筋肉屋ケンちゃん番外 筋肉豚の丸焼き

しんげきのケンちゃん

豚の丸焼きケンちゃん

 巷のボディビル界に、革命児が返り咲いた。


 近年、球磨六一派が牛耳っていたボディビルショーに彼らは突如参入した。

 師でありリーダーである男の名前はケンジ。その昔、あらゆるタイトルを総なめにしてきた剛の実力者だ。

 彼が最強だった時代。ニヒルな笑みを浮かべて悠々とポーズを決めると、観客は感動の涙を流し、魅了され卒倒する人も続出した。類を見ない圧倒的実力。あらゆる苦難を超越し、あらゆるトレーニングを超克し、彼の筋肉は超常現象と言っても過言ではなかった。世界の真理、人類の知覚では到底観測しきれない程の領域まで、彼は辿り着いていた。

 だがそんなケンジも、時間に打ち勝つことは出来なかったとひと言残して引退してしまった。ただの気まぐれだったのかも知れないが、ひどくあっさりとしたものだった。当然あらゆる者が彼の引退を惜しんだ。引き留める声も数多あっただろう。


 それでも、最後に筋肉屋を創設して、ケンジは去ってしまった。


 以降は後塵を拝していた球磨六一派がボディビル界を独占した。

 球磨六一派は裏で悪行の限りを尽くした。大会を乗っ取り、金の流れを掴み、ボディビルショーは形骸化していってしまった。ますらおたちの求めた筋肉美、欲した笑顔は潰え、あまりに陳腐な金稼ぎに貶められてしまった。


 だが、ケンジがかつての心身を取り戻し、再びの電撃参戦でそのそうけんを知らしめ一筋の希望を示したのだった。

 そこに至るまでの経緯を知るのはケンジの身近にいる弟子たちやごく一部の者のみ。

 中でも、重大な局面で起きた弟子たちの決闘は表沙汰になってはいないのだった。


 この話は、ケンジが全てを思い出し、脱サラして打倒球磨六を決意した数日後の出来事である。

 当事者たち以外には知る由もない、兄弟弟子の雌雄を決するお話。





 山手線高架沿いに、街灯に煌々と照らされてその屋台はあった。

 店名は総称して、筋肉屋。

 今日は店長のタカトがタンクトップで頭にタオルを巻き、ひとりで店を切り盛りしていた。

 昔、彼の師であるケンジから引き継いだ大事なよりどころである筋肉屋はタカトの誇りだ。

 思想はいたってシンプル。美味しい料理と、俺たちの最高の筋肉を堪能してもらいたい。

 あらゆる料理と己の筋肉を鍛えて、今もなお、タカトはこの店を経営していた。

 今日も自慢の鍛え抜かれた筋肉で料理を振る舞って筋肉屋は繁盛していた。

 客が自分の筋肉と料理に感嘆の吐息を洩らすひとときが、タカトには何物にも代え難かったのだった。


 本日は夜も遅く既に店じまいの最中だったが、タカトと同じほどの屈強な体躯の男がやってきて椅子に腰かけた。


「来たか、カンジ」


 パツパツのスーツの男にタカトがかけた言葉は、ニュアンスから既に客に対する朗らかなそれとは違う挨拶だった。


「こうして筋肉屋を開店させていればやってくると思っていた。タカヒロに頼んで人払いも済んでる」


「……フン。あの人……ケンジさんが復活するのは球磨六家には都合が悪いからな」


「俺も、まさかあにきが戻ってきてくれる事になったのには驚いた」


「心にも無い事を言うなよタカト。何度も同じ日をループさせていただろうに」


「あれは、俺自身を見つめ直すためだ。そしたら偶然どの時もあにきがやってきた。それだけだ」


 タカトは最初、師であるケンジに助けを乞うつもりは無かった。偶然やって来た客のうちのひとりと考えていたのだ。

 ケンジが筋肉屋についてを言及してくることは無かったのもあって、タカトはケンジが筋肉屋に未練が無いと考えていた。なので、ごく普通に料理を振る舞った。

 同じ日をループさせている間、ケンジは毎度筋肉屋へとやってきた。タカトが世界へと干渉するループ能力では、同じ結果に行きつくとは限らない。だから尚の事ケンジがやってくるという偶然は嬉しかった。


