第2話 秀頼の逆転勝利 始末 その二

 家康と比べたら可哀そうだが、現実は非情だ。秀頼には政治的経験や手腕など無かっただろう。淀殿の顔色を窺っているだけで豊臣の目指すべき方向性を提示できず、戦略も目標も無いままに苛立ち反発するだけ。そんな人間には誰も付いて行かない。だからいくら書状を出そうと、やって来るのは浪人ばかりで、大阪の陣で豊臣に味方した大名はいなかった。追い詰められて敵に渡すまいと堺のような貿易都市を燃やしてしまうなど、後先を考えられない豊臣家に未来を託す大名なんていない。夏の陣で豊臣軍が堺市街で軍需品を徴収しようと乱暴狼藉を働いたため、市民の心は徳川方に大きく傾いたのだ。もっとも後から来た徳川軍も、同じような事をしたらしいのだがな。

 だが秀吉が死んでしまっては、もう豊臣家に従っていた大名達を繋ぎ止める力は無かった。


 大坂の陣の段階で秀吉の恩顧を受けた大名の代替わりが始まっている。前田利家や東軍に付きはしたが加藤清正、池田輝政など次々と死去し、太閤の恩を受けていない子の世代に替わっていく。さらに藤堂高虎、黒田長政、細川忠興のように秀吉派だったはずの者も完全に徳川派に変身。

 世代交代が進んで秀頼の権威は既に無く、徳川幕府の権威と権力が天下の大名に認められているのだ。秀頼を討つことに抵抗を感じる武将は少なくなっていった。

 時代の流れは既に変わって、ほとんどの大名が現実を冷静に見ている。



 一方関ケ原以降、力攻めを大名に強要しなかった家康は先を見据えていた。

 秀吉亡き後、日本の最大勢力は半島遠征などで有力な家臣や兵力を失う事の無かった徳川で、現実に全国の大名を従えている。豊臣はその前に出ればただの一大名に過ぎなくなってしまっていた。家康やその他の大名にしてみれば、秀吉が居なくなってしまえば、その子孫や家臣にまで従う気持ちなど無いのだ。

 征夷大将軍に従わない一大名である豊臣は打ち滅ぼされて当然という考え方でもある。

 ただ、もしもここで秀頼が関白になっていれば、政治力次第で少しは違っていたかもしれない。だが関白は武士の棟梁ではなく天皇を補佐する政治家だから、当時の鼻息荒い武士にしてみれば、関白何するものぞと言ったところか……




「幸村はおるか」

「はい」


 おれが秀頼に転生した直後は、信繁でなく幸村と呼び掛けられる事に怪訝な表情を見せていたが、今ではすっかりその呼ばれ方になじんでいる。


「これからは年貢米を半分に減らすようにしろ」

「半分ですか!」

「そうだ」


 これまで長い間戦乱が続いて百姓は苦労しているだろう。だから年貢を減らして負担を少しでも減らそうというのだ。


「それから休耕地を耕したり、新たに開拓した者には、その田畑から上がる作物を自由にしていいと知らせろ」

「はい」

「もし土地の持ち主との面倒があった場合でも、豊臣家が必ず仲裁に入るから心配するなと触れを出せ」

「分かりました」

「それからな、城下から主だった商人達を招待せよ」

「…………」


 商人達にはこれから豊臣の支配地域では自由に商売を出来るようにすると伝えた。さらに商人達の代表を選んで商売上のトラブルや問題点を討論するような場を設け、何時でも豊臣家に提案できるようにする。そしてこれが一番の案件なのだが、商売をする上で必要な金が無ければ、豊臣家が工面をしようというものだ。その為の銀行を豊臣家主導で設立する。但し金利は年五分くらいと見ているが、必要なら話し合いで納得いくように決める。



「それから城下に神屋宗湛という者はいるか?」

「分かりませんが、探させます」

「大阪でなければ博多かもしれない。その者も特別に招待せよ。頼みたい事があるのだ」

「はい」


 東南アジアなど海外との貿易を盛んにさせよう。その為に必要な船は造る。商社を設立して、船の建造資金や貿易に必要な資金は株券を発行して賄う。もちろん豊臣家は筆頭株主となる。

 徳川が武士の棟梁で行くのなら、豊臣は民百姓さらに商人の国を支援して行くのだ。

 

「あの、秀頼様」

「なんだ」

「株券とは一体何なのでしょか?」

「商売に必要な資金を一般市民から広く集める、算段のようなものだ」


 勿論利益が出れば株数に応じた配当を出す。いずれ全ての運営を商人達に任せることにする。






「トキ」

「なあに」


 おれは一人になるのを見計らってトキに話し掛けた。


「おれを一度現代に移動してくれないか。すぐまたここに戻りたいが」

「いいわよ」


 蔵からインゴットを一つ持ち出す。

 戻った現代では東京の有名な田中貴金属店に行き、紙幣に換える。次は量販店に行くと化成肥料を大量に買い付けた。




「これは人糞の堆肥と同じものだ」

「…………」


 集まった百姓達を前に化成肥料の説明をする。


「どんな作物に利くかお前達で試してみろ。但しこれは人糞よりも強力だからな。注意して少しづつ使うようにしろよ」


 後は百姓達を信用してその裁量に任せた。



 次は大阪城下にあふれている浪人の問題を何とかする必要がある。いまだに夏の陣の高揚感が消えず、戦勝気分でいる者どもだ。大阪を去ろうとしていない。

 そこで勝永や幸村に軍を再編成させ複数の隊にして、大阪周辺の城を攻略させる事にした。八万から十万近くもの浪人が行き場も無く居ると思われるのだ。隊はいくらでも出来る。さらにこの時、家康は病の床にあるという情報が幸村配下の者からもたらされている。もちろんそれが本当だという事を、おれは十分承知だ。今徳川方は積極的に動ける状況では無いのだ。

 畿内とその周辺には、現代で言えば滋賀県に十カ所ほどの城がある。有名な所では安土、彦根、小谷、佐和山、観音寺城などだ。兵庫県などは姫路城や赤穂城など三十カ所は超える。

 滋賀、兵庫、大阪、京都、三重、奈良、和歌山県とすべてを攻めれば百近くの城になる。


 城の攻略は彦根城と津城等を除いて、順調にいった。先の戦で徳川方軍の殆どが武器を接収されている。大軍に包囲されると、どの城でも抵抗らしい抵抗も見せず豊臣の支配下となった。

 滋賀県の彦根城十八万石は徳川家康の命を受け、西国に向けての防衛拠点として築城されたものであり、さすがに当初ここの抵抗は激しかった。しかし勝永が八万の軍を従え包囲すると、鉄砲など一番肝心な武器弾薬が乏しい城内の戦意はやがて低下し落城した。

 そして三重県の津城は二十四万石、藤堂高虎の居城であったが、高虎自身は家康の見舞いに行っており留守であった。やはりここでも武器の少なさが決定打となり、包囲一か月で落城した。他には桑名城も激しい抵抗を見せたが、やがて物量の豊富な豊臣軍の前に落城した。姫路、和歌山城も大きな城であったが戦意は低く、大軍で包囲すると戦わず開城して降伏した。

 これで浪人達の殆どは常備軍として畿内と周辺各地の城に分散させることが出来、畿内や京の治安は維持されていく事となった。


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