うみコト! ~海事代理士まりかとワガママ人魚カナの海洋怪異譚~

こむらまこと

第1章 出会い

第1話 海難法師とワガママ人魚〈一〉

 想像を絶するほどの膨大な量の水が、全身をくまなく包み込んでいる。それは凍りつきそうなくらいに冷たいけれど、微塵も痛痒を感じない。むしろ、とても心地が良い。

 周りに広がるのは真っ暗闇。広大無辺の闇。闇。闇。

 そして静寂。

 この場所には、おおよそ生き物と呼べるようなものが存在しないのだ。

(本当に?)

 ゴポリ。

 僅かに開いた唇の端から、ひとまとまりの気泡が漏れ出る。

『試しに吼えてみればいい』

 そんな思いつきが脳裏に浮かぶ。

 確かに、大きな声で吼えてみれば、誰かが応えてくれるかもしれない。

 ――吼える?




「ほぇ?」

 自分の口から発せられた声で、朝霧まりかは目を覚ました。直後、目覚まし時計のアラーム音がけたたましく鳴り始める。

「うう、最悪」

 上体を起こしつつバチンとアラームを止めて、その手でぼうっとした頭を支える。

(なんか、変な夢を見た気がする)

 朝霧まりかは夜型人間である。故に、朝に弱い。そして、それとは多分関係無いが、めったに夢を見ない。厳密に言えば、寝ている間に見た夢は起床と共に全て忘れる。今回のように、夢の残滓が脳内を漂っていることもたまにはあるけれど、それもすぐに消えてしまう。そして今も、掴んだ指の隙間から煙がするりと抜けていくかのように、あっという間に夢の内容が思い出せなくなってしまった。

(まあ、いいか。それより、早くしなくちゃ)

 朝霧まりかは切り替えが早い。さっさとベッドから抜けてパジャマを脱いで、部屋着に着替えてしまう。今は1月も下旬に差しかかろうという時期だったが、暖房はタイマー設定により既に運転しているので起き抜けから快適に過ごせる。

 洗面所で顔を洗い、ついでに歯も磨いてしまうと、キッチンに向かって朝食の準備に取りかかった。

 ケトルでお湯を沸かす間にチルドのピザトーストをオーブントースターに放り込んで、グラスに牛乳を注ぐ。ピザトーストを取り出し、コーンポタージュの粉末を入れたマグカップにお湯を注ぐと、木製のスプーンでかき回ぜながら席に着いた。

 ピザトーストの角を小さくかじりながらテレビをつけて、NHKニュースに切り替える。

 一昨日に起きたコンビニ強盗事件の続報に、地震の情報。どこそこの公園でロウバイが開花して、今日の天気は晴れ時々曇り。次々に流れる情報群を流し見ながら朝食を全て胃袋に収めると、手早く食器を洗ってキッチンを後にした。

「今日はどれにしようかな」

 寝室の鏡台の前でまりかが選んでいるのは、髪を飾るかんざし。スーツの下に着るシャツなどは効率を考えて前の晩に用意しているのだが、簪だけは毎朝の気分に任せることにしている。

「昨日は派手目だったから、今日は控え目でいこうかしら」

 がま口の簪入れからべっ甲の二本差しを抜き取って一旦鏡台に置き、部屋着からパンツスーツに着替える。それから、フェイスパウダーを頬に乗せて眉を軽く描き足すだけの簡単な化粧を済ませると、肩まであるストレートヘアをふたつの簪を使ってハーフアップにまとめ上げた。

 ひとつは、さっき選んだべっ甲の二本差し。もうひとつは、濃紺の一本差し。〈夕霧〉と名付けられたそれは、入浴や就寝前後に専用の小箱に大切に仕舞われる以外は、常にまりかの髪を飾っている。

「よし!」

 鏡に向かってサッと髪先を撫で払って寝室を後にする。パンプスを履いて小さなショルダーバッグを手に取って玄関を出ると、鍵をかけるのもそこそこにタタッと階段を駆け降りて、すぐ下の階の扉の前に立った。


朝霧海事法務あさぎりかいじほうむ事務所』


 ショルダーバッグの中から取り出したカードキーをドア脇のカードリーダーに読み込ませ、事務所の警備システムを解除する。それから鍵を使って扉を開けると、鈴のように可憐な3人の少女の声がまりかを出迎えた。

