第47話 牛鬼と濡女〈エピローグ〉

 後日。菊池あきらと水晶は、象の鼻桟橋を臨むビルの3階に位置する「朝霧海事法務事務所」を訪れていた。

 応接用ソファに腰かけた明は現在、友人の海事代理士である朝霧まりか、素性のよく分からない人魚のカナ、事務所の水槽に住んでいる金魚の精霊、キヌ、タマ、トネの注目を一心に浴びているところである。

 明はフルメタルのGショックを装着した右手首を掲げると、ひと呼吸置いてからその名を叫んだ。

「〈水薙ミズナギ〉!」

 次の瞬間、フルメタルのGショックが眩い輝きを放ちながら変形し、明の手の中にすっぽりと収まる。

 龍の姿が彫られた金属製の柄に、直刃すぐはと呼ばれる直線状の波紋が浮かんだ反りのない刀身。そして、赤い光を反射していたはずの刀身が、今は青い光を反射していた。

「わあ……!」

 真っ先に歓声を上げたのは朝霧まりかだった。とびっきりの笑顔を浮かべてソファから立ち上がると、ローテーブルに両手をついてグッと身を乗り出し、間近から〈水薙〉の美しい刀身を嬉しそうに見つめる。

「綺麗な青色……それに、前よりも安定してる感じがする」

「安定?」

「うん、上手くは説明できないけど」

 まりかは元通りソファに座ると、明と並んで座っている水晶に優しく笑いかけた。

「〈水薙〉って名前、水晶から取ったんですってね。とっても素敵な名前だと思う」

「はい、ありがとうございます!」

 水晶が、はにかんだような笑顔で元気よく返事をした。最初は〈水薙〉の名前が呼ばれる度にむず痒さを感じていたのだが、今では嬉しさと誇らしさで胸がいっぱいになっている。

「良かったね、水晶!」

「いいなぁ」

「ミズナギ……かっこいいと思う……」

 水晶を取り囲んだキヌ、タマ、トネも口々に〈水薙〉の名前を褒め称えるので、水晶は羽毛に覆われた小さな胸をますます膨らませていくのだった。

 そして、カナはというと。

「まあ、なんじゃ。小僧にしては、上出来と言えるんじゃないかのう」

 ソファにだらしなく座ってチューブ型アイスをシャリシャリと齧りながら、一見興味なさげな目つきで〈水薙〉をじろじろと観察している。

 腰までの長い白髪を持ち、青色の入れ墨に覆われた褐色の肌にTシャツと黒タイツを身に付けたその姿は、どこからどう見ても小学校低学年程度の少女である。だが明は、その正体がクジラ型の人魚であることも、外見年齢と実年齢が相当かけ離れているらしいこともこの数ヶ月の付き合いでしっかりと理解していた。

 それらを踏まえた上で、明はカナに〈水薙〉の見立てを頼んでみることにする。

「反射光以外の部分で、何か変わったと感じることはあるか?」

「ふうむ」

 明の質問に、カナが面倒くさそうに返事をした。それでも気にはなるのか、のっそりと立ち上がって〈水薙〉へと手を伸ばす。

 カナの小さな手が、刀身に触れる直前で止まった。

「カナ、どうしたの?」

 一同が、怪訝そうにカナを見つめる。

「…………むう」

 数秒間の沈黙の後、カナはのそのそとソファに戻った。チューブ型アイスに溜まった冷たいジュースを吸いながら、ムスッとした顔で明を見やる。

「まあ……あれじゃな。龍神の宝具には、持ち主以外は触れん方が良いと言うからのう」

「ああ、そっか……」

 明はひとまず納得しつつも、何か釈然としないものを感じる。それを察したのか、カナがこんなことを付け加えてきた。

「そんなに気になるのなら、北斗と昴にでも見せてみることじゃ。付喪神仲間じゃから、相通ずるものもあるじゃろう」

「わ、分かった。今度、赤灯台に行ってみるよ」

「カナ?」

 まりかが不審そうにカナを見つめる。しかし、カナが強引に別の話題に移ったため、結局はうやむやのうちに終わった。

「そんなことより、もっとお前さんの話を聞かせるんじゃ! 水晶に力を行使させるような、そんなのっぴきならない状況があったんじゃろう? 詳しく話せい!」

「いや、えっと……」

 明は言葉を濁して、その話題を避けようとする。しかし、この老獪な人魚が追撃の手を緩めるはずがなかった。それどころか、困惑する明を見てニヤニヤ笑いを浮かべる始末である。

