第33話 ハクモクレンの約束〈五〉

 狭い居間に、沈黙がおりた。

 まりかもカナも、そして史子も一言も発することなく、勝志が再び口を開くのを待っている。

 たっぷり1分は過ぎた頃、勝志が訥々と語り始めた。

「……避難した直後からずっと、姉は必死になって玉蘭ギョクランを探し回っていた」

 その時の光景を思い出したのか、勝志が目をしばたいた。

『玉蘭ーっ! どこなのー!』

 避難してきた大勢の人たちでごった返すホテルのロビーで、玉蘭の姿を求めて走り回る8歳の千代。

 ホテルで一夜を明かした後、母や祖母が止めるのも聞かずに建物を飛び出し、海を臨む山下公園へと向かった。

『玉蘭ーっ! いたら返事をしてーっ!』

 公園内を隅から隅まで駆け回るも、それでも玉蘭は見つからない。

『玉蘭……どこなの……』

 肩を落として避難先のホテルに戻った千代は、今すぐに横浜を離れて親戚宅へと向かう旨を母親から告げられた。

『いやよ、まだ南京町なんきんまちだって探してないのに!』

『さっき南京町に行ってみたけど、リンさん一家はおらんかった。食うもんも着るもんもなんも無いし、いつまでもここにいる訳にはいかんのよ』

 母親は、玉蘭を見つけるまでここに留まるという千代を説き伏せると、祖母と2人の子どもを引き連れて灰燼と帰した横浜を後にしたのだった。

(結局、玉蘭さんは見つからなかったのでしょうか)

 まりかはそう口を開きかけて、すぐに思い留まった。そんなことはわざわざ聞くまでもないことだと、悟ったからだ。

「……一度だけ、母が私に、玉蘭のことを話してくれたことがあったんです」

 すると、それまでずっと黙っていた史子が、ポツリポツリと語り始めた。

「あれは、ちょうど8歳の頃でした。咲き誇る白木蓮ハクモクレンの花を眺めながら、母がこう言ったんです」

「白木蓮、ですか?」

「ええ。『玉蘭』というのは、中国語で白木蓮のことなのですよ」

 白木蓮は中国原産の落葉高木で、日本には江戸時代以前に渡来したとされている。開花時期は3〜4月で、花弁は大きく厚みがあり、そして白く美しい。庭木や公園、街路樹など、今日でも至る所で親しまれている。

『玉蘭はね、きっと、家族と一緒に広東に帰ったのよ。お母さんは、そう信じてる』

 空に向かって一斉に咲き誇る白木蓮を眺める母・千代の、どこか諦めが混じったような寂しげな顔を、史子は今でも鮮明に覚えているという。

「――いや、確かに玉蘭は、あの大空襲で亡くなっている」

 突然、勝志が強い口調で断言した。その顔には、これまで見られなかった苦悩の色が僅かに滲み出ている。

「病床の母が、死の間際に私だけを呼び寄せて打ち明けたんだ。玉蘭は、家族と共に防空壕の中で亡くなっていたと……」

 空襲の翌日、焼け野原となった南京町に足を運んだ千代の母親は、そこで凄惨な光景を目の当たりにした。

リンさん宅からほど近い防空壕の中で、他の数家族と一緒に蒸し焼きになっていたのを、母ははっきりとその目で確認したそうだ」

 とてもではないが千代には聞かせられないと思った母親は、すぐに横浜を離れる決心をしたという。

「……はっきりと口にしたわけではないがね、母はずっと、姉に対して後ろめたさを感じていたのだろうと思う。危険が迫っていたとはいえ、玉蘭の安否について口からでまかせを言ったこと。そして、最期まで真実を隠し通し続けたことを……」

 勝志が、皺だらけの顔を小さく歪めた。

「……この話をするのは、あなた方が初めてだよ」

「っ!」

 まりかは呼吸を止めて、勝志の顔を見た。次に史子の方を見ると、驚いた様子で勝志の顔を凝視している。勝志は本当に、誰にもこの話をしたことが無かったらしい。

(そうか)

