第3話 生きているのか、死んでいるのか

 一眠りすると昼。

 婆ちゃんが用意した冷そうめんを啜りながら昨日の夜を思い出す。確かにあの社務所の中にはあの女の足があり、突っ立っていた。一昨日と全く同じ場所だったように、思える。何かが、おかしい。チリンと風鈴が鳴った。涼しい風が吹いている。

 縁側でスイカを手に取ると、ばあちゃんが俺に話しかけてきた。


「今晩も火を焚くけんねぇ。おらんとあかんよ」

「わかってる」


 昨夕、起きたら家族で菩提寺に墓参りに行った。

 墓で提灯を灯してそれを頼りに先祖が家まで帰る。その火は盆が終わる炊き続け、盆の終わりに再び提灯に移して菩提寺まで行き、墓で火を消して先祖にお帰り頂く。

 急にあの女のことが気にかかってきた。亡者?

 いや、あの女は立っていた。生きているはずだ。

 不安にかられる。俺は一昨日夜、本当は女を殺して盆で帰ってきた女があの社務所から出られずにいるのでは。そんな馬鹿な。馬鹿馬鹿しい。そんなはずはない。物理的に。


 けれども不安は消えない。

 夜だったからだ。

 きっとそうだ。

 夜にあんな狭い口から覗いたから妙な気分になったんだ。携帯は未だ未読のままだった。昼ならば、今ならはっきりするだろう。


 気づくと車を走らせていた。日の光の下で見るとその廃社は全体的に腐り落ちただけのただの崩れた建物だった。ジィジィとクマゼミが煩い。夜と違って『この世のもの』と思われた。

 暑い日差しに滝のように流れ落ちる汗。暗い社の中は朽ちた長持や棚ばかり。動く物は千切れた御札がふらふら風に舞うくらい。

 思ったより狭い。一昨日夜に見た社は暗く奥深く見えたのに。暗かったから見間違えただけだ。ひゅうと涼しい風が吹く。


 社務所に向かう。返事がないことを確認した後、郵便受けを押し開けると絞るような奇妙な声が喉から出た。同時にぶわぁと腐ったような匂いが溢れて目に染み、黒い蝿がぞわぞわ郵便受けからまろびだし、思わず郵便受けに引っ掛けていた指を離す。ゼェゼェと喉から変な音が出る。俺の指先は細かく震え続け、背中はびしりと濡れた。


 やはり、死んで、いる?


 ゴクリと喉を鳴らし激しい動悸を抑えてもう一度入り口を押すと、薄暗い室内にはやはり足が2本立っていた。その足は酷く物理的で、幽霊では断じてない。恐る恐る下から眺めても膝上のスカートが見えるくらいで、顔には至らない。これは、なんだ。

 腐臭が途切れない。が、あの女の荷物も社務所の中にあるはず。夜食に何か買ってそれが腐った、に、違いない。そうに違いない。第一女は立っている。郵便受けを押し上げる指が汗でぬるりと滑る。


 郵便受けを震える指で押し上げる。泳ぐ目をなんとか動かし感じる違和感。全体的に少し、古びた、ような。白い靴下に茶色い染みができていた。それは膝の上から垂れていた。そしてその汚れの周りにぶんぶんと蝿がたかっていた。ぐ、うぅ。とたんにせり上がる嘔吐感。なんだ、これは、どういう、事態だ。わけが、わからない。頭が考えるのを拒否する。思わず後ずさり気づいたらハンドルを握っていた。倒れ込むように実家に転げ込み俺は意識を失った。


 この田舎の夜は温度がさほど下がらない。風が吹かないからだろう。だからたまに鳴る風鈴の音がとても涼しい。それから日暮しのカナカナという淋しげな声。

 目を開けた時、額に冷たいタオルが乗っていた。気づいた母がソーダを持ってやってくる。


「熱中症かねぇ?」


 喉がカラカラで一気に煽ってむせた。ぷぅんと蝿が1匹縁側から忍び込んでコップに乗ろうとしたから思わず取り落とす。


「ほんま大丈夫なん?」


 心配そうに俺を見る。食欲がふるわず冷奴と冷麦を啜る。送り火だけはちゃんとせなあかんよ、という婆ちゃんの声に火を跨ぐと、視界がぐらりと揺れて名伏し難い何かと深く繋がったような気がして嘔吐した。


 2時3分。はちりと目が開く。胃はまだぐるぐる妙な音を立て酸い匂いが口中を漂う。背中の汗が止まらない。暑いのにとても寒い。この震えがどこからくるのか理解していた。あの廃社が呼んでいる。よくわからない妄念に頭が割れそうだ。

 生きているのか死んでいるのか。生者か死者か。それがハッキリすればこの混乱は収まるだろうか。せめて。


 気づいた時、廃社にた。崩れ落ちそうになった。沼の底を思わせるネトリとした湿度に慄く。昼に見た社とは異なりその内は暗く闇に浸り、恐ろしいものに繋がっている、そう確信した。

 そんなはずはない。かぶりを振る。だが来てしまった。来てしまったからには確かめねばならない。ザリザリ耳に不快な音が満ち、歩みは水中のように重い。けれど幾ばくかの時間の経過の後に俺はその扉の前に辿り着く。

 ぷぅん、と聞こえたその高音は臭いの残滓か或いは蝿の羽音か。郵便受けを視界に収めた時、嘔吐し酸い匂いが広がった。気づくと指先にツィと固い感触があり、キィという音ともにフタは内側に開かれる。


 あぁ。


 嘆息した。生きていて、死んでいる。

 懐中電灯のか細い光に照らされたその2本の足はきちんと立っていて、しかもその爪先は左足が前に出ていた。1歩分、扉に近づいている。

 その足は茶色く変色して膨れ、靴下は汁で黒く澱んでいた。そのふやけたような表面には甲虫が這い回っている。

 懐中電灯を落として気づいたらベッドに横たわっていた。


 夢、だったのだろうか。いや。このタールのような臭い汗がぬるぬる張り付いたシャツは昨晩出かける前に寝巻きから着替えたものだ。いや、それも含めて全て夢? 汗が、酸い。

 夢であればいい。茫洋とした頭でそう願う。

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