第30話 ハクモクレンの約束〈二〉
小雨がパラつく中、まりかとカナは急ぎ足で桟橋を進んで、マリーナ側から提供されたフィッシングボートへとたどり着いた。
「これに乗って
「ふうむ」
雨に濡れる桟橋に突っ立ったカナが、定員5名の小さな船とまりかを交互に見比べる。まりかは動きやすい服装に着替えた上で、雨天に合わせて上下共にレインウェアを身につけていた。足元には防水性の高いスニーカー、肩までの髪はすっきりと纏めた上で〈夕霧〉のみを挿している。
「……まりかよ、何をもたもたしておる。急ぐとか言うとらんかったか」
カナが、ボートに乗らずに桟橋上を行きつ戻りつしているまりかに疑問をぶつけた。
「これはね、『発航前検査』をしているの。とても大事な作業なんだから」
発航前検査は、その名の通り航海に出る前に船に異常が無いかどうかを確認する作業を指す。
「何年か前から、発航前検査は船長の義務になったの。違反すると、行政処分の対象にもなりうるのよ」
まりかは船体外壁や
「ギョーセーショブンが何なのかは知らんが、まりかなら
「確かにそれはそうだけど」
航海灯の点灯や各種メーターの数値が正常なことを確かめつつ、まりかはカナの意見に対して自身の考えを述べる。
「私はあくまで人間だし、
まりかは操縦席から立ち上がると、桟橋の縁に座って足をブラブラさせているカナと向かい合い、首を傾げて微笑んだ。
「それに、最初に会った時に『うぬぼれるな』って言ったのは、あなたの方でしょ」
「……なんじゃ、覚えておったんか」
何故だかカナは気恥ずかしさを覚えて、雨粒が跳ねる海面へと視線を逸らす。
そんなカナの反応にちょっぴり可笑しさを覚えながらも、まりかはこの期を逃すまいと、カナに対してある要求を突きつけることにした。
「……というわけで、船に乗る前にこれを着てちょうだい」
「ふぁっ? なんじゃこれは!」
まりかがカナに向かって差し出したのは、ベスト型のライフジャケットだった。
「
「船長命令よ、我慢して」
「せめて、まりかと同じのが良いんじゃが」
「申し訳ないけど、子供用はこのタイプしか無いの」
カナが、まりかが装着している腰巻式のライフジャケットに視線を注ぐも、まりかは頑として首を縦に振らない。
「ぐぬぬ……やむを得ん……」
こうして、カナはめでたくライフジャケットデビューを果たすことになったのだった。
「ところで、ライフジャケットというのはどのように役に立つのじゃ?」
「海中に落ちた時に、浮き袋の役割を果たすのよ」
「そいじゃ、試しに」
「勘違いされるから止めてちょうだい」
カナにライフジャケットを着せて、残りの発航前検査を全て終わらせると、まりかは係留ロープを解らんして機関を始動した。
「ようやっと、出発じゃな」
みるみるうちに桟橋が遠ざかり、ボートはマリーナの防波堤を目指してゆっくりと進んでいく。
片方が赤色、もう片方が緑色に光る防波堤灯台の間を通り抜ける頃には、天気は小雨からザアザア降りへと移り変わっていた。
降りしきる雨の向こうに八景島の姿を確認すると、まりかは機関を停止して