 だが、ずっとある問題が生じていたのがタカトには引っかかっていた。


「あにきに干渉して筋肉料理を食べるのを妨害していたのは、カンジだな?」


 繰り返すごとに訪れるケンジは、しかしながら料理にひと口も手を付けることなく眠りへと落ちていくばかりだった。


 最初は疲れているんだな程度の認識でしかなかった。だが、繰り返されたその様子には不自然さが際立った。

 タカトは歯噛みしつつ、続けて疑問を口にする。


「それだけじゃない。あにきが思い出せないよう、記憶にも細工しただろ?」


 何度も訪れるケンジが筋肉屋について一切言及しなかった事にも違和感があった。

 己が筋肉を鍛え上げ、筋肉に認められし者は、タカトの行った時間遡行の中でも記憶を継承していく。

 しかし、初めて料理を口にするまでケンジが同じ日を繰り返していることに気づいていた様子は無かった。時代は変わってしまったが、それでも一時代の頂点。本来ならば気づいてしかるべき事象なのだ。


「……その通りだよ。俺がケンジさんを妨害した」


 カンジはあっさりと言ってのける。


「俺のあの時の任は、ケンジさんの監視だった。そりゃそうだろうな。球磨六家はケンジさんを恐れていたんだから。俺に任せるなんてイカれた発想だと思ったがな」


「イカれた? 至極当然な考えだろカンジ! どうして受け入れた!?」


「どうしてだと? そんなのもう知ってるだろ。俺が球磨六家の跡取りだからさ」


 またもあっけらかんとカンジは答えていた。


「目下最大の恐怖に成り得るケンジさんをこちらの世界に近づけさせないためだ。だが、お前が……筋肉屋がやってきてしまった」


「……ただの偶然だ」


 それを聞いたカンジは、フンッと鼻で笑って捨てる。


「お前の予想通り、俺はケンジさんの記憶に介入し、ループも悟られないように誤魔化し続けた。筋肉料理に口を付けたら思い出される危険もあったから、眠りに誘導した。特に、ラーメンの時は、焦ったさ。あれは、お前の…………」


 その先をカンジが紡ぐことはなかった。大きくゆっくりとかぶりをふったのみだった。

 街灯に照らされた筋肉屋はゆっくりと時間が流れていく。夜風の寒々しさがしれじれと吹き抜けていった。


 しばしの沈黙を打ち破ったのは、カンジのもらしたつぶやきだった。


「結局は、ケンジさんの無意識が上回ったな」


「……そうだな。あにきは全部思い出した。本当に、嬉しかったよ」


 タカトは誰にも説明していないが、1日をループさせ続けるのにも限度がある。マッスルエネルギーが足りなくなるのだ。なので、ケンジの記憶が戻らずに翌日を迎える可能性も十分あった。


「加えて、タカユキさんがいただろ。俺は圧倒的不利だったのさ」


「……タカユキさんは、きっと全部気付いてた。最後には、『次は、更に超常的な筋肉を、待っている』と言ってたよ」


 タカユキはループの間に何度か筋肉屋を訪れたメガネの人物だ。その正体はボディビル運営の一角を担っている筋肉マニア。ケンジの引退以降、球磨六一派からの排斥を免れながら、今も公平な判断でボディビル界を諦観し続けている。今や少ない穏健派のリーダー的存在である。


「ふっ、そうか……だが、そんな日はやって来ない。ここで俺が、お前に引導を渡すからだ」


 カンジが立ち上がりタカトを睨む。タカトも、無言で視線を交わした。

 ふたりの筋骨隆々な野郎の向かい合いは、夜の冷たく寂しげな空気と相まって厳粛な雰囲気を醸していた。


 やがて、カンジがドスの効いた声で宣言する。


「俺が勝ったら、ケンジさんの居場所を教えてもらうぞ。俺の力で、お前も、ケンジさんも、あの弟子も、みんな記憶を消させてもらう」


「……わかった、それでいい。だが俺が勝ったら……俺たちのところに帰ってきてもらう」


「ああいいだろう。俺が戻る未来なんて、あり得ないがな。筋肉に誓って」


 カンジは薄ら笑いを浮かべながら承諾した。


「筋肉に誓って。……絶対に、俺が勝つ」


 それからふたりは振り返り、背中合わせの向きで両腕をお腹の前で円形に形どる。


「「どおおおおおおおおおおおおおおおおん!!」」


 雄たけびと共に、モストマスキュラーを決めた。


 瞬間、世界がまばゆく光ったかと思うと、急に暗転して、ふたりは別の次元に立っていた。

 遥か遠くで色とりどりの星が光る宇宙のような空間。

 筋肉を愛し、筋肉に愛されたものがたどり着ける境地。


 マッスルワールドへと、たどり着いた。


 再び向かい合ったタカトとカンジは、ブーメランパンツ一丁となった全身に力を籠めて仁王立ちしている。極められし豪胆な筋肉はテカテカと輝き、直立状態よりやや腕を浮かせてこぶしを握り込んでいた。