「「「おはようございます、まりか様!」」」

「おはよう! キヌ、タマ、トネ」

 空中に浮かぶ3人の小さな精霊を順に眺めながら笑顔で返す。

 この3人は、事務所内の水槽に住んでいる金魚の精霊である。人型のときの大きさは30cm程度。手足の指の間には小さな水掻き、額には小ぶりの白い角が1本生えている。それから、白い部分がほとんど見えない、くりくりとした黒い目。小さな身体に纏うのは、それぞれの体色を反映した膝丈の浴衣だ。キヌが琉金で、タマがキャリコ琉金、そしてトネが青文魚なので、浴衣もそれ相応の柄になっている。ちなみに帯は、3人の髪の色とおそろいである。

 まりかは毎朝この3人に会うのが楽しみで、ドアtoドアで1分も経たずに終わる出勤をついつい急いてしまう。

「事務所のお掃除、今日もバッチリです!」

 真っ先にキヌが報告する。元気いっぱいな性格に、ツインテールにした赤毛がとてもよく似合うと常々まりかは思っている。

「コーヒーの準備も完了しました」

 おっとりとした声でタマが続く。白寄りの金髪が、窓から差し込む朝日を受けてキラキラ輝くのを見るのが、まりかの密かな楽しみのひとつだ。

「昨日まりか様が退勤されてから現在まで、不審な怪異や妖が事務所内に侵入を試みる等の事象は起きておりません」

 最後にトネが静かに告げた。青みがかった黒髪のショートヘアに、実はまりかはほんの少しだけ憧れている。もっとも、〈夕霧〉が身に付けられなくなるので、あくまで憧れるだけに留めているのだが。

「みんな、いつもありがとうね」

 まりかはショルダーバッグを置いてデスクのノートPCの電源を入れると、戸棚からマシュマロの袋を取り出した。

「はい、今日の報酬よ」

 まりかの言葉に3人がパッと顔を輝かせた。

 「報酬」という言葉を使ってはいるが、実質的にはまりかから3人への完全な好意によるものだ。普通の金魚の餌なら毎日ちゃんと貰ってるし、報酬なんか無くたって大好きなまりかのためなら3人は喜んで働く。それでも、人間の甘い食べ物が大好きなのも事実ではあるし、他ならぬまりかがくれると言うのなら、遠慮なく受け取ることが好意に応える最良の方法であると金魚たちは理解していた。

「食べ過ぎは良くないから、ひとり2個までよ」

「充分です!」

「ありがとうございます」

「では、いただきます」

 口々に礼を述べてから応接用のローテーブルに並んで正座して、小皿に盛られたマシュマロを両手で持ってむしゃむしゃと食べ始める。

 まりかはそんな光景を微笑ましく眺めながらマグカップにコーヒーを注ぎ、立ったままひと口啜った。扱いやすさを考慮してコーヒーメーカーはカプセル式のものを使っているから、誰が淹れても味は変わらない。それでも、金魚たちが用意してくれたというだけで、自分で淹れるよりも何倍も美味しく感じるから不思議である。

 静かな事務所内に、金魚たちの談笑が鈴の音のようにささやかに響く。その声を聞くともなしに聞きながら、まりかはデスクに着いて再びコーヒーを啜り、何とはなしに窓の外に広がる横浜港の景色に目を向けた。

 国際港湾都市、横浜。それが、朝霧海事法務事務所の存在する街であり、まりかが生まれ育った街でもある。事務所が入っているのは、開港波止場と象の鼻桟橋を正面に臨むビルの3階。海側の窓からは、赤レンガ倉庫やコスモワールドの観覧車、俗に大さん橋と呼ばれる巨大な客船ターミナルなど、横浜港のシンボルでもある建造物の数々が一望できる。

 3年前、大学卒業と同時に、海事代理士である父から正式にこの事務所を引き継いだ。それ以来、父と同じ海事代理士として、海を臨むこのビルで働き、そして暮らしている。

 ちなみに、海事代理士という職業をひと言で説明すると、「海の法律屋」とか「海の行政書士」といったところになる。正直なところ、普段から海や船と関わって生活している人間でなければ内容が想像しにくい仕事ではあるし、その事もあって世間的な知名度もあまり高くない。それでも、海や船で働く人々を法律の面から手助けできるこの仕事が、 まりかは結構気に入っていた。

「「「ごちそうさまでした!」」」

 3人の少女が元気よく叫んで一礼すると、スウッと水槽まで飛んで戻っていった。直後、ポチャンという水音がして、水槽の中に3匹の金魚が現れる。大きさはどれも15cm程度で、額に小さな角がある以外は普通の金魚と何ら変わらない。それなりに霊力がある人間でなければ、額の角にすら気が付かないだろう。

