその言葉どおりの動きなのだな、とセリカは実感した。置いた足を、スッと床から離す。次の足は、波ひとつない水面に添えるように、そっと置く。音が鳴らないように、その動作をくり返す。


「どうして、こんなにこっそりと動いているのですか……」


 いちばん後ろについてきているアイリーシャが、小声で言った。


「あいつの部屋の前を通ったときだった。なにか不規則な数字を数えながら、ジンギスカン、ジンギスカン……、と言っていたんだ。そして急に、底気味の悪い声で笑いだした……」


 まるで怪談話をするような声のトーンで、ソクラは話している。


「一度、タイガの部屋をノックしたんだ。そうしたら笑い声は止まった」


 そのときソクラは、どうした? 大丈夫か? とソクラはドア越しに尋ねた。すると、大丈夫です、おやすみなさい父上、とタイガからの返事があった。いたって普通の声が返ってきたから、ソクラは束の間の安心を得ることができたのである。

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