千年恋〜ノミ付き姫君は正室になれません〜

紫はなな

短編の設定、これであってます?

 帝の座す朝廷とはまた別に、将軍府が東を支配する時代。


 天守閣の本丸、大奥の御座敷のすみっこで竹前家の娘イコは借りてきた猫──いや、クマを演じていた。


「なあに、あの毛むくじゃら。大奥の掃司? からだを転がしてお掃除でもするのかしら」

「いやだ。昨夜遅れてやってきた、御台所みだいどころの候補者よ」


 御台所とは、当代将軍の正室のことだ。

 半年前に即位した五代目将軍、常明つねあきらは、先代で肥大した大奥を解散させ、妻は御台所ひとりとするとし、候補者を集めていた。

 朝の総触れに、御座敷にならび頭を垂れるそのすべてが候補者。今年数えで一五となる、姫と呼ばれる大名や旗本の娘たちだ。

 つまりは全員、あだかたき。

 それぞれが誰よりも美しくと着飾るなかで、フカフカとかさばり目立つイコは、目の上のたんこぶであった。


「掃除どころかノミやシラミをとばしてきそうよ、汚らしい。一張羅が毛皮だなんて、どこの貧乏家よ」

「竹前よ。北端の無高の大名とはいえど、漁猟産物で盛えているとか。それに毛皮の数えは一張でしょう?」


 あらまあ、おじょうずですことおほほほほほなどと、かしまくしても彼女たちをとがめる年寄も女中もいない。虚しくも将軍の顔が米粒ほどにしか見えない末席で、イコはただ丸くなっていた。

 

(徹夜で毛づくろいしたのに、まだノミがついている。みんなに知れたらたいへんだ!)


 雪国の竹前では、真夏以外は毛皮を袿代わりに羽織る。おおきいクマの毛皮、それも希少な白熊の毛皮は大名家のあかし。堂々と出で立つつもりが、都上りの道中で卵がついてしまった。

 山を生きる竹前の人間がなんと、みっともない。里のみんなに顔向けできないと、イコひとり上の空のなか。

 長い長い御座敷の中腹から、どよめきが走る。

 

「将軍が名を尋ねられたわ!」

「今夜のお相手は、貴州の姫君ね」


 イコは感心した。

 となりに座る娘は、三百名いる候補者の素性をすべて知り尽くしているのか。先ほどサラリと口にしたイコの素性も的を得ていた。顔立ちもまた、大柄な花の咲く衣裳に負けじと華々しい。これほど美しく聡い姫君はなかなか居ないだろう。だが娘は羨ましそうに、首をのばして米粒を眺めるばかり。

 見ているだけの娘も、見る目のない将軍にもうんざりだ。


「バッカバカしい」


 イコは毛皮のなかで毒づいた。


(今回ばかりはフチの占い、信じないぞ。あんなスケコマシと、添い遂げるだなんて)


 フチは、イコの祖母だ。

 竹前の領地よりずっと北方の民族の生まれで、フチはその村に伝わる不思議な魔法を使った。なかでも占いは気味が悪いほどよく当たる。

 その占いによると、将軍とイコは千年前に契りを交わしているらしい。


 イコの前世は千年生きた九尾の狐、おきつねさま。イコがこの世に産まれついてすぐに世話をしたのが、前世の将軍、常明であった。愛し合うふたりは悲運に見舞われ引き裂かれたが、千年後にふたたび添い遂げることを約束したという。

 イコには前世の記憶はない。

 おきつねさまの千年分の記憶は、人間の赤子の頭に詰めこめぬからだと、フチは言った。


 齢十五を過ぎてから、愛するものと口づけることで少しずつ記憶が戻るのだ、とも。


 そして占いと時同じくして、将軍府では先代から嫡男の常明へ将軍職が譲位された。それからまたふた月後、北端の竹前家までやってきた上位下達が、花嫁探し。


 父と母は、大手を振ってイコを送り出した。

 イコだって、多少の期待を胸に秘めつつ、ひと月かけて将軍府へあがったのだが。


 全国から候補者を寄せ集め、前述のとおりその数三百名。最初のうちは夢のある話しだと民の感触もよかったが、毎夜異なる姫君を指名しては、これは違うあれは違うと選り好みしていると、すぐに噂がたった。旅の道中から聞こえていたのだから、よほどの好色。

