古びた眼鏡 3

―― ぼやけていてよく見えない。もしかして度数がきつすぎるのか?


 男がそんな事を思い、そっと眼鏡を外そうとしたその時、ぐらりと目眩がし、男の目の前の風景が今いる自分の部屋とは違うものに見えてきた。


 ―― え?


 「お父さん、お父さん、どうしちゃったんですか? ボーッとして」


 「え?」


 「もう、暑さと考えすぎでどっか行っちゃってたんですか? 私もう仕事に行くので、子どもたちお願いしますね」


 「あぁ」


 ―― どうしてしまったんだこれは? 自分の意思とは違う言葉が口から出てくる。それにここはどこだ? この人は一体誰なんだ?


 「それと、今日は夜まで仕事なので、先に寝ててくださいね、あんまりこんをつめちゃ、いいものも書けないですよ。ほどほどに、楽しくですからね」


 「ありがとう、いってらっしゃい。気をつけてね、でも帰ってくるまでは僕も起きて待ってるから」


 「じゃ、帰ってきたら読ませてもらうことにします。昨日の続き。楽しみにしていますね」


 ―― いったいなんの話を僕はしてるんだ?


 「さてと、まずは顔でも洗うかな」


 男の身体が立ち上がって土間に向かい、壺の蓋を開けて水をすくい、顔を洗った。そして、男は腰の手拭いで顔を拭いて、壁に立てかけてある古い鏡で自分の顔を見た。


 ―― え? これは、若い頃のおじいちゃん?


 どうやら鏡に映った自分の顔が自分の祖父だと気付いた男は驚いた。なぜ自分はこんなところにいて、意思とは反した言葉を発し、その身体は嫌いだった祖父になっているのか。


 「お父ちゃん、今日は何して遊んでくれるの?」


 五歳くらいだろうか、女の子が男の身体にまとわりついてきた。続いて、お父ちゃん僕もと、三歳くらいの男の子がくっついてくる。


 「おっとおっと、そんなにくっついたらお父ちゃん倒れちゃうよ。今日は一緒に川に魚釣りに行くってのはどうかな?」


 わーいわーいと子供たちが嬉しそうに走り回る。男の意識とは反して、顔の筋肉が動き、口角が上がったのがわかると、男の心がうっと少し締め付けられた。


 ――この女の子は僕のお母さんで、男の子はおじさんなのか。


 男は、子供たちが楽しそうに父親にくっつき、一緒に魚釣りや石蹴り、ご飯を作り食べて、眠りにつくまでを男の祖父の体で経験する。


 「おかえり、今日もお疲れ様だったね、ご飯は食べてきたかな?」


 男がふと気づくと口が勝手に動き、その目は祖母であろう女性を優しく見ている。目の周りの筋肉が綻ぶのを感じる。


 「今日はまだ食べる時間がなくて、急いでそのまま帰ってきたの。あなたのお話の続きが気になって」


 「なんだか君ばかりに仕事をさせてしまて、本当に僕はこんな何にもならないものを書いて毎日生きていていいのかと思ってしまうよ」


 「何を言ってるの? あなたも知ってるでしょ? 私は仕事が好きなの。いろんなお料理を覚えて作って、それを時間通りにお客様に出して、その時間や達成感が好きなの。そして、帰ってくるとあなたが書いているお話の続きが読める。こんな幸せなことないのよっていつも言ってるじゃない」


 「でも、近所や親戚の人には、君が売れない小説家志望のダメな男を食わせてやってる苦労人だと言われてるんだろう?」


 「言わせとけばいいのよ。私はあなたの書くお話が好きなの。子供と一緒に遊ぶあなたが好きなの。私は好きな仕事を好きなようにできることが幸せなの。他の人がなんと言おうと、私はあなたがいて幸せなのよ」


 ――おばあちゃんは、おじいちゃんに苦労させられてたんじゃなくて、好きでしていたということなのか? いや、苦労じゃなかったってことか?


 男は勝手に動く口と、何かが胸の中で熱くなる感触を静かに感じながらそう思った。


 「たった一人かもしれなくても、あなたの書くお話は私を幸せにしてくれるの。でもそれってすごいことじゃない。私は毎日それを楽しみにして生きているの、だからそんなこと言わないで、ね、今日書いたお話の続きを読ませて。もっとたくさんの人に読んでもらいたいな。いつか、こんなにあったかくって、何が大切なのかを教えてくれるあなたのお話を」


 男は胸に熱い塊が膨れ上がるのを感じて、祖父であろう手が眼鏡にのび、眼鏡を外した。


 ―― 今のはなんだったんだ。そして、僕はなぜ泣いているんだ。


 男は偶然たどり着いたよろず屋で1日だけ借りた華奢な丸いフレームのメガネを持ちながら、しばらくそのままでいた。

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