まずは、紙の海図に記載された底質や水深、それからGPSプロッターに表示された水深値を見比べながら、現在位置が錨泊地としてふさわしいことを今一度確認する。それから海図を閉じて皮手袋をはめると、
「しばらく、ここで待ってみましょう」
まりかは操縦席に戻ると、リュックサックの中からスーパーで調達したおにぎりを2つと、チョコレート味のシリアルバーを取り出した。引き続き周囲の状況に注意を向けつつ、行動食とでも呼ぶべき簡単な昼食をペットボトルの麦茶と共に黙々と胃袋に収めていく。
「おい、まりか。八景島というのは、ひょっとして遊園地なのか?」
プリンとティラミスを食べ終えたカナが、ペットボトルのジャスミン茶を飲みながら数km先に見える八景島を熱心に見つめている。
まりかは南高梅のおにぎりをゴクンと飲み込むと、すっとぼけた顔で答えた。
「うん、まあそうね」
「お前さん、わざと黙っとったな」
カナがジトりとした目をまりかに向ける。
「だって、絶対に行きたいって言うじゃない」
「そりゃそうじゃろ! 最近は近場にも飽きてきたところなんじゃ。わしはな、新たなる刺激を欲しておるのじゃよ」
「もう、分かったわよ」
シリアルバーの個包装を開けながら、まりかは軽くため息をつく。
「正直、たまには家から一歩も出ずに日がな一日のんびり読書とかして過ごしたいんだけど……あっ、そうだ」
シリアルバーを食べようとしたところで、まりかがパッと顔を輝かせた。
「どうせなら、
「……」
まりかの提案に、カナが沈黙を返した。
「カナ?」
まりかが、カナのふくれっ面を見て怪訝そうに眉をひそめる。
「……ひょっとして、まだ明のこと嫌ってるの?」
しばらく逡巡した後、まりかがおそるおそるカナに訊ねた。
当初は明に対する敵意を隠そうともしなかったカナだったが、この数ヶ月の間に幾度か交流を持つ中で徐々に態度を軟化させ、最終的には水晶の一件によって、明が信頼に足る人間であると渋々ながらも認めていた。
だからこそ、まりかにとって初めての「同業者」の友人である菊池明と
「……別に嫌ってはおらん。過ぎたことをとやかく言うつもりも、もう無いわい」
しばらくして、カナがブスッとした声でまりかの問いに答えた。
「それに、あやつはともかくとして、水晶と遊ぶのはわしとしてもやぶさかではない」
「じゃあどうして」
「まりか」
カナが、飲みかけのペットボトルを小さな手で握り締めながら、正面からまりかを睨みつけた。
「わしと2人きりになるのが、そんなにイヤなのか?」
「……へ?」
雨粒がフィッシンクボートを叩く音が大きくなった。その背後から、ビチャビチャと無数の雨粒が海水を跳ね散らかす音が微かに聞こえてくる。
雨粒の不協和音に囲まれながら、まりかは必死に頭を回転させてカナの言葉の意味を推し量ろうとした。
(私と2人きりになれなくて拗ねてるの? そんなの、まるで子供みたいじゃない)
子供。そう、カナは外見だけなら紛うことなき子供である。しかし、その実態は年齢不詳の老獪な人魚であることを、まりかはよく理解している。そして、その幼稚な言動の数々を真に受けようなどとは、これまで一切考えてこなかった。
でも、もし今のカナの発言が本心からのものだとしたら?
(……まさか、独占欲?)