 イコにとっては今日が大奥へあがり初の謁見であるが、米粒程度にしか知らない顔にすっかり嫌気が差している。

 はやくおうち帰りたい。が、現時点のイコの本音であり、御台所が決まるまで帰ることが許されないのも、また確かなことで。

 本丸に駐在する。それすなわち国を背負って座すこと。今はとにかく目立たぬよう、醜聞ひとつこぼさず過ごしたい。

 ノミ、シラミなどもってのほか!

 将軍の金ピカ衣裳が大奥の敷居のむこうへ消えたことをしっかりと見届け、イコもまた御座敷を退いた。

 

「なんとかして、明日までにノミを取り除かなくては……」


 ひとりごちながら、本丸の回廊をひた走る。姫様たちの前でノミをぷちぷちと潰すわけにはいかない。イコは石垣の下に厩舎をみつけると、しめしめと飛び降りた。



「君の出身は猪賀だっけ?」

「いえ、竹前ですが」


 馬房から顔を出すなり男に尋ねられ、思わず正直に答えてしまった。

 男は笑った。嘲笑ではない、喜びに満ちた笑い顔だ。


「戯言だよ。まるで忍者みたいに降りて来たから。竹前の方々はみな、君のように身軽なの? 攻めこまれてはひとたまりもないな」

 

 イコは言葉を紡げず、生唾をのんだ。

 鼻先に現れたその男、大奥にならぶどんな姫君より美しいと思うのだ。

 精緻に彫られたような造形の顔をしながら、女のように妖艶な表情で、頑是ない言葉遣いで話す。

 まるで神様カムイだ。城で働く男はみな、彼同等に美しいのだろうか。

 男は、馬房のなかで動かずにいるイコに手を差し伸べた。


「腰でも痛めた? 私は──、この厩舎で働く、昏明というものだ。コンって呼んで」

「コン……、あなたのような方が、厩舎で働いているとは」


 馬糞に触れることなど許されないくらいに美しいのに。

 男──コンは、イコの腕を強くひいた。


「君の名は」

「私は、イコ」

「イコ、か。素敵な名だ。さあ、出て御いで」


 イコのからだをまるで赤子のように軽く横抱きにして、馬房の外へおろす。

 イコはものすごく慌てた。


「わ、わたしに触れてはいけない」

「どうして。君が御台所の候補者だから?」


 なぜそれを知っている。


「それよりノミ、ノミが! 毛皮についていて、その、御座敷で気づいたんだ、決して、もちこみたかったわけじゃない! だからこうして、ひと目のつかないところで取ろうと思って、……ああ、どうしよう!」


 神様のように美しいひとに、ノミを移してしまうなんて。

 コンはイコを優しくなだめた。


「気にしないで。私は馬の世話をしているんだよ? ノミシラミなんてしょっちゅうだ。ほら、この櫛を使うといい」


 コンは、針のように細い歯のつげ櫛を懐から取り出すと、イコのちいさな手にのせた。


「こんなに細かい細工……、はじめて見た。ありがとう」


 ノミをはぶく作業がはかどりそうだ。礼を尽くすため、頭までかぶせていた毛皮を脱ぐと、イコはペコリと一礼して笑った。

 耳飾りが振り子のように揺れる。


「……耳についている、それは?」

「フチの、祖母の村の女はみんな、赤子のときからつけるんだ。ほんとうは耳に穴を開けてとおすのだけれど、私はこうして挟んでいるだけ。本州に嫁ぐかもしれないからって」


 コンの見やすいようにイコは髪をかきわけた。

 耳飾りは細い真鍮を円形に曲げたもので、ハチミツ色のガラス玉が先端を彩る。

 コンは、瞳をその色で染めて潤わせた。


「綺麗だね……、まるで、黄昏れ色だ」

「そうだろう? 大好きな色なんだ」


 鮭の腹子にそっくりで!

