れっつ発見、この世界の本質

@yatumi

本文

たまに食べているうどん屋さんのうどんを、テイクアウトして持って帰った。


ぶっかけうどん。


一つの容器にまとめたネギと天かすとしょうがを、どばぁ、っと入れる。


ちゅるちゅる、もぐもぐ。


んーおいしい。


どばぁ~三人組が入っていはしたけれど、それでもまだプレーンなうどんを二口堪能した。


そこで二つ目の容器に手を伸ばし、中の温泉卵を机にぶつけてひびを入れる。

そしてうどんの上で指を入れ、卵を割った。


そして僕の手が、少し汚れた。


あれ?こんなことあったっけ?


そうだ。今まではお店で食べてたからだ。

店員さんが割ってたから、僕は卵で手を汚すことはなかったんだ。


”手を汚すことはなかった”?


ああーー。


すごいんだね。

この世の中ってさ。


ものすごく美しくないのに、とっても綺麗にできてる。


それは命を頂く行為に他ならないのに、どこにその面影があるだろう?


自分は手を汚すことなく、それを人に押し付けることができる。

これの、なんと残酷なことだろう?


なんら命の重みも、血の味もなく、食べ物にありつける。

これが、なんと安易なことだろう?



ファストフード店に行ってスマホのディスプレイを叩けば、誰と話す必要もなく食べ物が出てくる。


その出てきた肉が紛れもない命なのだということは、今となっては本当にわかりづらい。



お釈迦様は法典で一切の殺生を禁じている。


僕はいつだかの法事で大人がお坊さんと話しているとき、何の気なしにお経の最後を見ていた。


そこに、そのことが書かれていたのだ。


なぜですか?お釈迦様?


お坊さんだって、かくいうあなただって、命を頂かなければ明日はないはずです。

水で忍んでも、せいぜい3か月というところでしょう。


僕にそれは、僧侶に殺生を禁じる一方、手を汚すことを周りの人間に押し付け、押し付けさせているように感じさせた。


殺生を禁じる、ですって?


それは甚だ綺麗事じゃありませんか?お釈迦様!


それが紛れもない命であるという真実を、あなたが知らなかったわけじゃないでしょう!?


だったら、なぜ!?



そして食べずして捨てる、というのがどれだけ残酷なことだろう?


思ってみる。

自分は屠殺されて、切り刻まれ、ビニールのパックに入れられた。


そこには紛れもない、自分の一部が入っている。


自分の、肉。

かなり生々しいが、腕だとか、ふくらはぎだとかの肉をイメージするとしっくりくるだろうか?


そして姿形を取り繕った、見た目だけ綺麗で、その実吐き気がするほど醜いものに手に取られた。


そして暗くて冷たいところに放り込まれ、忘れられる。

細菌に体を蝕まれ、色が変わっていく。


そしてある日、捨てられる。


体を、引きちぎられる。



それは一体、どんな気持ちなのだろうか?

僕には、とても想像がつかない。



例えば屠殺すること一つとっても、人間は動物虐待に対する忌避からその動物ができるだけ苦しまないように配慮するらしい。

まぁ、それはいいことなのだろう。


けれどその実、その行為の意味がとても分かりづらくなってはいないか?

罪悪感がなくなって、命を頂くということの真実を啓発する、その気力を殺いでいるようにも思える。



そしてそれを目にしたくない”世間一般”は、見たくないものから目をそらし、それをいつしか職業人に押し付けた。


そしてそれは、今では日の目を見ない。



けれど、思えばこの世界はそんなことばっかりだ。


見たくないものから目をそらし、そして物事の本質をとても分かりづらくする。


けれど見たくないものを見ることは苦痛に他ならず、それに加えて利便性を追求するのはこの世界の性なのであり、止めることは叶わない。


まぁどうにも、この流れには抗えないらしい。


でも、でもだよ?


できることは、あるじゃん?


まぁ、”やったという事実が大事”でもさ、”ポーズ”でも、たぶんやらないよりはましじゃん。



それがわかったら、食べ物を大事にするところから、この世界の本質を発見しに行くってのは、どうだろう?


と、そう考える、僕の今日この頃なのです。


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