第36話冴えない大学生の夏休み明け

『――ピンポーン』


 九月第三週の午前九時前、聞きなれた音が耳を打った。


「あいよ~」


 来訪者にそう返事しつつ、スマホから充電ケーブルを引っこ抜き足早に玄関へと向かう。

 最後にトントンっと靴のかかとを合わせカチャリと鍵を開けると、ひとりでにドアが開いた。

 その先に待っているのは、


「お、今日は早かったね」


 小幡は意外そうな顔でそう言うと、手に持っていたコンパクトミラーをバックにしまう。


「まあ流石に今日はな」


「これを毎回やってくれたら私としてもうれしいんだけどねえ」


「遅れた時にチャイム連打するのやめてくれたら考えんでもない」


「え~」


 え~じゃないんだよなあ......。

 最近お隣さんから変な目で見られるの多分そのせいなんだけど? 集合住宅でチャイム連打とかマジ禁忌だからほんとに勘弁してほしい。

 ジトっとした目を向けてやるも、小幡は何食わぬ顔して腕時計をチラリと確認する。


「ていうかそろそろ時間やばくない?」


 小幡が時間を気にするのも当然で、本日は夏休み明け最初の授業日である。


「まあ、余裕はないな」


「バス何時だっけ?」


「俺はいつも九時十五分発のやつ乗ってる」


「じゃあもう出ないとじゃん。ほら、早くカギ閉めて」


 小幡はそう言うと一足先に階段のほうへ歩き出した。

 ......まあ、普通はこういう時って待つよね。しかしもう慣れたことなので、俺は急いで鍵をかけ駆け足気味に小幡の後を追う。

 階段を降りたところで小幡は待っていた。


「どっち?」


「あっち」


 バス停の方向を指さす。


「よし、急ぐよ」


「ちょっとまて小幡」


 今にも走り出さん勢いのその背中に声をかけると、小幡は機敏に振り返りその場で足踏みを続ける。

 ジョギング中の人以外でその待ち方するの初めて見たなあと謎の感心をしていると、小幡が『なに?』と首をかしげる。

 そこで用件を思い出した。


「この時間ならそんな急がなくても大丈夫だぞ、意外と近いし」


「でも、そういって遅刻したら最悪じゃない?」


「まあたしかにそうだなんけどさ」


「じゃあ急いだほうがよくない?」


 正論で返されてしまいうぐっと言葉に詰まる。

 しかし、それでも俺は全く急ぐ気になれなかった。


「......で、でもさ、まだ暑いし、学校行く前に汗かくとメイクとかいろいろ落ちて嫌じゃないか?」


「佐伯はお化粧してないでしょ?」


「俺じゃなくて、小幡のメイクが......」


「それでも遅刻するのにはかえられないよ、化粧なんて最悪学校でも直せるし」


「そ、そっか......」


 そう返事をすると小幡は俺の様子がおかしいのを悟ったのか、足踏みをいったん止め、頭の上にはてなマークをいくつか浮かべた。

 向けられる追及のまなざしから逃れるべく色々と身をよじってみるが、全然気が休まらない。

 そのまま少しすると、小幡はピンと人差し指を立てゆっくりと口角をあげた。


「佐伯、もしかして......」


 い、いやな予感気しかしねえ......。

 この先に続く言葉を警戒し、一歩後ずさる。

 そしてその予想は、不本意ながらも的中してしまう。


「――もしかして大学行くの、怖い?」


「っ!」


 俺の反応をみてさらにニヤニヤ笑う小幡。......くっそ腹立つなその顔。

 そしてこのまましばらくネタにされるされるかと思いきや、しかし小幡はごほんと咳払いするとうんうん何度か頷いた。


「――でもね、よーくわかるよ佐伯のその気持ち。私も正直、ちょっとまだ怖いもん」


 小幡は少しうつむき加減にそう言った。

 .....たしかに、それもそうだ。

 思えばあの時小幡も木村と合っていたので、程度は違えど『行きたくない』という感情が芽生えてもなんらおかしくはない。

 でも小幡はそんな様子を見せないどころか、むしろ積極的に問題と向き合おうとしているように見えた。小幡は落ち着いた声色で続ける。


「でも、だからって行きたくないっていうのは違うと思うの。それはただ、楽なほうに逃げてるだけ」


「......それで少しは楽になれるんだったら、別にいいんじゃないか?」


 すこし心に余裕が出て来てそう口を挟むと、小幡は『そうだね』と優しくうなずいた。


「本当に追い込まれてたらそれでもいい......ううん、そうすべきだと思うよ」


 そこまで言って、『だけど』とゆっくり顔を上げる。


「――せっかく頑張って誤解を解いたのに、そんなのって悔しくない?」


 その問いかけに、瞬間、胸を射抜かれたような衝撃が走った。

 思い出すのはあの夏の日の緊張と後悔と、そして忘れられない達成感。

 小幡はもはやにらみつけるように俺の目を見上げ、その瞳の端にはほんのりとしずくがにじんでいた。


「私は悔しいよ。佐伯が頑張ったの、ちゃんと見てたからっ」


 その言葉に力がこもる。

 ......きっと俺も、本当は悔しかった。

 それをかっこつけて大失敗だ黒歴史だと嘯いて、本当はあのブドウが欲しかったのに。

 いつしか俺も小幡の目をまっすぐ見返して、二人見つめ合う形になる。

 でもすぐに恥ずかしくなって、どちらともなく視線を外した。

 視界の端で小幡がぷくりと頬を膨らませる。


「......でも一番むかつくのは、私がいるのにそんなウジウジしてるとかありえないから」


「自分に自信あり過ぎるだろ......」


 そう言うとすっごい目でにらまれた。なんならさっきより眼力強い。


「とにかく! 絶対行くからね! 遅刻したらまた浮いちゃうよ!」


 ......なんかさっきまでの雰囲気ぶち壊しだが、話し込んでしまったのでそろそろ時間がまずい。

 さっきまでとは大違いで、俺の足は手を引かれるままあっさりと動き出した。

 全く不安がないという訳じゃないが、これもまあいいきっかけになるのだろう。


「ちょっ小幡! 靴脱げた!」


「そんなの後にして!」


「えぇ......」


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