 イコがだらしなく顔を崩すと、コンもまた嬉しそうに笑った。


「私の真名だよ。……わかって言ってる?」

「うん?」


 コンもきっと腹子が好きなんだ。

 竹前で採れる大ぶりの腹子、食べさせてあげたいなぁ。コンの美しい顔がゆるむところを見てみたい。

 などと、イコがひとり思いを先走らせているうちに、コンは馬房のなかの馬を外へ出した。白毛の立派な馬だ。


「私はこれから馬を走らせる。夕刻には戻るけれど、イコはそれまでここにいる?」

「うん。そのくらいはかかると思う」

「では、私が帰ってくるまでかならずここにいて。大奥まで送るから」

「ほんとう? すごく助かるし、嬉しい」


 岩登りは得意だが、さすがに目立つし、みつかっては面倒だ。


「私も。……やっと、会えた」


 コンは最後にそう言いこぼすと、馬に乗って風のように行ってしまった。






(昨日は、いい夢みさせてもらったなぁ〜)


 翌朝、イコは御座敷の最奥で昨日とまったく同じようにして丸まっていた。異なることといえば白熊の毛皮がふかふかから、ふっかふっかに変わったことくらいだ。

 あと頬っぺたが痛い。


「まさか大奥に、ひっぱたいて起こすお姫様がいたとは」

「あら感謝してほしいわね。わたくしのおかげで朝の総触れに間に合ったのだから」


 イコが私室の布団で叩き起こされたのは、寸刻前のことだ。

 御台所の候補者に、女中としての務めはない。大切にお預かりしている貴賓、というわけでもなく、公家や御三家といった格式の高い姫君を除き、みな平等に大奥の端に建つ長屋に詰め寄り、寝泊まりしている。末端ともなれば、同室の姫君も四名。

 イコを起こした奇特な姫君は、南端の嶋津家の長女。御座敷でいつもとなりに座っている聡い娘であった。


「まだヒリヒリする。嫁入り前なのに」

「あら、頬紅を塗ったようよ。化粧をする手間が省けたのだから、わたくしに感謝して欲しいくらい」

「そう?」

「ひとつ貸しね。さあ上様がいらっしゃった」


 目端に金ピカ衣裳が映り、イコはまぶしくて目をそらした。

 長旅と徹夜がたたり、昨日の出来事がまるであやふやなのだが、毛づくろいをしているうちに眠りこんでいたのだろうか。それにしたって毛皮はノミどころか、洗って仕立て直したように綺麗になっている。

 

(きっと神様がととのえてくださったのだ)

 

 イコは毛皮のなかで夢を思い出し、うっとりと笑った。

 フチが言っていた。

 千年の恋が叶うのだ。大奥では竹前よりずっと、不思議なことがたくさん起こるだろう、と。

 毛皮にノミがついていないだけで、イコはイコらしく輝ける。相手が米粒将軍で非常に残念に思うが。


「ちょっと、あなた聞いてた?」

「なあに、平手打ち姫」

「わたくしの名は、桐子きりこよ! なんと上様が候補者全員に直々に、お願いごとをだされたわよ」

「お願い?」

「ご当地の味が食べたいのですって。気に入った味の国の、姫君を召し上げるって」

「そんなまた、無茶なことを」

「末席のわたくしたちにとっては、またとない機会よ。期限は十日。あ、それとは別にいつもどおり、ご指名はあるみたい。今日は尾帳の姫君ね。ちなみにお手つき三回目」

「あきれた」


 前方で米粒と米粒が熱い視線を送り合っている。

 御台所はひとりと宣言しておきながら、ちっとも候補者を削ろうとしないし、お手つきの姫君が増えるばかり。御台所の器を夜伽で見定めたいのならば、一度でいいはずだ。それを二度三度と同じ姫君を呼びたてて。


「まだよいほうではなくて? 先代は名札が必要になるほど世子様をおつくりになったし、上様の弟君の実明様なんて、先代のご側室との不義が重なって、二の丸に幽閉されているとか」

「好色は家系か、気色の悪い話しだ」


 イコはうんざりとうなだれた。

 