 フロントリラックス。これが、これから行われるマッスルデュエルの規則。


「2種のポーズを続けて行うルールでいいな」


 それを聞いたタカトは、首を縦に小さく動かした。


 筋肉を極めし者たちがマッスルワールドで己が筋肉の美を争う決闘、それがマッスルデュエル。

 今までのボディビル界の歴史で、マッスルデュエルが行われたのはごくわずかである。

 まず彼らを筆頭としたマッスルワールドへとたどり着いた猛者は、指折り数える程度しかいない事。一般人は立ち入ることが出来ずその存在すら公にはなっていない。ボディビルに精通していても未だ自力で到達することの出来る人物はごく少数。

 なのでマッスルワールドでの闘いを知る者はほとんどいない。

 次に、マッスルデュエルはよほどの理由がない限りは行ってはならないとケンジが定めたからだ。


 ――ここに足を踏み入れたヤツは、己の筋肉に誇りを持ち、他人の筋肉を尊敬している。優劣を競うなんて、そんなの……虚しいからな。


 マッスルワールドを争いの場にしたくなかったのだろう。あの時のケンジのマッスルワールドを見つめる目はとても優しかったのを、タカトは今でも鮮明に覚えている。


 俺のために、あにきのために、ボディビル界のために、そしてカンジのために、タカトは負けるわけにはいかないと改めて意気込む。


 無理やりでもこの兄弟弟子を、取り戻す!


「さあ、始めよう」


 タカトの合図でふたりは大きく息を吸い込んで、声をそろえて叫んだ。


「「マッスルデュエルッ!!」」


 敵は同じ師を仰いだかつての友か。

 あるいは、自らの愛して止まない筋肉か。


 筋肉の寵愛を受けしふたりの対決が、始まる。




 ぶつかる視線もそのままに、姿勢を崩すこと無くカンジが切り出す。


「先行は俺から行こう。俺のターン!」


 宣言と共にフロントリラックスを解き、両腕を内回しに持ち上げていく。

 頭の後ろでクロスし、改めて全身に力を籠めた。


「どおおおおん!」


 アブドミナル・アンド・サイ! 


 それを見たタカトがまくしたてる。


「鍛え抜かれた中央の筋肉がパーフェクトだ。バランスの取れた綺麗なシックスパック。腹筋板チョコ! 

 そして大腿四頭筋の土台は巨木のように素晴らしいストリエーションだ。修羅の筋肉! ここまで絞るのには、眠れない日も、あっただろう……」


 マッスルデュエルは決してお互いをけなすような発言は許されない。

 常に自分が感じた相手の筋肉の良さを褒めちぎっていくこと。それが絶対の掟なのだ。

 完成されたポーズには全てが表れている。カンジを絶賛せずにはいられない。


「ノーベル……筋肉賞!」


「そーこーかーらーのおー!」


 カンジは両腕を外回しに下ろし、外腹斜筋にこぶしを当てる。


「どおおおおん!」


「フロントラットスプレットかっ! 大胸筋があまりに大きい! そこから連なる僧帽筋が、上腕二頭筋が、逞しいぞ。如何なる衝撃でもビクともしないだろう。超キレてる! 仕上がってえ、いるうううううううう!」


 流石は筋肉に愛された者。その藝術は、観る者を魅了する。


「……ふっ、当然さ」


 タカトからの褒め言葉が止んでから、カンジはゆっくりとポージングを解いた。その眼には勝利を確信する余裕が宿っていたが、タカトを見ることも無く、マッスルワールドの遥か彼方を眺望していた。


「この筋肉たちを身に付けるために、俺は心を殺した」


 それはカンジ自身の戒めが、自然と吐露されたに等しいものだった。


「俺が筋肉たちを披露する時は……もう痛みしか感じなくなったよ」


「今のも、そうだったのか?」


「ああ……痛い。苦しいさ」


「昔はそうじゃなかっただろ。思い出せよ、俺たちの青春を。あにきを追いかけて楽しかった日々を」


 タカトがフロントリラックスを崩さずにカンジに投げかけると、カンジはようやくタカトへと視線を定めた。しかしその目はどどめ色を増して達観していた。


「……あの当時ケンジさんは全部知っていたよ。俺が球磨六家の人間であることも。それでもあの人は一切のためらいも無く俺を迎え入れた。俺のあこがれの快男児そのものだったさ」


