はぐるまうさぎ~あなたのPC直します~
鎌上礼羽
第1話 健気な少女の願い
「こちら、はぐるまうさぎ。あなたの困っていることを教えてください。」
今日もまた、はぐるまうさぎのもとには、困った人から電話がかかる。電話口からは可愛いらしい泣き声が聞こえてくる。
「大丈夫ですか?」
「ママが、ママが。」
舌足らずな話し方。五歳といったところか。
「お名前は言えますか?」
「ゆうちゃんだよ。」
「お名前が言えるとは、すごいですね。」
はぐるまうさぎは目を瞑り、今聞いた名前を念じて、ゆうちゃんの家に向かった。
はぐるまうさぎが目を開けて着いたところは、2LDKのアパートの一室だった。
「はじめまして、ゆうちゃん。はぐるまうさぎです。」
パソコンの前で独り、手のひらで顔を覆う女の子に声を掛けた。
「うさぎさんが話した!」
ゆうちゃんははぐるまうさぎを見て、目を丸くした。40センチほどのウサギのぬいぐるみが、独りでに話し始めるのだから、老若男女問わず驚くものだ。しかし、子供は実に順応力が高い。
「かわいい!」
忽ち笑顔になって、はぐるまうさぎを抱きしめた。
「あ、ありがとうございます。」
泣いている幼子に事情を聴くのは、困難を極める。ハグ程度で機嫌を直してもらえるのであれば、好都合だ。
「ゆうちゃんは、ぬいぐるみが好きですか。」
「うん、大好き! これは、ゆうちゃんの四歳のお誕生日に、ばあばが買ってくれたの。」
ゆうちゃんは、ソファに置かれた大きなくまのぬいぐるみを抱きしめながら言う。
「それでね、お隣のカエルさんは、ママが買ってくれたやつ。」
そう口にした途端、ゆうちゃんの顔が歪んだ。
「パソコンが壊れてしまいましたか?」
はぐるまうさぎの質問に、ゆうちゃんは苦しそうに頷いた。
「では、私が直して差し上げましょう。」
はぐるまうさぎが、PCの置かれたローテーブルの前に、踏み台代わりのクッションを運び、パソコンの蓋を開けようとしたところで、邪魔が入った。
「やっぱりダメ!」
ゆうちゃんがPCの上に覆いかぶさったのだ。
「ゆうちゃん、ママとはバイバイするって決めたの。だから、うさぎさんは直さないで。」
これがゆうちゃんの本心ではないことは確かであった。はぐるまうさぎの電話には、本当に直したいPCがある人の声しか届かない。
「どうしてバイバイするのですか。大好きなママでしょう?」
この部屋の隅に置かれた仏壇の写真は、まだ色褪せておらず、カエルのぬいぐるみは、くまと比べてやけにへたっている。
「次の土曜日に、ママが来たときに悲しくなるって、パパとばあばが言うから。」
ゆうちゃんはわっと泣き出した。そして、はぐるまうさぎは状況を悟った。なんて健気な努力だろう。
「ゆうちゃんのママは二人になって、どちらも大切なママになるのです。だから、バイバイしなくても、大丈夫ですよ。」
ゆうちゃんは、カエルのぬいぐるみを抱きしめ、むせび泣いている。
「カエルさんをくれたママも大事にできるし、新しいママも大事にできますよね。」
ゆうちゃんは力強く頷いた。後妻への配慮として、生活圏から次々とママの気配が消えてゆく。それは、幼い子どもにとって、あまりに惨い仕打ちである。
はぐるまうさぎは、改めてPCの蓋を開けて電源を入れてみることにした。
『正しくないPINが複数回入力されました。
もう一度試すには、下にA1B2C3を入力してください。』
画面には、普段通りPINを入力してもロック解除ができないような、エラー表示が出ていた。ゆうちゃんは、何度か誤ったPINを入力してしまったが、それに対するエラーの指示を、読み解けなかったというところか。はぐるまうさぎは、指示に倣って“A1B2C3”と打ち込み、Enterキーを押した。
『PINコードが正しくありません。入力し直してください。』
おや。おかしいと思ったが、はぐるまうさぎは直ぐに納得し“A1B2C3”と入力し直すと、通常通り、PINを入力できるようになった。
「ゆうちゃん、直りましたよ。」
はぐるまうさぎは、ゆうちゃんを手招きした。
ゆうちゃんは袖口で涙を拭い、PCの前に座ると、慣れた手つきでPINを入力する。キーボードには1から10の番号が振られた赤シールが、10個のキーに貼られていた。シールの順番に押すと、“yuchan512 Enter”となっていて、ロックが解除される仕様になっていた。
しばらくすると動画が流れ始めた。
「大好きなゆうちゃん。今日もママは元気! ゆうちゃんは今日、何をして遊んだ? パパやばあば、先生の言うことは聞けたかな? ゆうちゃんが怒られてしまったり、辛いことがあっても、ママはいつでもゆうちゃんの味方だよ。ゆうちゃんには見えないけど、ママはずっと傍にいるからね。ゆうちゃん、また明日、バイバイ。」
ゆうちゃんの目からポロポロと涙が零れ落ちた。
「ママ。」
涙が止まらないゆうちゃんは、カエルのぬいぐるみに顔を埋めた。恐らくこのPCは亡き母からの贈り物で、PC起動と同時に、母のメッセージ動画が流れるようになっていた。幼くして母親を失う娘を思って、いつでも娘が母親を感じられるように考えたものだろう。
ゆうちゃんは、少し落ち着きを取り戻すと、シャットダウンをした。シャットダウンのショートカットキーが、丁寧に1~2の青シールで指示されていた。
「ゆうちゃん、赤色と青色以外のシールはありますか?」
はぐるまうさぎは、最後の仕事を始めた。
「あるよ。黄色のシール。」
ゆうちゃんはテレビ台の引き出しからシールを持ってきた。
「ありがとうございます。二枚だけください。」
「どうぞ。」
はぐるまうさぎは、受け取った黄色の丸シールを“Caps Lock”と“Shift”のキーに貼りつけ、ボールペンで両方のシールに“1”と書いた。
「ゆうちゃん、パソコンが今日みたいになったら、この黄色のシールを押してみてください。直るかもしれませんから。」
今回のエラーは、何かの拍子に“Caps Lock”と“Shift”のキーが同時押されてしまい、大文字英字入力がデフォルトとなっていたことが原因だった。それにより、普段通りに入力すると、PINの小文字英字部分が、大文字英字になってしまっていた。いつも通りロックが解除されず、父親や祖母にも頼れず、ゆうちゃんはさぞかし焦ったことだろう。大文字英字でPIN入力を繰り返し、エラー表示に至ったといったところか。
「ありがとう、うさぎさん。」
ゆうちゃんはにこりと笑った。はぐるまうさぎの心がじんわりと温まる気がした。
「どういたしまして。お礼が言えるとは、素敵なお嬢さんです。」
はぐるまうさぎの難しい言葉遣いに、ゆうちゃんは疑問符を浮かべた。
「さようなら、ゆうちゃん。お元気で。」
はぐるまうさぎは目を閉じて、自室へと戻った。本日の任務終了。
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