「あんな男に、里のみんなの手を煩わせたくない。私はおやつの鮭とばでも出しておく」

「ではわたくしに知恵を貸して? あなたなら突拍子のない案を思いつきそう」


 桐子ほど聡い娘ならば、自力で答えを導けそうなもの。だが貸しは、貸しだ。将軍が退いてすぐ騒然とする御座敷で、イコは一度にならんだ三百枚の皿を思い浮かべた。


「地酒」

「……お酒?」

「将軍は二〇歳になられるのだろう。当然、酒を嗜む」

「でも、将軍様はご当地の味っ、て」

「料理とはひと言も言っていない。地酒も立派なご当地品であるし、料理の皿ばかりがならぶ席で、瓶子が立っていたら?」

「目立つし、喉を潤すために手に、とる。……あなた、すごいじゃない! すぐに手配させるわ!」


 袿を引きずって先を行く。

 まったく、あんな好色のどこがよいのか。

 そう思いながらも、イコは彼女が少し羨ましくもあった。国のためならば愛だの、恋だの言っていられない。桐子には、その強い覚悟があるのだ。竹前の人間だって少なからず、イコに期待しているだろう。

 

 頭ではわかっていても、桐子のように将軍に取り入るための知恵をしぼりだせない。正室になれたとして、嫉み妬みに浮き沈みするだけの人生が待っているだけだと思うと、目をふせたくなる。

 結局のところ、イコは千年の恋にふりまわされていると、痛感するのだった。


 ふと、回廊の外をながめる。

 石垣の下は本来、隠居した側室の住まう二の丸だが、先代のいざこざで離散しているためか、ひと気がない。馬の鳴き声で真下の厩舎に気づき、ハッとした。


「夢も厩舎のなかのようだった。もしかしたら、あそこへ行けばまた神様にお会いできるだろうか」


 御台所の候補者は、朝の総触れが終わればお役目御免。長屋へ戻ったところで暇をもてあそぶか、桐子の世話を焼くか。たとえ用事があったとしても心はもう決まっている。

 幸い、出っぱった石を足つぎにすれば容易に降りられそうだ。イコは毛皮を雲のようにひるがえし、石垣を飛び降りた。

 


「衛兵はなにを護っているのか、そろそろ心配になってきた」

「神様!」

「カムイってだれ。私はコンだよ」


 昨日出逢った美しい青年が、少しふてくされて馬房の外に立っている。

 イコは夢の切れ端を頭の隅から隅まで集めてつなぎあわせた。


「そうだ。あなたは、コン。神様ではなく厩舎で働くひと。夢ではなかったのか」

「無理もないよ。昨日は長旅で疲れていたのでしょう?」


 コンが厩舎の外へ出る直前、チラと振り返れば、イコはすでに眠っていた。


「では、毛皮を仕立て直してくれたのも、私を長屋まで運んでくれたのも、コンだったのか!」

「うん」

「こんなに綺麗に、櫛だけでどうやって? 私を背負って石垣を登ったのか? それに、大奥は男子禁制だ」

「そこはあまり詮索しないで欲しいんだけど。あえて言うなら──、魔法かな」

「魔法? 魔法が使えるのか!」


 イコは柵越しにずいと詰め寄り、目をキラキラと輝かせた。

 やはり神様だ。神様でなくても、コンは神様のお力を借りられるのだ。

 魔法。そのふた文字は、なんだってすぐに解決する。


「あなたにお礼をしなくては。これから時間はある?」

「うん。私も君と話したいことがたくさんある。カムイってだれ?」

 

 里では神様のことをカムイと呼ぶのだと説明すると、コンはすぐに機嫌をよくした。

 馬房のなかへ入り、束にされた藁のうえにおおきな敷物をひろげる。次にはどこからか火鉢を持ちこんで、火打ち石を取り出した。

 イコは慌ててその手をとめた。


「厩舎で火はまずいよ! 馬は熱に弱いんだ」

「火鉢だから煙はでないし、そのコが寒がりなんだよ」


 白馬を見やれば、深くうなずいた。

 うなずいた?


