episode1:主人公

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「僕、今日拐われてきたばっかりなんです。勉強に身が入らないよ……」


 ついさっきまで、タイガは犯罪組織にとらわれていた。冷たく錆びた鉄パイプの椅子に手足を拘束され、口にはタオルを噛ませられ。自らの死を覚悟していた。


 そんなときに現れた救世主こそが、イヴァンツデール家の住みこみメイド。セリカ・イクリアであった。


 薄暗い地下室からタイガを救出する際に、セリカはたしかにこう言った。いまから三〇分後に、タイガは家庭教師の授業を受けねばならない、と。


 彼女の言葉どおり。タイガはいま自室にて、木製の学習椅子に拘束されている。鉄パイプの椅子に比べれば、ドーナツ型のクッションが敷いてある分座り心地は良い。が、逃げられないという点では、どうもおなじようだ。


「その他のことは、なーんにも心配しなくていいのですよ。警察からの事情聴取は執事のマーカスさんが代わりに受けてくださっています。タイガさまのお父上が被害届の手続きを進めてくださっております。さきほどイヴァンツデール専属医師であられます、クルーゲンさまがタイガさまの健康状態を、とご診断なされました。安心して、勉学に励んでくださいませ。はい、次は三六さんじゅうろくページです」


 家庭教師のアンナ・テイルインが悠長に言った。黒縁の四角いメガネにミルクティー色のポニーテールが特徴の先生。大きい胸のせいで白いブラウスのボタンが悲鳴をあげている。タイガとは一〇ほどの年齢差がある。


 タイガの中学受験のころから付き合いがある彼女は、自然とイヴァンツデール家の内情を知った。


 普通ではあり得ない教育方針に最初こそ驚いた。が、それがイヴァンツデール家の常識であると理解すると、この家で仕事をするアンナにとってもそれは常識となった。つまり、慣れた。


 金持ちの子息だからという、たったそれだけの理由でタイガは悪党に拉致された。しかしその数分後には、普段通りのルーティンを再開している。


 なにものにも左右されない。いかなる事象に巻きこまれても、自身の鍛錬はおこたらない。帰宅することが可能であり、心身が健康であるならば、即座に正しい生活リズムに戻る。


 それこそが、イヴァンツデール家の子息としてのあるべき姿なのだ。この家の主人であり、タイガの父であるソクラ・イヴァンツデールはそう考える。なにも心配はいらない。おまえは、イヴァンツデール家にふさわしい人間になるための日課を粛々とこなすことだ。それだけに集中すればいい。


「そして僕は、イヴァンツデールから逃げられない……」

「タイガさま?」アンナは顔をのぞきこみ、「そこは三八ページです。三六ページを開いてくださいまし?」

「あ、はい……」


 まるで生きているとは思えないほどにうつろな表情のタイガは、幽霊のような手つきで、教科書をめくった。



「セリカ、今日はすまなかったな」


 二〇畳はある書斎で、革のワーキングチェアに座っているソクラが言った。大理石の机を挟んだむこう側には、真四角のテーブルがあり、それを茶皮のソファがコの字で囲んでいる。左右の壁はすべて本棚となっている。


 この地域でかつて起きていた戦争に関する歴史書や、八〇余年のあいだ、イヴァンツデールの経済を支えた農業に関する書物などが、本棚の大半を占めている。一冊一冊の厚みは相当なものだ。


 この棚にある本の角で父を殴れば、この家の呪縛から解放されるのではないか、とタイガはよく考えていた。そしてそれを、リビングのソファの上で寝言として放ってしまったのは最近のことで。


 さらにその発言をお風呂上がりのソクラがちょうど耳にしてしまい、激昂げっこうした全裸の父から四の字固めを食らったタイガはその後しばらくのあいだ、睡眠障害に悩まされた。というのも記憶に新しい。


 ソクラの背後には一面のガラス窓が広がっている。


 それは出窓となっており、そのさきはバルコニーだ。白い石柱が四本と、背の高い観葉植物が、洋風のしゃれた雰囲気をこれでもかと演出している。緑と白がおりなす芸術的装飾は、外からの視線を遮る役目も担っている。


 来客用のソファに座るわけでもなく、セリカは大理石の机の前に立っている。彼女は、ピンクを基調にしたメイド服に着替えていた。それは地下室でタイガを助けた際の、黒色のメイド服とはちがう。