 まりかは、ようやく得心した。

 雨の中、正体不明の訪問客のために勝志がわざわざ駆けつけたのは、この話をするためだったのだと。

 何十年もの歳月を経た苦悩の計り知れないその大きさに、まりかは腹の底がずっしりと重くなるのを感じる。

 窓の外から届く雨音が、静まり返った居間の空気を冷ややかに震わせた。




 襖の向こうの四畳半では、年老いた千代が穏やかな寝息を立てて眠りについていた。

「1年ほど前からです。最近の出来事をすぐに忘れたり、新しいことが覚えられなくなったり……数ヶ月前からは、私のことが分からなくなることも度々ありました」

 自分では若い母親のつもりなのか、「史子という名の小さな女の子」の居場所を、史子や勝志に対して訊ねてくることが何度もあったという。

「それでも、うちはまだ穏やかな方だと思いますよ。あの日のことを除けばですけど」

 あの日、つまり5月29日のこと。朝のニュースで、横浜大空襲についての特集が流れたという。

『……玉蘭』

 ぼうっとテレビを眺めていた千代が、ふらりと立ち上がった。

『玉蘭を、探しに行かなくちゃ』

『母さん?』

『玉蘭……どこなの……』

『母さんっ、落ち着いて!』

 史子はすぐにテレビを消して、必死に千代を宥めた。それで一旦は落ち着いたらしいが、その日の夜、史子が少し目を離した隙に家を抜け出してしまったという。

「警察や自治会、それから叔父や他の親戚にも連絡して、みんなであちこち探し回りました……海の方を探しに行ったのは、叔父の提案によるものです」

「姉が8歳の少女に戻っているのだとしたら、海に面した山下公園を目指すつもりで、海の公園へ向かったのかもしれないと考えたのだよ」

 そうして、砂浜で眠る千代を発見するに至ったという。

「その時に、あの人魚が千代さんに触れたのでしょうね……」

 まりかが話を振ると、カナがフンと鼻を鳴らした。

「おおかた、興味本位でつつき回そうとしたんじゃろう。いかにも雑魚どもがやりそうなことだわい」

 好奇心は猫を殺すなどと言うが、安易に人間に近づいたばかりに、思念に侵されて自分とは無関係の感情を抱きながら海をさまよう羽目になるとは、想像もしていなかったに違いない。

 まりかは、勝志と史子に向き直った。

「それでは、先ほどお話した通り、玉蘭さんに関する千代さんの記憶を読み取らせていただこうと思いますが……本当によろしいのでしょうか」

 まりかが、思念の発生源を突き止めて訪問した理由。それは、あの人魚に対して、探し求めている対象の幻影を見せるためだった。つまり、自分以外の人間の記憶を利用した幻術を行使するということになるのだが、人間社会の基準に当てはめた場合、これには少なからぬ問題が発生する。

「人間の記憶を覗き込む場合、どうしても目的以外のものも見ることになってしまいます。端的に言ってしまえば、これはプライバシーの侵害です。おふたりが少しでも不快に思われるなら、私は迷わず中断します」

 本当なら千代の意思を確認したいところだが、最近の千代の状態としては、まりかの話を理解するのは困難だろうということである。ここは、史子と勝志に判断を委ねるしかない。