「さあ、こちらへ。お礼はいらないと言いたいところだけれど、君がなにをしてくれるのか楽しみで仕方がないよ」

「うっ」


 イコは顔をひきつらせた。

 つい口を吐いてしまったが、期待されていいようなお礼品なんて持ち合わせていない。

 ちょこんと座り、素直に頭をさげた。


「すまない。ほんとうはお礼になるようなもの、持っていない。狩りにでも行けたらいいのだが」

「大奥を出て? 私が卒倒しちゃうよ。今日はそばにいてくれるだけでじゅうぶん。どうしてもって言うなら、……口づけをしてくれる?」


 イコは、あからさまに顎をひいた。

 今日はまだ顔を洗っていない。


「うーん、性急すぎたか」

「そういえば、朝ごはんも食べそびれたんだった」


 毛皮のなかをゴソゴソとまさぐる。

 おやつの鮭とばが左三番目の衣嚢に入っていたはずだ。


「じゃーん!」

「それ、……もしかして、鮭!?」

「今年採れた秋鮭を干した鮭とばだ。コン、好きなのか?」

「大好きだよ! 憶えていてくれたの?」


 イコは首をかしげながら、コンの手へ鮭とばを袋ごと差し出した。


「コンの好みは知らない。でも思わぬ形で礼ができてよかった。好きなだけ食べるといい」

「……わかってる。君の国でよく食べられていることも。でも、すごく嬉しい」


 それからふたりは鮭とばをかじりながら、時間を忘れて語り合った。もっとも、息継ぎをするのも億劫なほど喋っていたのはイコで、コンはうなずき役だ。コンはイコの里の話しを、興味深く聞いていた。

 イコの毛皮が黄昏れの空に染まる。


「名残惜しいけれど、そろそろ戻らないと」

「あと少しだけ! 犬ぞりで崖を飛び越えた話しがまだ途中だ」

「私はいいけど、君が夕ごはんを食べそびれてしまうよ?」


 それはとても由々しき事態である。

 一昨日の夜中に大奥入りしたイコは寝汚くしていたこともあって、まともな食事を口にしていない。いや道中だって、保存食を食いつないできただけだ。

 

「なにがなんでも、ありつきたい。それじゃあコン、またな」

「うん、また明日」


 イコは入ってきた格子窓の戸を開けると、一番近くの石垣に手をのばした。



「あら、いつの間に帰っていたの」

「ん?」


 のばした手は宙をかき、戸にのせたはずの膝は畳の上に。見渡せば長屋のなかで、桐子が濡れた髪を櫛で漉いていた。

 

「厩舎から長屋まで一瞬で帰ってこれた! 魔法だ!」

「大奥は広いから迷子になっていたのね。まったく、抜けてるんだから。もうすぐ食事よ、はやく湯殿へいってらっしゃいな」

「はーい」


 返事よく飛び出したはいいが。コンの計らいで私室へ戻ることができても、湯殿を探して迷子になったイコは、なんとその晩も食いっぱぐれたのだった。




 ぐぅ。


 朝の総触れ。末席でイコの腹の音が龍の鳴き声のごとく轟いた。

 床の線にきっちりと揃えられた姫君たちの指先が、塩をふったなめくじのように震える。となりに座る桐子はびんそぎが乱れるほど肩を揺らした。


「ちょっと! 笑わせないでよ!」

「ごめん。こればっかりは抗えない」


 解散したばかりの大奥にまともな御中居は居ない。候補者たちに出される料理は夜だけで、朝昼は長屋に備え付けられたかまど、御膳所で自ら調理をして食べることになっている。お腹を空かせたイコは割と早めに御膳所へ訪れたのだが、なんと将軍の願いごとの影響で食材という食材が消えていた。


(米つぶまでなくなるって、どういうことだ)


 イコは今日も今日とて、毛皮にこもった。

 八つ刻には試作分を考慮して多めの食料が届けられるそうだが、どうも大奥の御役人は、女の食欲を推し量れていない気がする。

 

