スパイの罠~殺人マシンと知りながら~
花彩水奈子
第1話 逃亡者
自宅のキッチンで、水道の蛇口レバーを押すと、赤い水が出てきた。
私が子供の頃は、蛇口をひねった直後は、水道管に溜まったオレンジ色のサビが最初に出てきたこともあったが、そういうものとは違う。
真っ赤な色……まるでそう、血のような。
「あれ?ねえ、あなた」
庭にいるはずの夫に向かって話しかけると、庭に向かう大きなリビングの窓ごしに外が見えた。庭には夫ではない大男がいて、巨大なハンマーを何かに向かって振り下ろしていた。
……え?
血まみれの何かに向かって、何度もハンマーを振り下ろす大男。
破裂した水道管からまるでスプリンクラーのように噴射する水。
血まみれの何かは……夫?
蛇口から出たのは……夫の血?
気を失いそうになったのを何とかこらえる。
大男がこちらをゆっくりと振り向く。
人生最大の瞬発力で、私はバッとキッチンの死角に隠れた。
そのままキッチンカウンターの陰に隠れて膝歩きでダイニングにいくと、2歳の息子を抱えて口をそっと塞ぐ。
幸いおとなしい性格をした息子は、不思議そうな目でこちらを見ただけだった。
そのまま私は片手でスマホの緊急通報ボタンを連打した。
「事件ですか事故ですか」
「事件です。庭で知らない大男が夫をハンマーで殴りつけています」
「わかりました。パトカーと救急車を手配します。このまま電話を繋げておいてください」
「まずは住所を教えてください」
「ひっ」
大男が、窓ガラス越しに家の中の様子を伺っている。
いつ、あのハンマーを振り下ろして窓ガラスを叩き割って中に侵入するかわからない。
「……声を出せません。犯人が近くにいます」
「わかりました、返事はしなくて結構です。GPSで大体の場所が分かりますので、パトカーのサイレンが聞こえたら教えてください。今、捜査員が向かっています。電話を切らずにそのまま安全な場所に隠れていてください」
すぐにパトカーのサイレンが聞こえてきた。ホッとしたのも束の間、
「あ、ぱとかーだ!」
油断して力を抜いた私の手をどかして、息子が大声で叫んで立ち上がってしまった。
「しー!」
息子の声と姿に気づいて、大男が、リビングの窓をハンマーで叩き割った。
防犯ガラスだから、割るのに時間がかかることを期待したが、力の強い大男によって、ザクザクとスムーズに割れていく。
火事場の力とはこのことなのか、私はものすごいスピードで息子を抱えて、玄関の裏口に向かう。
大男は、リビングに足を入れながら、体についたガラスの破片を振り払うのに手間取っている。
土足でのっしのっしと突進するところが見えたが、間一髪、私は息子を抱えたまま裏口から車庫に逃げた。
車に飛び乗り、素早くリモコンで道路に面したシャッターを開ける。
ゆっくりと開くシャッターがもどかしい。
・・・間に合うか?
そこへ、裏口の戸を勢いよく開け放って大男がやって来た。
パトカーのサイレンの音はすぐ近くに聞こえるが、大男は逃げようともしない。
真っ黒なロングコートと目深にかぶった帽子、澱んだ目、虚な瞳。
大男は、車の後ろのバンパーあたりにハンマーを振り下ろしてきた。
ドガンドガン
「うわあああああん」
さすがに息子が怯えた様子で泣き出した。
私は、車を発進させて、ギリギリ通れるところまで上がったシャッターの隙間からちょうど車体を滑り込ませて道路に出た。
大男は追って来るが、徒歩では追いつけないようだ。どんどん距離が開いていく。
もう大丈夫だろう。
パトカーが三台、今出た自宅へ向かっているのが見えた。ああ警察が来てくれた。
救急車の音も聞こえる。
……夫は大丈夫だろうか。
ジグザグと細道を進んで大男の目をくらませてから、私は近くの駐車場で停車して一息ついた。
家にスマホを置いてきてしまった。とんだ失態だった。
スマホを取りに行くためと、様子を見に行くために、すぐに自宅に戻ると、煙を上げるパトカー三台と血まみれの警察官たちがいた。
パトカーがところどころ潰されているところを見ると、大男にハンマーで襲われたようだった。
後から到着した救急車から下りてきた救急隊員たちが、警察官の救護に当たっている。
大男の姿はない。どこかで私たちを探して歩いているのだろう。
その凄惨な光景にただ呆然とする私。
ひとまずスマホを取りに帰るのは諦めて、車で警察署まで行き、息子だけでも保護してもらおうと思った。
警察署に着いて事情を話すと、私と息子は保護された。
「残念ですが、ご主人は……」
夫は庭ですでに絶命していたと伝えられた。落ち着いたら、身元確認をするよう促された。
夫の遺体は警察署の霊安室に安置されていた。
息子には、警察署の職員の女性と一緒に部屋の外で待ってもらっていた。パパの死を伝えることはまだできない。
身体中傷だらけで欠損している部分もあったが、確かに夫に間違いなかった。
「間違いありません。夫の昇司です」
私は興奮状態にあったため、すぐには涙も出なかった。これはおそらく、後から絶望がやってくるやつだ。
でも今は、残された幼い息子を守らなければならない。そのことで頭がいっぱいで、悲しみに身をゆだねる余裕はなかった。
あのパトカー三台の警察官たちは、大男に車の外から襲われはしたが、車外には出なかったので、命に別状はないらしい。
男は警察官たちを足止めしただけで、すぐに、逃げた私を追いかけたのだろうと思った。
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