 数秒間の沈黙の後、史子が小さく頷いた。

「どうぞ、お願いします。母なら、例え幻であろうと、幼い日の自分に玉蘭を会わせてあげたいと願うはずです」

 勝志も、了承の意を示した。

「私も同感だよ。それに、幼い姉の姿をしたものが『浄化』されることを想像すると、あまり良い気分にはなれない」

「分かりました」

 まりかは、ふたりの真摯な想いを受け取ると、自分の中に残っていた迷いを振り切った。

 千代の枕元にそっと座ると、両手を頭部すれすれにかざす。

「それでは、始めます」

 まりかは完全に目を閉じると、心の中で玉蘭の名を呼びながら、記憶の海に飛び込んでいった。




 白色の航海灯が、薄暗い海の上で不安定に揺れている。

 一切の陽光が雨雲に遮られ、天地がただただ闇に沈んでいくだけの陰鬱な夕暮の中、まりかとカナは再びフィッシングボートに乗って八景島はっけいじまの沖合を目指していた。

「まさか、幻術まで使えるとは思わなんだぞ」

 まりかの隣に座ったカナが、前を見たまま半ば独り言のように話しかけた。

「霊力が異常に高いとはいえ、ただの人間に対して、あえて幻術を教える必要があるとは思えんのじゃが……蘇芳のアホは一体、何を考えておるんじゃ」

「あれは、蘇芳様じゃないわ」

「へっ?」

 カナは、二重の意味で驚いた。ひとつは、川上家を辞してからほとんど無言を貫いているまりかから、意外にも返答があったこと。もうひとつは、返答の内容そのものに対してである。

「あれはね、真砂まさごさんに教えてもらったの」

「まさご?」

「そのうち話すわ」

 それきり、再びまりかは黙ってしまった。

 まりかの心中を察しているカナもそれ以上追及することなく、前方の薄闇をぼんやり眺めて過ごすことにする。

 しばらくの後、八景島の沖合に到着した。同時に、暗い海面からバシャリと音を立てて、千代の姿をした人魚が飛び出してくる。

「玉蘭は!? 玉蘭はどこなの!?」

 人魚が纏った幽世かくりよの甘い匂いが、仄かに漂ってくる。世界は既に夕暮れから夜へと変わりつつあったが、人魚の全身が淡い光を帯びているため、昼間と同じようにその姿形を認識することができた。

「待ってて。今、会わせてあげるから」

 まりかは、慈愛に満ちた表情で人魚に笑いかけると、軽く目を瞑って両手を前に伸ばした。

 まずは、手と手の間に霊力を凝縮させて光の球を形成する。次に、それを小さな子供くらいの大きさに引き伸ばすと、千代の記憶から読み取った玉蘭の姿を、頭の中で可能な限り鮮明に思い描く。そして、あらん限りの集中力でもって、思い描いた玉蘭の像を光の球に投影した。

「っ! 」

 人魚の目の前に、ひとりの少女が出現していた。

 髪は千代よりも少し長く、その髪型を例えると前髪の無いボブといった印象である。ほっそりしたその身体には、下衣がズボンとなっている旗袍チーパオを身に付けていた。

「玉蘭!」

 人魚が、歓喜を露わに叫んだ。目尻に涙を浮かべながら、まっすぐに玉蘭の胸元に飛び込む。

「――――」

 玉蘭の幻影が、微笑みを浮かべて人魚を抱き締めた。所詮は幻影でしかないため、その姿はどこかおぼろで、声を発することもない。それでも、思念に侵食されたに過ぎないあやかしには、それだけで充分だった。