「あれか、コームインのシュヒギムというやつか! そんなもん、ほとんど幽世かくりよと変わらんこの事務所じゃ意味をなさんじゃろうが」

「なにが幽世と同じよ! ていうか、ここ法務事務所よ?」

 まりかがムッとした顔をするが、当然カナは取り合わない。空になったチューブ型アイスの細長い容器で、ビシッと明の顔を指す。

「ほれ、観念してゲロってしまえ!」

「カナさん、我が主を困らせるようなことは――」

「ダメだっ!」

 明が、声を荒げた。一瞬、事務所がしんと静まり返る。

 思いがけない反応に、カナが眉をひそめて明の表情を伺う。

「なんじゃい、ムキになりおってからに」

「……悪かった、大声出して」

 明はすぐに謝った。必死のあまり、事務所の住人たちを怯えさせてしまったことを強く後悔する。

(それでも、やっぱりこの話は聞かせられねえよ)

 カナの言った通り、守秘義務違反になるからというのも理由のひとつだ。しかし、それを抜きにしても、三浦の海で起きた〈海異〉事案について話すつもりは毛頭無かった。

 何も、今回の事案に限ったことではない。通常業務の範囲内でも、話せないこと、聞かせるに耐えない話など山ほどある。

 数年前、まだ普通の海上保安官として巡視船で勤務していた際には、死後数日経過した遺体を海から引き上げたこともあった。こんなことは何も珍しい事ではなく、水死体の扱いに関しては、警察よりも海保の方が手慣れているとすら言えるだろう。

 そして、こうした綺麗事では済まない「現実」について、一般市民が取り立てて知る必要は無いと明は考えている。業務を遂行する上での苦悩や悲哀など、仕事の内としてその場で飲み込んで処理しておけばいい話である。

 だから、薄汚い打算と欲望にまみれた組織内の駆け引きや、横須賀の街に人知れず渦巻く陰謀、そして、とある牛鬼と濡女の悲劇的な顛末を、この平和で穏やかな事務所でわざわざ披露する必要性など、どこにも無いのだ。

「っ!」

 そうして気まずい沈黙が流れたところで、明の頬に何か柔らかい物体が押し付けられた。

「……やる」

 青文魚のトネが、水掻きの付いた小さな手でマシュマロを差し出してくる。

 明は戸惑いながらも、そっと指で摘んでマシュマロを受け取った。

「ありがとな、トネ」

「もっとシャンとしろ……」

 あくまでも無愛想な態度を貫くトネだったが、身体の後ろに回した手をモジモジと動かしているのが、まりかとカナ、そして水晶にはしっかりと見えた。

「あげる!」

「あげるー」

 トネに続いてキヌとタマも、明にマシュマロを差し出してくる。もちろん、明はありがたく笑顔で受け取ってその場で口に放り込んだ。

(そうだよな。主である俺が取り乱したら、水晶も動揺しちゃうからな)

 水晶はもちろん、友達想いの金魚たちのためにも、主として遜色のない振る舞いを今以上に心がけねばと肝に銘じる明だった。

 一方、平静を装ってマシュマロを頬張る明を眺めながら、まりかは心がモヤつくのを感じている。

(守秘義務だけが理由じゃないって感じがする)

 本人が話したがらない以上、その意思を尊重して何も聞くべきではないだろう。とはいえ、その「理由」について考えると、不平のひとつくらいは言いたいような気もしてしまう。

(別に良いわよ、お嬢様扱いなんて昔から散々されてきたし……というか、私も八景島の話をしてないし、お互い様か……)

 まりかは小さく息を吐いてソファから立ち上がると、何事も無かったかのように明に声をかけた。

「明、コーヒー淹れようか」

「……そうだな、たまには頼もうか」

 明も、いつも通りの温和な表情で受け答えをする。

 事務所内に、いつも通りの穏やかで楽しい時間が戻ってきた。

「……まあ、難儀なことよのう」

 カナはボソリと独り言ちると、冷蔵庫から勝手に取り出した2本目のチューブ型アイスをシャリシャリと齧り始めるのだった。




※※※




 薄暗い病室内に、誰かが話す声が響いている。

「――うん、なかなか見応えがあったよ。ただ、彼はまだまだ伸び代があるんじゃないかな。今後の九鬼君の指導に期待だね」

 男とも女ともつかない声で、ベッドに横たわる人物にひたすら話しかけている。

「もちろん、肝心なところは妨害してやったよ。あんな神モドキに、私が遅れをとるわけがないだろう? あいつ、さぞかしビックリしただろうなあ」

 そう言って、クスクスと楽しげな笑い声を立ててみせる。

「…………」

 話し声が途切れた。

 ベッドに横たわる人物からの反応は無い。

「……早く、君の声が聞きたいな」

 膝よりも長い髪をかき分けて、その人物に顔を近づける。

 コツンと額と額をくっつけて、すぐに離した。

 それから、今度はその人物の隣にそっと身体を横たえる。

「ソラ」

 超然とした瞳にとびっきりの愛おしさを込めて、経鼻栄養チューブが挿入された横顔に囁きかける。

「絶対に、助けてみせるから」

 尊い誓いの言葉は、薄暗い病室内に拡散して消えてしまった。

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