「どうだ、新しい制服は」ソクラは羽ペンで紙の端にサインをしながら、「サイズをダウンさせたと聞いたが、すこし痩せたのか?」

「いえ、体型に変化はありません。以前の服が、すこし大きめでしたので」


 セリカは目を細めるように微笑んだ。


「そうか……。とかく、おまえには感謝をしている。警察や軍は、事が起きてからの動きが遅かった。すぐに助けに向かってくれて、本当によかった」

「いえ、あんな金棒を振りまわすくらいしか、特技がありませんので……」

「おまえに、部屋を用意しようと思う」


 ソクラは急に話題を変えた。

 紙から視線を離し、羽ペンを定位置に置く。


「部屋……、ですか? お部屋なら、もういただいておりますが……」

「ひとり部屋だ」


 突然の提案に、セリカはどう答えたらよいかわからず。目を丸くした。


「いままでメイド長以外は相部屋あいべやで暮らしてもらっていた。が、これからは各メイドにひと部屋ずつ、与えようと思う。……と言っても、うちには三人のメイドしかいない。むしろいままで相部屋にさせてしまって、悪かった」


 セリカともうひとりの若いメイド、アイリーシャは、いまもルームシェアをして暮らしている。


 メイド長が、ひとり部屋で暮らしているのとおなじように。他のメイドもそうするべきだ、とソクラは考えたのだ。


「わたくしと、アイリーシャのお部屋が別になるのですか?」

「そうなるが、不満か?」

「あ、いえ……」セリカはすこし顔を伏せた。「大変に恐縮ですが、アイリーシャの了解がないと……。わたくしひとりの一存では決めかねます」

「彼女の了解は得ているよ」

「そう、なのですか?」

「これは彼女にとっても訓練になる。アイリーシャはもうすぐ一五じゅうごだ。誰かと一緒でなければ寝られないとも、言ってはいられない歳になる。よほど、彼女にとって辛い夜があれば、セリカ。おまえの部屋で寝かせてやってくれ。いままでは二段ベッドだったが、それぞれにクイーンサイズのベッドを使ってもらうことにする」


 セリカがアイリーシャの部屋で寝ることも可能であり、その逆もまた可能である。もちろん、広いベッドを思いきりひとり占めすることも。これからは選択肢が増える。


「それは……」セリカは困惑しつつ、「なんと言ったらいいのか……」


 身にあまる環境である、とセリカは思った。

 それを察したソクラは、セリカを優しく見つめる。


「うむ、あえて言うが、これはおまえの為だけに用意したのではないよ。さきにも言ったが、アイリーシャの解離不安性かいりふあんしょうを克服させるためというのが名目なんだ。そう言っておかないと、執事のマーカスが機嫌を損ねてしまう。あいつは、私の祖父の代からこの家で勤めているから、伝統だの格式だのにうるさくてな……」


 実際、老年の執事マーカスは何十年もの間、天井の低い屋根裏の六畳一間を自室としている。それ以上の暮らしは望んでいない。いまも、これからも。


「身寄りのないアイリーシャとおまえを、この家にひきとってから。おまえたちを実の娘のように思い、接していた。実際におまえたちが、私のことを父のように感じてくれているなら……。それはこの上なく喜ばしいことだ」

「もちろんです、ご主人さま」

 
 

 むしろ、タイガの妹である、サクラ・イヴァンツデールからの嫉妬を買っているのではないかと。セリカは肝を冷やしている。


 一〇歳のサクラは歳下であり、セリカにとっても可愛い存在であることはたしかだ。が、幼いがゆえに、ソクラの愛を独り占めしたいという願望を、サクラは強く抱いているのではないか、と。


 なるべくなら、住みこみのメイドらしく質素に過ごしていたい。自分は、最低限の衣食住で十分だ。しかし、主人であるソクラが提供してくれる環境を拒否することは、立場上難しい話でもある。


「やはりメイドはメイド……」ソクラは眉をしかめ、「あまりいい暮らしをさせると、マーカスにも悪い気がしてな……」

「ええ、もちろんです。長年イヴァンツデール家を支えてこられたマーカスさんより、いい暮らしをするなど。わたくしたちには勿体のないことです」


 うむ、と相槌あいづちを打ってから、ソクラは立ち上がった。それからバルコニーの方に身体を向けて、両手を腰のうしろで組んだ。

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