「玉蘭……」

 満ち足りた笑顔を浮かべながら、玉蘭の幻影に身を委ねる人魚。その身体から、光の粒がポツポツと立ち昇っていく。

 やがて、まりかとカナが見守る中、人魚を侵食していた思念は無数のまばゆい光の粒となって昇華し、大気に溶けるようにして消えていった。

 続いて、役目を終えた玉蘭の幻影もあっさりと雲散霧消してしまう。後に残ったのは、髪の毛が無く、もちろん服も着てない、ハゼに似た形をした小さな人魚だけだった。

「ふみゅ?」

 人魚が、キョトンとした顔でキョロキョロと周囲を見回す。

「みゅ?」

 人魚のクリクリとした黒い目が、まりかを捉える。

 まりかが、人魚に話しかけようとした。

「あの」

「いやあーーっ! にんげんーーっ!」

 人魚が大絶叫した。

 そのまま素早く身を翻すと、盛大な悲鳴を上げながら、あっという間にバシャバシャと泳ぎ去ってしまった。

「礼のひとつくらい言わんかい……」

 カナがボソリと呟いた。まりかは無言のまま、人魚が泳ぎ去った方向を眺めている。

 幽世の気配は完全に遠ざかり、航海灯が照らす海面の外は夜闇にとっぷりと呑まれている。

 雨粒が、まりかの頬を叩いた。まりかはのろのろと足を動かすと、操縦席に座って機関エンジンをかけた。

「……もしかして、川上千代に会う前から分かっておったのか?」

 ふいに、カナがまりかに問いかけた。

「少女だった頃の千代が、どんな経験をしていたのかを」

「そうね、大体の見当はついてた」

 はるか前方、マリーナの防波堤灯台の灯光を見つめながら、まりかが平坦な声で答えた。

「あの服装と髪型、それから古い町の名前という情報を合わせれば、私でなくても大体の人が事情を察すると思うわ」

 まりかはボートを発進させた。

 雨雲に遮られて月も見えないくらい海を、赤と緑の閃光を目標にゆっくりと進んでいく。

 しばらくして、再びカナが問いかけた。

「川上千代はどうなるんじゃ?」

「……」

 モーター音に負けないように少しだけ声を張り上げたが、まりかから返事は無い。聞こえなかったのだろうと考え、もう一度声を張り上げようとしたところで、まりかの冷たい声が響いた。

「どうにもならないわよ」

「……むう」

 普段のまりかからは考えられない、相手を突き放すようなその声色に、カナは戸惑いを感じる。

 そんなカナの様子を察したのか、まりかが少しだけカナに視線を向けた。あらゆる感情を削ぎ落としたようなその顔つきに、カナは暗くて冷たい氷の海を連想する。

「……声も出ない、実体も無い幻影を見せたところで、却って辛い思いをさせるだけよ。それに、そもそも親族の方からは何の依頼も受けてないわ。これ以上、他人の人生に首を突っ込んで引っ掻き回すわけにはいかないの」

「……」

 まりかはすぐに前方に視線を戻した。

 夜間の航海は、昼間よりも危険が多い。カナにもそれは分かっているため、食い下がることはしないことにした。

 代わりに席を立って船尾へと向かい、白い航跡が延々と引かれるのを睨みつける。

(人間社会のややこしい取り決めや不文律など、わしの知ったことか)

 顔を上げて、漆黒の闇をじっと見つめる。

(わしは、わしのやりたいようにやらせてもらうぞ)

 固い決意を胸に、紅葉のような小さな手をギュッと握り締めた。




 海霧が、海岸一帯を覆っている。

「……」

 八景島を臨む砂浜に、ひとりの老女が立ち尽くしている。

 どのようにしてここまで来たのか。そもそも、どうして自分はここに居るのか。

 老女――川上千代は、そうした疑問を抱くことすらままならない。

「……」

 波打ち際に、何かが横たわっていた。

 ウェーブのかかった長い白髪と、褐色の肌。その下半身はクジラのような形態をしており、顔を除いた全身の肌をゆるやかな曲線を描いた青い入れ墨が覆っている。

 そして、頭から尾ひれまでの長さは、優に2メートルはあろうと思われた。

「……」

 千代は、ぼんやりとした目をに向けた。

 その顔立ちは、壮絶なまでに美しい。そして、海のような深みを湛えた金色こんじきの瞳が、現世うつしよと幽世の境が不明瞭なこの世界で、確かな存在感をもって、まるで銀河のように輝いている。