「……そうか」


 ふたりがケンジの弟子であった遠い昔は、競うように切磋琢磨し、数々のボディビル大会でお互いを称え合った。あまりに別格で憧れた師の背中を追いかけて笑い合った。


 そんな日々が、確かにあったのだ。


「あの頃は幸せだったのかも知れない。ケンジさんとタカトと一緒に筋肉談議に明け暮れ、己を磨く鍛錬の日々がな…………だがっ!」


 カンジの力いっぱいの轟きが、マッスルワールドに響き渡る。


「俺はやっぱり親父には逆らえなかった。すくむんだよ俺の足が! この血が、記憶が、球磨六家の為に成せと訴える! これだけ鍛えても、マッスルワールドという頂に辿り着いた今でもだ! どうしようもないんだよ!」


 幼い頃から刷り込まれている恐怖が、どれほど己を鼓舞しようとも振り払うことが出来ない。

 強靭なはずの肉体は、震えていた。


「だからよ……もうこれ以上、俺を苦しめないでくれよ。なあ、タカト……」


 カンジの心が静かに泣いているのをタカトはひしひしと感じる。

 このままでいい筈が無いと強く思わされる。

 決意を再認識するのには十分な痛みだ。


「それで、お前は満足か?」


「満足? 俺は、お前たちの記憶を消し、球磨六家当主となりボディビル界を征服する。そうすれば親父も満足する!」


「違う! お前がどうしたいかなんだぞカンジッ!」


 湖畔に波紋が広がるようにその怒声は広がり、カンジの芯にもこだまする。


「俺が、どうしたいのか……? わかんねえ、わっかんねえよっ! 俺はなぁ、やっとのこと息してるんだよ!」


「いい加減な事を言うんじゃねえ! やっとのこと息してる? ならその口から助けてって言えばいいんだよ!」


「馬鹿が……そんなの、言えるわけないんだよ!」


「それでもお前の中には俺たちと同じ志が残ってるんだ! だから俺が、そのふざけた呪いから解き放ってやるぞ。見せてやる、俺のターンッ!」


 タカトは息を大きく吸ってから、くるっとカンジに背を向けた。

 ゆっくりと両腕を内回しに持ち上げ、力こぶを顔の左右で誇示した。


「どおおおおん!」


 力いっぱいのバックダブルバイセップスが決まる。


「太い上腕二頭筋の盛り上がり、三角筋、僧帽筋と連なる筋肉のエベレストが立派だ。肩にちっちゃいジープ乗せてんのかい!

 広背筋も高原のように広い! 背中に、羽根が、ある! 羽ばたくその時を待っている! 蒼空を駆ける筋肉!」


 すぐさまカンジが言葉を述べていた。本人自身も信じられないほどに、つらつらと。


「こっからああああ」


 ポーズを解いて腕を背後に伸ばして組み合わせながら、片足を半歩下げて振り返る。

 膝を曲げて力を籠め、そのポーズは完成した。


「どおおおおん!」


「……サイドトライセップス! 外腹斜筋と隣り合った上腕三頭筋がお互いを高め合っている! すごい! ガッデムデカい! その筋肉、グラム何円ですかああああ! 