「そもそも八つ刻までお腹がもたない。おやつの鮭とばは、昨日コンと食べてしまったし……食べてしまった?」


 イコはたいへんなことに気づいてしまった。

 十日後、将軍にお出しするご当地品が手もとにない。皿の上はなんでもいいが、空では竹前家の面汚しだ。


(片道ひと月かかったんだ。今から取り寄せても到底間に合わない。コンの力を頼る……? いや、そんなのズルだ)


 男に捧げるものを他の男に整えさせるなんて、竹前の女がすることじゃない。自力で獲ってこなくては。

 イコは総触れが終わるとすぐに私室へと戻った。長屋の窓の真下は多聞の屋根。その先の水堀を越えれば、歴代将軍の霊園だ。霊園の奥に望むは、なだらかな山の端。川を探して魚でも獲ってこようと、考えに至った。

 水堀を泳ぐため、せっかく仕立て直してもらった毛皮を濡らしてしまうが仕方がない。イコは息を深く吸いこみ、窓を飛び降りた。



「君が大奥を出たら私が卒倒するって、昨日言ったばかりだよね?」

「あれ? どうして厩舎に?」

「魔法! まったく、都合の悪い話しは右から左なんだから」


 飛び降りた先は多聞でも水堀でもなく二の丸の厩舎で、コンが腕を組んで待ち構えていた。

 イコも負けじと応戦する。


「だって将軍に出すつもりだった鮭とば、昨日食べちゃったんだ! 獲りに行くしかない!」

「大奥で迷子になる君が、鮭の獲れる川を探しだせるとは思えないけど」


 なぜそれを知っている。


「夜の大奥は暗いし、月が見えないから方角がわからなくなるんだ」

「そう? ちなみに、天守閣から鮭の獲れる川上まで徒歩かちで六日はかかるけど」

「六日も!?」 往復するだけで期日を過ぎてしまう。

「私なら馬がだせるけど?」

「しかし、これ以上あなたの手を煩わせるわけにはいかない」

「なにも、タダで行くとは言っていない」

「銭か」

「銭よりずっと、輝かしいもの」


 コンは組んでいた手をほどくと、その細指でイコの耳飾りに触れた。


「腹子か!」


 イコはジュルリと涎をすすった。



 コンの白馬は六日かかる道のりを二日に縮めた。イコの身の上を知られては困るため、宿場町を避け、山道を選んでの野宿の旅だ。イコは魔法を使ってはどうかと提案したが、それでは物足りないとコンは首を振った。季節は霜月、狩りは豊漁とはいかないものの、産卵前の鮭も獲れ、無事一日前の夜に大奥へと戻ってこれたのだった。




(腹子はほぐして漬けこんだ。あとは、湯浴みをして寝るだけだ。コンの口に合えばいいが)


 イコは胸をつぶした。

 将軍へお出しするものなのに、コンを思いながら腹子をほぐしていたことに、気づいたのだ。

 ため息を吐きながら、私室を目指して回廊を曲がる。

 すると奥の座敷から女のあだっぽい声が聞こえた。


「いけません上様……っ、このような場所で」

「よいではないか、よいではないか」


 イコは呆れ果てた。

 将軍ともあろうものが、場所を選ばずサカるとは。お世継ぎづくりは決めた娘と決められた御寝所でやってほしいものだ。

 しかし腹子は我ながらうまく仕込めた。明日には米粒将軍の顔が拝めるかもしれないなと、ぼんやりと思いつつ迷子になったのだった。




(さすがにまずいぞ。まさか寝坊するとは)


 それも回廊のすみっこで。

 旅の疲れもあってか、私室にたどり着けぬまま眠りこんでしまった。幸い御座敷に近い位置ではあったが、空をあおげば日中の陽の高さ。

 なかば諦めつつ末席から忍びこむと、いつもの静寂はどこへやら。阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。