 しかし、今の千代にとっては、ただそれだけのものだった。他に見るべきものもなく、少々の物珍しさもあってに目を留めているに過ぎない。

「――川上千代」

 が、堂々たる声で千代に呼びかけた。

「海から離れた地では存分に力を発揮できぬゆえ、この砂浜に呼び寄せた。そなたと、そなたの縁者には面倒をかけるが、ここはひとつ、やむを得ぬものと考え、大目に見てはくれぬかのう」

 一応は詫びの言葉を口にしているものの、その尊大な態度からは微塵も悪びれた様子が伺えない。とはいえ、その王者のごとき振る舞いこそがに相応しいものであることは、誰の目にも明らかだっただろう。

 しかし、威厳に満ちたの言葉を聞いてもなお、己の全てを見失いつつある千代の瞳は微動だにしなかった。ただただ、を見つめるのみである。

 そうした千代の「無礼」を気にするでもなく、は天に向かって大きく両腕を広げた。

「これは、せめてもの手向たむけだ」

 一瞬だけ目を閉じて、すぐに開く。

 そして、高らかに叫んだ。

「受け取るがよい――我が祝福を!」

 瞬間、世界に色と光が満ち溢れた。

 色とりどりの花々に、澄み渡った青空。芳醇な香りを含んだ初夏の風が、そよそよと千代の頬を撫でながらどこか遠くへ吹き抜けていく。

「……!」

 千代の瞼が、ピクリと震えた。

 ひとりの少女が、花壇のそばでしゃがみ込んでいる。どうやら花を見ていたらしい少女は、千代の姿に気がつくと、ゆっくりと立ち上がった。

 おかっぱよりも少し長い髪と、下衣がズボンになった旗袍チーパオ

 紛れもなく、玉蘭だった。

「ぁ……」

 初めて、千代の瞳が揺れた。皺の刻まれた目元がわななき、乾いた唇から声にならない声が今にも出ようとしている。

 対する玉蘭は、落ち着いた様子で軽く髪をかきあげると、怪訝そうに眉をひそめて

「……千代?」

「玉蘭!!」

 あまりにも懐かしいその声に、千代は8歳の少女になって駆け出していた。

「玉蘭!」

 少女になった千代が、ぶつからんばかりの勢いで玉蘭に抱きついた。

「もう、どこに行ってたのよ? ずっとずっと、あなたのことを探してたんだから!」

 千代が目尻に涙を浮かべて笑いながら、玉蘭の顔をまじまじと見つめる。すると玉蘭は、ちょっぴり可笑しそうな顔をして、千代の顔に手を伸ばした。

「ばかね。私がどこかへ行ってしまうなんて、そんなことあるわけないじゃない」

 そう言って、零れそうになっていた涙を指先で拭ってやる。

「……ふふっ、そうよね!」

 そんないつもと変わらない玉蘭の様子に、千代は心の底から安堵した。南京町が燃えて無くなったことも、どれだけ探しても玉蘭が見つからないことも、全てはただの悪い夢に過ぎなかったのだと思った。

「ところで、千代はここがどこなのか知ってる?」

 ひとしきりふたりで笑い転げたところで、玉蘭が辺りを見渡しながら訊ねてきた。千代は、待ってましたとばかりに得意そうな顔で答える。

「ここはね、『港の見える丘公園』といって、戦争が終わってから山手にできた公園なの」

「ええっ、山手に?」

「向こうに展望台があるから、行ってみましょう!」

 千代は玉蘭の手を取ると、石畳と花壇でできた西洋風の公園内を進み始めた。

「この季節になるとね、たくさんの薔薇が咲くのよ」

「薔薇って、こんなに色んな種類があるのね」

 ふたりで手を繋いだまま、美しく咲き誇る薔薇たちの彩やかなことを楽しみ、えも言われぬ上品な香りにうっとりとする。

 やがて、展望台にたどり着いたふたりは、眼下に広がる見事な光景に歓声を上げた。

「わあ……!」

「すごい……」

 現代に存在する公園から、過去に存在したふたりの少女が見たもの。それは、大黒埠頭も本牧ほんもく埠頭もベイブリッジも、もちろんランドマークタワーも観覧車も存在しない、1945年当時の横浜の景色だった。

