第5話 さらえちゃった昨日のカレー味

 今日だけは誰に嫌われても仕方ない。太陽が主張する気持ちの悪い天気で、外にいることに後悔する。泥をつけた靴で輝く路面をできる限り擦り歩いてやった。今日は自分が美しいと思うものを汚したくて堪らない。こんなになるのは、自分が昨日まで美しい人間だと勘違いしていたからだ。

 大事なものを捨てた。温かくて一緒にいると落ち着く、それをあっさりとポイした。なのに、今はどっぷりずっぽり未練しかなくて戸惑っている。24時間営業のコンビニに足を踏み入れて、誰にも拒まれることなく陳列された冷たい水を一つ、私の手で取り去ってやる。

 ああ、この手で崩してやったんだなんて心で笑ってたら、そのすぐ後ろから新しいボトルが滑り込んできて、持っていたペットボトルを手で握ってしまった。音も立てずに柔らかく私を受け入れて形を変えた水に気づいて、すぐに手の力を抜いた。手に残った感触が消えていく度に、この体は人といると誰かを壊したい衝動に駆られてる怖さを覚え、で早く一人になりたくなくてはと会計を急いだ。恐ろしいことに衝動はどんどんと大きくなってる。私はまだ優しい人でありたいと走り出して、街から逃げるようにどこか遠くへと息を切らしながら走った。

 昼下がりの空に子どもが野球ボールを高く投げた。青い空の中に半円を描いた小さな球は限界を知って、そのまま土の上で待つ彼の手元に帰ろうとする。

 何も食べてない空のお腹よりも先にスマホが鳴った。「もう一度ちゃんと話したい」とホーム画面に表示された文字から彼が困った顔をしているのがよくわかる。心が曇っているから、このままじゃ、また嘘をつきたくなるから返事はまだできない。何も見なかったふりしてそっと電源を切った。 

 少年たちは空に飛んでいった野球ボールに聞こえるように呼んでいる。手の平を向けていた少年は、突如出てきた友達のしゃがれ声に驚き気を取られてこぼしてしまう。野球ボールは地上にあっけなく落ちた。それでも、彼らは大声を出して笑っている。

 もう一度、スマホ画面を開き彼とのやりとりに既読をつけた。みんな不器用なのだからこれくらいは許されると手を動かしてみる。送って数分も経たないうちに返信がきて相手が本当に焦っているんだと思ったらどこか申し訳なくなった。隙を見せた私を追い込むように着信がかかる。躊躇う体にそっとスマホを寄せた。

「やっと出た」

「ごめん。その、うん」

「今は何をしてたの?」

「野球見てる。楽しそう」

「ルールわかるの?」

「わかんないけど、見てて楽しいよ」

「好きな選手おるん?」

目に入った青い空に映えてる子どもたちの姿をなんとなく口にする。

「青ってことは、ドラゴンズか?」

「うーん。今は違うかな」

「今は?」

「うん。今はね」

風が少年たちの汗を乾かして、夕方の風に乗った笑い声が聞こえてきたらやっと落ち着けた気がした。話がちゃんとできる気になれた。

「本当に、昨日は急に、ごめんね」

「びっくりした。ずっと。今もよくわかってないよ」

「上手くさ言えなくて。でも、早くしないとって焦って」

「なんで?」

「あなたのことを想って別れたかった」

「俺のことを想ったって?」

 部屋を出る数分前までの顔は多分怖かったでしょう。あまり笑わない私に何度も「どうしたん」って聞いてくる度に胸が痛くなったよ。でも、その時には今夜別れを告げるって決めてたんだ。言いたいことだけあなたに捨てて、逃げるようにあの部屋を出て行ったのは悪いと思ってる。今も君が好き。でも、仕事が忙しくて未来のある君にとって邪魔だなって自分を否定するようになってしまったんだ。だから、離れたくなった。これ以上自分も嫌いになりたくなくて選んだ。閉じた扉の音は冷たかったでしょ。廊下に響いた音は私の心さえも閉ざして、あの部屋に取り残された君を想像したらかわいそうって思ったよ。

 落ちていく陽にせかされて自転車に跨って帰っていく少年たちを見ていたら、回る車輪に目を奪われて、なんとなく口がつぶやいていた。

「今日はカレーがいいかな」

「俺の話、まだ終わってないねんけど」

「小さい頃は嫌いだったんでしょ。初めて聞いたとき同じだって思った。あの主張しちゃう感じが嫌いなんだ」

「俺はもう大丈夫やし、むしろ毎日食べてる」

「ありえない。味覚が奪われちゃうよ」

「別にもう一緒に食べんやろ」

「そうだよね、もう機会もない」

「嘘やん、冗談。なあ、俺のこと嫌になったん?」

「違うよ。はち切れそうなくらい思ってるよ。好きやねん」

「見えんところで言ったって可愛ないぞ」

「言葉がうつらんかったなー」

「今からでも教えたるよ。だから、帰ってこいよ」

「どこに? 私は私の家に帰る。君の家は嫌」

「じゃあ、俺がそっちに行く。どこ?」

「来ないで。もう忘れて私のこと」

「このまま忘れろは無理やろ。置いてくなや」

「おいてったって、私は一歩も進んだことはないしあなたを置いて行ったこともないよ」

「俺だって。…そうやろ?」

「それじゃあ、初めから私たちこうなる運命だった」

「……」

「明日は仕事なの?」

「そうやけど」

「何時?」

「朝の9時」

「じゃあ、今日はとっととカレー作らないと。あ、でもちゃんとお野菜入れないとダメだよ」

「めんどいやん」

「体は大事だから、たくさん入れないとね」

「美味しいかわからんから食べてや」

「嫌だよ。鍋も小さいもん」

「じゃあ2回作ればええやん」

「それこそ、めんどくさいやん」

「下手くそ」

「うん。うちな、関西弁がヘッタやねん」

電話越しに揺れてる声は君だけだろうか。会話を繋げるのに必死で自分にまで気が回らなくなってるから私がじゃないか。そして、あなたも同じく強がって見せて心配しているだろか。空いていた片手で、冷たくなった腕を撫でる。自分の体なのに、自分じゃない寂しい体を撫でるように優しく触れた。

「あなたはちゃんと歩けるよ。明日も笑えるよ」

「ちゃうよ。それは違うって」

「違うくないよ。想像したら私が、あなたが、言ってたんだもん」

「俺はアホやからそんなこと言わん」

「ううん。あなたはちゃんとしてるから正しい。ちゃんと笑ってた。だから、ね」

「俺はお前が好きや」

「不器用な私たちは二つも愛せないよ」

「……」

「私も帰るね。本当に、本当に、ありがとう」

「なんて言えばいい?」

「……さようなら」

 今年はまだ慣れてない秋の夜風が迎えにくる中で、通信が終了した音がスマホから溢れていく。リズム、、口調、息継ぎ、会話の区切り、興味を示す話題、笑うポイント、言葉で寄ってくる距離感、全部が流れていく。この手で突き放した彼を、私の涙を、ただ流すことしかできない。それくらい私は強くはなかった。冷え切った人差し指でそのまま連絡先から彼の名前を消して帰路へ向かった。

 キッチンに立って、冷蔵庫からシャバシャバのカレーを作るときの材料で大好きなシチューを作って、少し多めに作ってしまったがそれも全部残さなずに頬張った。お腹を満されて体があったまっても寝ることを拒んで、そのまま時計も見ないで彼の夢を邪魔しないように部屋の片付けをすることにした。その日は、彼の心から私が歩き出した長い夜だった。

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