「脂後家は不明だが──、貴州家は疑いようのない謀反だな。書状は書けた、すぐに迎えをよこして」


 うめき声と泣き声が交差するなかで、米粒大の将軍が文机に向かって忙しなく筆を流している。

 何事かと、桐子の肩をたたく。

 桐子は酒瓶を大事そうに抱え、前方を見据えたまま話した。


「料理の味効きがはじまったのだけれど、突然上様が、ひと口めはとなりに座る姫君に毒味させよと命じられたのよ」

「日々の食事も、十食のうち九食が毒味と聞くからな」


 だが毒味役を呼ばず、齢十五の姫君に毒味させるとは、ずいぶんと剣呑な話しだ。


「この様子だと、毒が入っていたのか」

「そうよ。裏工作のないようにと、全員同時に毒味をしたら、パタパタと面白いくらい倒れていく。同室で事情を知っていた姫君もいたのでしょうね。食べたくないと泣きじゃくる姫君もいれば、自身で自害しようとするものまで現れて」


 イコは次々と運び出されていく豪奢な衣裳の数を数え、すぐにやめた。目に届く末席の姫君は後まわしにされているだけで、上座より被害がおおきい。斜め向かいは床に伏せ息を乱し、差し向かいでは泡を吹いて倒れている。背筋をのばして座っているのは、となりに座る桐子だけだ。

 将軍が毒味なしでその場で食すとふれまわっていたとしても、数が多すぎやしないか。


「桐子が無事なのは、私を待っていたからか」

「いいえ? おとなりの毒味をしたわよ。干物で助かったわ」

「助かったっ、て……」


 イコの毛皮に人影が落ちる。


「さて。あとは、あなたたちだけだね」

「コン……、おまえ」


 金ピカ衣裳の裾が指先に触れ、桐子は酒瓶を抱えたままひれ伏した。

 将軍だ。

 だが衣裳にのっかるその顔は、昨夜まで旅を共にしていたコンそのもの。

 将軍は冷淡に話しを続けた。


「おとなりは──、なるほど地酒か。齢十五の姫君に酒を勧めるのはしのびないが……、イコ姫はイケる口かい」

「嗜む程度には」


 コンから直々に盃が手渡される。


「ではどうぞ」

「コン、いや上様。私の腹子はどなたが毒味を?」

「あなたが作ったものに毒味なんていらないでしょう。あとで私が美味しくいただく」


 そうかよ。

 イコは苦虫を噛み潰したような顔を盃に映した。


「……桐子、この酒はなんだ。こんなに透きとおった酒、みたことがない」

「あなたハブ酒を知らないの? 南国の蛇のお酒で美容にいいのよ」

「マムシ酒のようなものか。ならば、……悪いが、呑めないな」


 口をつけずに淡々と話す。


「この透明度、おそらく漬けたばかりで毒が抜けきっていない」

「な……っ」


 桐子は胸のなかの酒瓶を強く握った──つもりだったが、その寸前に将軍がつかみ上げていた。


「へぇ。漬けたばかり、ね」


 酒瓶に沈むハブの顔と、苦しみ悶える末席の姫君たちを交互に見やる。


「桐子姫といったか。さては御膳所の酒を同じものにすり替えたね? 欠員が多いし、今もこの有様だ。御膳所の調味料を使った料理にはすべて、君の造った酒の毒が入っていた」


 調味料にまでこだわりが行き届かない石高の低い家や遠地のもの。つまり末席への被害が顕著に出てしまった。イコの漬けた腹子も台無しだ。

 イコは酒の満ちたままの盃を置くと、力なく言葉を吐いた。


「どうして、こんなことを……」


 桐子はケラケラと乾いた笑い声を上げた。


「候補者減らしに決まっているでしょう」

「それならもっと手のこんだやり方があったはずだ。聡いあなたなら尚更のこと。罪が明らかとなった今、大奥追放どころじゃない、ほかの家々からも恨みを買うんだぞ」


 いや、それこそが狙いだとしたら──。


「……桐子は、家中に恨みでもあるのか」

「家も、大奥も御公儀も、大っ嫌いよ?」


 桐子は不気味に笑んだ。


「わたくしはね、となりの脂後家へ輿入れが決まっていたの。それなのに、奥女中をしていた叔母上が急に出戻ってきた。それも先代のお手つきよ。脂後家は将軍が選んだ女ならば縁起がいいからと、わたくしより十歳も年上の叔母上を選んだ。そして父上は余ったわたくしを、大奥へ追いやったのよ」