まりかの頭に浮かんだ漢字3文字。それは、親を独り占めしたい子供が抱く、健気で素朴な欲望。
(外見に引っ張られるということも、あるのかもしれないわね)
当初より馴染んできたとはいえ、慣れない人間社会での生活は傍目で見るよりもずっと負担となっていたのかもしれない。ここにきて、精神面における「幼児退行」を引き起こしたのだろう。
そう結論づけたまりかは、とにかくまずはカナの気持ちを落ち着かせる言葉をかけようと、口を開いた。
「カナ、えっとね」
「――来おったな」
しかしそれは、他ならぬカナによって遮られることとなった。先ほどまでの子供じみた表情や仕草は跡形もなく消え去り、一切の隙を感じさせない鋭い目つきで周囲を睨んでいる。
「ええ、来たわね」
そしてまりかも、瞬時に意識を仕事モードへと切り替えた。
ザアザア降りの雨は、いつの間にか糸雨へと変化していた。雨粒の不協和音も遠ざかり、ボートの周囲はしいんと静まり返っている。
まりかとカナは目配せを交わすと、無言のまま席を立った。しとしとと降りしきる雨の中ゆっくりとボートの船尾まで移動し、近づきつつある小さな気配を静かに待ち構えた。
「――――、――――」
最初に、少女のか細い声がまりかとカナの耳に届いた。
「――――、――ラン」
それから少し経って、糸雨の隙間から浮かび上がるようにして少女の姿をした人魚が姿を現す。
「――ラン、――ラン」
船尾から数メートルほど離れた海面上で、今にも泣き出しそうな顔をした人魚が、まりかとカナに向かって両方のヒレを伸ばしてくる。
「ねぇ……どこなの……」
おかっぱ頭の人魚の顔が、クシャリと歪む。
「誰かを探しているの?」
まりかは、少女の姿をした人魚に優しく微笑みかけると、ボートの上からそっと手を差し伸べた。
「良かったら、お話を聞かせてもらえないかしら。何かしら協力してあげられるかもしれないから」
「!!」
まりかの言葉に驚いたのか、人魚の目が大きく見開かれる。次の瞬間、海面を飛び跳ねるようにしてボートに近づくと、躊躇いなくまりかの胸の中に飛び込んできた。
「っ!?」
想定外の行動に戸惑いつつも、まりかは少女の姿をした人魚を柔らかく抱き締める。
「もう大丈夫よ。安心して」
「ひっぐ……うぅ……」
まりかの胸の中で、人魚がしゃくり上げながら泣き始めた。人魚が纏う
まりかは何も言わずに、人魚のおかっぱ頭を優しく撫でてやった。
「はんっ! 小物の分際で、実にけしからん!」
一方のカナは、面白くなさそうな顔をしてボートの端であぐらをかいていた。もちろんボートの床は雨で水浸しなわけであるが、海が本来の住処であるカナにとって身体が濡れた状態はむしろ自然なことであると言えるだろう。
そんなカナに構うことなく、まりかは次なる対応を考えるため、まずは胸の中で泣きじゃくる人魚の姿を観察し始めた。
半袖の襟付きシャツに、黒いおかっぱ頭。腰から下はハゼのような形態で、腕はハゼのヒレのような形をしている。体長はカナよりひと回り小さいくらいだが、実体を持たない
そう、この少女の姿をした人魚は紛れもなく妖だった。死して肉体を失い、幽体と魂のみの状態でこの世を彷徨う人間が何かしらの原因で人魚の形態をとったという可能性を、実のところまりかは考えていた。しかし、その仮説は間違いだったらしい。
(とはいえ、部分的にでも人間の姿をとっている以上、何らかの形で人間が関わっていることは間違いないはず)
まりかは、人魚に質問をしてみることにした。
「……ねえ、聞いてもいい?」
未だに泣き続ける人魚に、まりかがそっと声をかける。
「もし良かったら、名前を聞かせてくれないかしら」
「……」
人魚が、鼻をすすりながら顔を上げた。泣き腫らした目が、まりかの目に痛々しく映る。
「……ちよ」
人魚が、小さな声で答えた。
「っ!」
それとほぼ同時に、まりかは人魚の左胸に名札が縫い付けられていることに気がつく。
「『佐藤千代』、それがあなたの名前なのね」
まりかが確認すると、人魚がこくりと頷いた。
「そして住所は……『
「うん」
再度、人魚が頷いた。そして、それ以上まりかから言葉が発せられないことを確認すると、おかっぱ頭をまりかの胸に預けて、安心したように目を閉じてしまった。