「建物が、あんなに小さく見えるわ!」

「海の向こう側、あの辺りが東京なのかしら」

 キラキラと目を輝かせて、景色に魅入る千代と玉蘭。

「千代! ほら、あそこ!」

 玉蘭が、とある一点を指さした。

「あれって、上海丸? 横浜にも来てたのね!」

 千代が、嬉しさと羨望が入り交じった表情を浮かべて、海を往く一隻の船を見つめる。

 上海丸は戦前、日華連絡船として神戸と長崎、そして上海の間で運航されていた貨客船である。横浜で見かけることはまずありえないはずなのだが、この千代と玉蘭の世界において、叶わない事など何ひとつ存在しない。

「いいなぁ。あれに乗ったら、上海に行けるのよね」

 千代が、2本の煙突から黒煙をくゆらせる上海丸を眺めて、ほうっと嘆息した。

 すると、玉蘭がこんなことを言ってきたのだ。

「行けるわよ!」

「え?」

 すぐ頭上で、汽笛が鳴り響いた。

 気がつくと、千代は上海丸の甲板デッキに立っていた。

「ええっ!?」 

 驚いて辺りを見回して、それから自分の身体を見下ろして、そこで更に驚いた。

 千代は、旅装に身を包んでいたのだ。それも、華族のお姫様が着るような上等な仕立ての服である。

 驚きが冷めやらぬまま隣に目をやると、同じく上等な旅装に身を包んだ玉蘭が、ニッコリと笑いかけてきた。

「ね? 乗れたでしょう?」

「……うん!」

 玉蘭の笑顔に、千代は幸せで胸がいっぱいになる。

 ふたりは再び手を取り合うと、遠ざかる横浜の街を眺めながら、まだ見ぬ憧れの上海に思いを馳せた。

「上海に着いたら、まずは何をしようか?」

「そうねえ、私は……」

 初夏の海風が、上海丸の甲板デッキを優しく吹き抜けた。どこからともなくやってきた白木蓮の花びらが、ふたりの船出を寿ぐかのように花吹雪となって舞い踊る。

 ふたりの航海はまだ、始まったばかり――




 砂浜に、ひとりの老女が横たわっていた。

「玉蘭……」

 幸せそうな笑みを浮かべて、幼き日の友の名を呟く。 

 老女――川上千代は、白木蓮の夢に包まれていた。彼女はその短い余生を、至福のうちに終えることとなるだろう。

 そして、砂浜に独り横たわる千代を、幼子の姿に戻ったカナが海の中から見守っていた。

 穏やかな微笑を浮かべて、眠りにつく千代。

 それを見つめるカナは、しかし、全く笑ってはいなかった。

 そのあどけない顔は、見る者をゾッとさせるほどに大きく歪んでいる。

 金色の瞳に浮かぶのは、激しい憎悪。

 己の内側から皮膚を突き破って出てこようとしているドス黒い塊を、ギリギリの理性で押さえ込んでいる。

 カナは、ギザギザの歯を獣のように剥き出した。

(吐き気がする)

 ――今、全てを思い出していた。

「いたぞ! あそこだ!」

「母さん!」

 懐中電灯の明かりが、横たわる千代を捉えた。

 カナは、人々が千代に駆け寄るのを見届けると、身を翻して海中へと没した。

 もしも、誰か見ていた者がいたのなら、その頬に一筋の涙が伝っていたのを認めただろう。

 捜索隊のひとりが、千代の呼吸や全身状態を確認する。

「良かった、怪我はしてないみたいだ」

 その言葉に、史子を初めとした捜索隊の面々はひとまず胸を撫で下ろした。

「これって……」

 母の容態を確認していた史子は、その手に何かが握られていることに気がついた。

 その手に握られていたのは、季節外れの白木蓮の花びらだった。

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