 更に下半身は大腿筋が盾のようだ。その先に窺える大殿筋もだ! 加減というものを知らない! グレートケツプリ! ナイスカットオオオオオオオオッ!」


 筋肉に精通していなかったとしても理解できるだろう究極の美が、そこには顕現している。

 言葉は留まることを知らず、マッスルワールドへと溶けていった。


 そして、カンジからの賛辞が止んで、タカトはポージングを解いた。静寂が向かい合うふたりを包む。

 これから判定が下されるマッスルデュエルの勝敗は、マッスルワールドからの祝福によって決まる。

 ふたりが息を大きく吸い込んで――


「「ナイス、バルク!!」」


 同時に声を張り上げた。

 瞬間、どこからともなく風が吹いた。

 ゆったりと流れたその風は徐々に集まり渦を巻いて――タカトの周囲を回りだした。

 すると今度はタカトの頭上からひとしずくの小さな光がゆっくりと降り注いでくる。

 タカトの目の前まで落ちてきたそれは、すっとタカトに向かって平行移動し、溶け込むように身体の中へと消えたのだった。

 同時に、タカトを包んでいた風も凪いでいく。

 そしてふたりは闘いの結末を理解した。決着がついたのだ、タカトの勝ちだ。


「そん、な…………くぅっ」


 カンジは信じられないという内心で瞳を見開いていた。互いの全力、全霊をかけた闘いだったのだ。それでも俺は勝てると、そう思っていた。

 だが勝利の、いや、筋肉の女神はタカトに味方した。カンジは奥歯を噛みしめるしかなかった。


 対して、タカトの安堵は計り知れないものがあった。道を違えてしまってからのふたりは、やはり各々の手段で筋肉に愛を注いでいた。時には思い悩む事もあった。理想通りにいかない事もあった。それでも、己を信じ磨き続けてきた。万事を尽くし成し得た勝利と言えるだろう。


 だがひとつ、絶対的なことがあった。


 それは、どちらがより強いかではなく、どちらも素晴らしい筋肉だという事。


「ああ……ナイスバルク、だったよ」


 タカトが笑いながらつぶやいたと同時にマッスルワールドが徐々に白く霞み始め、まばゆい光に包まれたのだった。





 ふたりが目を開けたら、そこは元の筋肉屋の前だった。服も身に着けており、夜のままだ。

 敗北したカンジは膝から崩れ落ち、両の手を地面についてうなだれた。


「くそっ、くそっ、くそがっ!」


 悔しさにうめきを上げ、何度もこぶしをコンクリートに打ち付ける。


「……………………」


 それを、タカトはただ黙って見ていた。

 静寂に包まれた路上に、しばらくの間、強靭な肉体の男の怨嗟の声が小さく伝っていった。

 やがて落ち着いたのか、カンジは音を立てずに立ち上がって、タカトを一瞥してから振り返り歩き出した。


 負けは負け。使命を果たす事は出来なかった。もう誰にも合わせる顔などないと、カンジが思っていたその時――


「ちょっちょっちょ、まっちょ!」


 タカトがカンジの上腕筋を掴んでとどめる。


「どこに行く気だよカンジ!?」


「……当てなんてない。俺は、負けたんだ。これが知れたら球磨六家も俺の事をタダでは済まさないだろう。そして、お前たち側に付くことも出来ない」


 もう一方の腕でタカトの手を力無く取り払う。


「だから、放っておいてくれ……」


「先に言っただろ、カンジ。俺たちのところに帰ってこい」


「…………お前たちを裏切った俺が、今更どの面下げて戻れるってんだよ。無理だ。俺はもう、苦しみたくない」


「そんな事はないだろ。苦しいだけじゃなかったはずだ!」


 人気の無い夜道に、タカトの声が響き渡った。


「さっきのポージングで見せた生き生きとした筋肉からわかるぞ。伝わってくる! カンジのこれまでの葛藤が、努力が、そして……喜びが!」


 カンジはビクッと身体を震わせる。自身の感情に似つかわしくないと思っている言葉に驚愕した。

 これまで常に苦しかった。家名に縛られ、親父に怯え、鍛えた筋肉で敵を葬り、暗躍してきた。

 すり減る心と身体。この世界は地獄だ。ただただドス黒い闇に呑まれていくだけだ。


 ……それなのに。


「俺は、喜んでいた、のか?」


 タカトには、そう見えたというのか?