 今度こそ事務所の中は静かになった。まりかは温くなってきたコーヒーをちびちびと啜る。

 父から事務所を継いで、早3年。海事代理士の仕事は楽しいし、経営にも少しずつ慣れてきている。「もうひとつの仕事」についても、まだそこまで口コミが広まっていないのか年に数回しか依頼が入らないので、今のところは特に問題なく通常業務と両立できていた。

 後は、仕事の労苦を分かち合えるような同僚のような存在でもいれば完璧かもしれないと、まりかは少しだけ思う。しかし、まりかが雇用主となる以上、そこにはどうしても上下関係が生まれてしまう。それに、人を使うといったことも性格的に好きではない。

 そもそも、精霊化している金魚たちと意志疎通ができて、それでいて海事代理士や行政書士などの法律関係の資格を持つような奇特な存在が、そうそうこの世に存在するとは思えない。

(要するに、今のままが1番ってことになるのよね)

 まりかは、コーヒーの残りを一気に飲み干して物思いから抜け出すと、ローテーブルの上の小皿をさっさと洗って片付ける。2杯目のコーヒーをカップに注ぎ、事務仕事のときだけ使う黒縁の眼鏡をかけて、今度こそ仕事を開始した。

 まずはメールをチェックする。「小型船舶操縦免許の更新手続き代行について」という未読メールを開いて内容を確認すると、すぐに送信元の依頼者に電話をかけて、必要書類や今後の手続きの流れ等について簡単に説明する。書類の様式を郵送してほしいとのことだったので、必要書類一式を今日中に依頼者に郵送することになった。

「ご記入を終えましたら、写真や証明書等と一緒に当事務所へご郵送ください。料金についても、期日までにお振込みいただきますようお願いいたします」

 電話を終えるとすぐに事務用品用の戸棚から角2の社名入り封筒を取り出して、郵送の準備に取りかかる。といっても、書類一式を送り状と共に封筒に詰めて、宛名を楷書で丁寧に書くだけの手慣れた作業だ。最後に、書類の入れ忘れや宛名の書き間違いが無いか確認して、封筒を閉じた。

「すぐに戻るから」

 悠々と泳ぐ金魚たちに一声かけると、郵送書類とショルダーバッグを持って最寄りの郵便局に向かい、簡易書留で窓口に差し出す。それからすぐに事務所に戻ると、今度は船員の雇入契約書の作成に取りかかった。

 船員として船に乗り込む際には、船長等の使用者と船員との間で、海上における労働条件について具体的に定めた「雇入契約」というものを締結し、その内容を書類にまとめて運輸局や市町村に提出しなければならない。まりかは海事代理士として、その雇入契約にかかる手続きの代行も請け負っていた。

 静かな事務所内に、ノートPCを打つ音が小さく響く。やがて、古びたホールクロックが正午を知らせたところで、まりかはノートPCから手を放して小さく伸びをした。眼鏡を外して席を立つと、水槽が乗っている戸棚から金魚専用の人工飼料を取り出し、顆粒状のそれを少しずつ水面にまぶすようにして金魚たちに与えていく。

「みんな、ごはんだよ」

 ゆっくり沈下していく人工飼料を金魚たちが元気よく食べるのを見届けると、まりかは財布を持ってビル1階の弁当屋に向かい、からあげ弁当を買った。事務所に戻り、テレビをつけてNHKニュースを眺めながらローテーブルでのんびりと弁当を食べる。

「早苗、元気にやってるかしら」

 とある詐欺事件が不起訴処分になったというニュースを見て、高校時代からの親友の顔を思い浮かべる。検察官を目指す彼女は、現在、司法修習生として広島で多忙な日々を送っている。時々、スマホでメッセージをやり取りしたり電話で話したりしているが、直接会って話せるのは当分先になるだろう。

 弁当を食べ終えると、コーヒーを片手に「ジュリスト」を読む。今月の特集にざっと目を通して、労働判例速報を熟読する。そのうちに時計が午後1時を指して、今日の昼休みは終わった。

 カプセルを交換したばかりのコーヒメーカーからコーヒーを注いで、再び黒縁の眼鏡をかける。

「さて、午後も頑張りますか」

 午前の続きをやるか、少々溜まっている会計処理を先に済ますか、どちらにしようか考え出したその時、事務所のインターホンが鳴った。

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