「まりか、一体どうしたんじゃい。そやつの答えに、何か問題があったとでも言うんかい」
カナが、人魚を抱いたままその場に立ち尽くしているまりかを訝しげに見つめる。
「……南京町ってね」
しばらくして、スヤスヤと寝息を立て始めた人魚の頭を撫でながら、まりかがゆっくりと言葉を押し出した。
「昔の中華街の呼び方なのよ」
名札が縫い付けられた襟付きシャツに、今どき珍しいおかっぱ頭。そして、人魚が口にした古い地名。それらの情報から、まりかは新たな仮説の構築を試みる。
「この
「むむう?」
いまいち要領を得ない話に、カナが腕を組んで顔をしかめた。
「つまり、あれか。何十年も前に死んだ人間の魂にそやつが触れたことにより、強烈な思念に侵されてその姿を変えたと言いたいのか」
「ううん。さまよう魂じゃなくて、生きた人間が元になってると思う」
カナが頭を絞って捻り出した解釈を、まりかがあっさりと否定する。
「何故そう思う」
「えっとね……ごめん、もう少し考えをまとめてから……」
鼻白んだカナがぶっきらぼうに問い返すも、まりかは既に心ここに在らずといった状態で思索に耽っていた。
「ちぇっ」
カナは小さく悪態をついた。一度こうなってしまうと、どんな横槍を入れようが鈍い反応しか返ってこない。同居を始めてはや数ヶ月、そんなまりかの気質などとっくに把握しているカナは、それ以上は何も聞かないことにした。
「ええい! わしは菓子を食って待っておるからな!」
「うん……」
リュックサックの中を探りながら叫んだカナに、まりかが半ば反射のように頷き返す。
「うむ、ラムネというのも美味いではないか……」
スーパーで買ってもらったラムネのお菓子をボリボリと噛み砕きながら、操縦席から雨に
やがて、最後の一粒をラムネ瓶の形をした容器から取り出したところで、静かな足音が操縦席に近づいてきた。
「お待たせ」
「思ったより早かったではないか」
ラムネを口の中で転がしながら、どうでもいいような素振りでまりかを見やる。
例の人魚はいつの間にか目を覚ましていた。潤んだ瞳で不思議そうにカナを見つめているが、当のカナは人魚など眼中に無い。
しとしと降りの雨の中、まりかのレインウェアの表面を雨粒が絶えず流れ落ちている。纏められた黒髪は雨水でしっとりと濡れ、肌に張り付いた後れ毛が、雨天の侘しい景色の中で妙にくっきりと浮かび上がっていた。
(――やはり、そうか)
雨に佇むまりかの姿に、カナはストンと腑に落ちたような心待ちになる。何故なら。
「少しの間、この子をよろしくね」
「うおっと!?」
例の人魚を手渡されたことにより、掴みかけていた何かが
「なんじゃい、いきなり!」
華奢な腕を目一杯使って自分より多少小さいだけの人魚を抱えながら、船尾に戻るまりかの後をよたよたと追いかける。少女の姿をした人魚は特に暴れるようなことも無く、大人しく腕の中に収まっている。
「お母さんの力を借りることにしたの」
船尾で立ち止まったまりかが、カナを振り返った。その顔には何故か、切なげな笑顔が浮かんでいる。
「エリカのか? そりゃあまた、どういう風の吹き回しじゃ」
風だけに、と付け加えようとしたところでカナは思い留まった。まりかにはある程度の冗談は通じるが、それなりに時と場所を選ぶ必要があるのも事実である。
「一番早く解決できるから」
まりかは、未遂に終わったカナのしゃれに気が付くこともなく、淡々とカナの疑問に答えた。
「最短ルートがあることを知りながら、自分の力のみを使うことに拘って、わざわざ解決を長引かせるわけにはいかないわ。それにね」
話しながら、少女の姿をした人魚を痛ましそうに見つめる。
「この子を、必要以上に苦しませたくないから」
「そうか」
いかにもまりからしい理由だと、カナは思う。それから、その気になればいつでも簡単に使えるであろう
(なんにせよ、せっかくの機会じゃ。風の精霊の力とやらをとくと拝見させてもらおうかのう)
「それじゃあ、今から呼ぶわね」
まりかは胸の前で両手を組んで目を瞑ると、遥かな大空を自由に飛び回る精霊たちに向かって祈りを捧げ始めた。
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