「もちろん。本心からそう思っている」


 ふたりの在り様は変化していても、昔と何も違わないとタカトは感じ取っていた。


「俺たちの差なんて、ただの心意気だけなんだ。だからな、カンジ。俺たちのところに、戻ってこい」


「俺は……俺は……」


 せめぎあうカンジの胸の内はあと一歩の返事が出来ずに、表情に暗い影を落とす。

 それを回り込んで窺ったタカトは、改めて決意を固めて言ってのけた。


「よし、カンジ! 今から俺が筋肉ショーを見せてやる! ちょっと待ってろ」


 タカトは屋台の裏へと姿を消したかと思ったら、炭の詰め込まれた台車を押して戻ってきた。

 その後も何度か往復し、台車を中心にお腹の高さあたりまでのY字型の支柱を2本立てる。

 そして最後に、ブーメランパンツ一丁になって長い鉄の棒を担いできた。その棒の中間に刺さっていたものを見止めて、カンジは唖然とした。


「お前それ……豚じゃねえか!?」


「ああそうだ。そんなに驚く事でもないだろ、小ぶりだしな」


 豚を炭の上に橋渡しに設置し炭に火を付け、笑みを浮かべてカンジへと向き直った。


「お客さんを最高の筋肉ショーへとご案内いたします!」


 L字の取っ手を棒に取り付けて、ゆっくりと円を描き始め、豚が回転を始める。


「…………」


 カンジは何も言うことが出来なかった。タカトの眼が真剣そのものだったからであるが、それだけではない。筋肉料理を始めたタカトの筋肉を一目見て、言葉は奪われてしまったのだ。

 剛腕が隆起し回転する。ゴツい側面の肩から腰のカット。覗くセパレーションの美しさ。更にはガッシリと立派な太ももが浮き彫りだ。完璧なストリエーションだった。


 生き生きと動くタカトの様をカンジが見つめている間、じっくりと豚に火が通されていく。

 そうして長い時間を経て、火がパチリと鳴り続ける沈黙をタカトの言葉が破った。


「そろそろ、頃合いだな。フィニッシュだ、いくぞっ」


 取っ手から手を離して、身体をひねり斜めにカンジへと向き、ゆっくりと腕を腹筋前でクロスさせ、全身に力を籠めて。


 そして、それは、完成した。


「俺の筋肉が、ジャスティスだどおおおおおおおおおおおおおおおおん!」


 親の顔より見た、サイドチェストッ! 

 超絶ド級の大胸筋! 破裂しそうな上腕筋! 大樹のような大腿四頭筋! デカい! 強い! 屈託ない!

 希望へのパイオニア。新時代の幕開けだ。

 カンジは咄嗟に出そうになった用語を噛み潰す。

 だが、やはりこの言葉は手向けなければならない。

 負の嵐がどれほどカンジの内面に荒れ狂っていたとしても、本心からの賛辞を叫ばずにはいられなかったのだ。


「ナイス、バルクウウウウウウウウウウウウウウウウ!」




 空が白み始めた頃、まるで鉈のような大きい包丁と大きなフォークで、炙られた豚の肉が切り取られてカンジに渡された。


「ほら、筋肉豚の丸焼きだ。召し上がれ」


「…………」


 カンジは、ゆっくりと肉塊にかじりつく。

 弾力のあるお肉から、油とマッスルエネルギーが溢れ出て口に広がり、全身に広がっていく。

 圧倒的な肉だ。超ジューシーで、うま味が押し寄せてくる!


「うまっちょ。まちょまちょうまっちょおおおおおおおお」


 天にも昇るとはこの事か。

 カンジは喜びを思い出す。感情と共に封じ込めた記憶が刺激されて帰ってくる。

 ケンジがこの屋台で料理を振る舞い、タカトと一緒に美味い美味いとガッついた時間。

 もっと昔の、ケンジとタカトと共に己を鍛え、互いを讃え合った遠い過去。

 幸福な感情が湧き上がってきた。


 ……そうだ、俺は、この至上の筋肉料理が好きで、あのディフィニッションに、憧れたんだ。


「こんなに、ポカポカするもの、だったか」


 気付けば、カンジの頬にはツーッと涙が伝っていた。


「はははっ、泣くほど嬉しいのか。そんなの、こっちも嬉しくなるぜ」


 タカトは笑ってサムズアップする。


「バカ言え……ちょっと暑くて、汗かいただけだ」


「じゃあそういう事にしといてやるよ。……さあ!」


 タカトは親指だけ立てていた手を開いて差し出した。


「俺の手を取ってくれるな、カンジ?」


「……本当に、いいのか? 俺は、戻っても?」


「ああ。俺たちでボディビル界を救うぞ。またよろしくな」


「……分かった。俺の命、お前に、ケンジさんに、くれてやる」


 カンジは大仰に手を動かして――力強い握手を交わす。


 ゆっくりと昇ってくる朝日がふたりを照らしていく。まるで彼らの門出を祝うように、温かく辺りを包み込んでいくのだった。


 そんーで、様子を見にやってきたケンジとタカヒロを加えて、皆で仲良く豚の丸焼きを食べちゃいました。彼らの闘いはまだまだこれからだけど、今は、めでたし、めでたし。


fin

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筋肉屋ケンちゃん番外 筋肉豚の丸焼き しんげきのケンちゃん @shingekikentyan

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