「ああ、脂後か」


 将軍は手もとの紙をペラペラとめくった。


「脂後家の姫君は、兄上の報復だと申し開いていた。その兄というのが、君の元縁談相手だろう。ふたりは想い合っていたのだな」


 その言葉を耳にした桐子は、床に崩れ咽び泣いた。

 イコは、やはり彼女が羨ましいと、心から思ったのだった。

 


 

 翌朝の総触れに現れた候補者は二〇名。

 そのほとんどが元々上座に座る格式高きお姫様。イコの新しいおとなり、尾帳の姫君はイコとの狭間に扇子を置いた。


「決してこの線を越えられぬよう。穢れがうつりますわ」


 クスリとも笑わず、見下す目も端に寄せる純然たる拒絶。

 イコは毛皮のなかで冷や汗を伝わせた。


(旅の道中でノミがついてしまった。冬だからと油断していた)


 候補者が減れば、いやでも目立つその毛皮。ノミがとんだら即退場だ。イコはなるべく体温が上がらぬよう平静さを保ちながら、身じろぎひとつせず丸まっていた。

 毛皮に人影が落ちる。

 尾帳の姫君はその影の持ち主へ爛漫と笑んだが。


「上様は今日もわたくしをお選びくださるので? 嬉しい限りですわ」

「君とは、もう話すことはないかな。実を結ぶものはなにひとつなかった」

「は?」

「褒めているんだよ。平和で豊かなお国に帰って、穏やかに過ごすといい」


 扇子を拾い上げることも忘れ、大口を開けたまま唖然とする姫君から、将軍は一歩進んで歩みをとめた。


「決めたよ。イコ姫、あなたが私のただひとりの伴侶だ。今夜は迷わないでね。じっくりと、語り合いたいから」


 次の瞬間、ぴょん、ぴょん、ノミが飛び。

 姫君たちの悲鳴を合図にその日の総触れが終わった。




(竹前家はノミつきだと国じゅうにひろめられてしまう。里のみんな、父上母上、フチもごめん! 私は逃げる)


 イコは大奥の回廊をぐるぐるまわり、考えに考えた。城から外へ出る方法だ。窓にはきっと魔法がかけられているから、それ以外で探さなくてはならない。


「……そうだ! 御膳所!」


 御膳所に運びこまれる食材は、大人がふたり乗れるほどの大きな荷車に揺られてやって来る。野菜のカゴのなかにでも入って、八つ刻まで待っていよう。そう心に決めて、イコは回廊をひた走った。



「即刻、逃げようとするなんて。さすがに傷ついた」


 気づけば、二の丸厩舎のなか。

 コンが藁の上に座って腕を組んでいたので、イコも負けじと目を三角にした。


「また魔法か! もううんざりだ!」

「私もだよ。朱雀の羽根はあと二本しか残されていない」


 矢の長さのある、夕焼け空を筆に染みこませたような羽根を、童のようなしぐさで突き出す。


「この羽根は、移動させたい人間の名と刻と場所を伝えれば、そのとおりに連れて行くんだよ」

「朱雀だと? 朱雀は朝廷の守り神だろう。将軍なら、もぎ取っても許されるのか」

「昔のつてでね。だが一本で一万石ぼったくるんだ、あの守銭奴め」


 一万石あれば城が建つ。

 イコが目を丸くすると、コンは羽根のために土地も米も売ったし、大奥だって解散したと明かした。


「近々、貴州家の五〇万石が入るからトントンってとこかな。もとは君を探すためにはじめたことだけど、このふた月で先代のうみをしぼりだせて、スッキリしたよ」


 将軍常明は、即位してすぐに汚職まみれの天守閣を正したが、地方まで手がまわらなかった。御台所が決まってから少しずつ片付けていこうと考えていたのだが、全国から候補者を集めたところ、娘たちの口から不平不満が面白いほどにあふれ出てきた。


「先代だけではない。私が即位する前から、養子に出された先代の子。つまり私の弟たちが、あちこちで好き勝手をしていたみたいで。貴州の謀反だって、義妹に手を出したことが原因だったしね」


 義理とはいえど近親相姦は重罪。流刑となったのは愛娘のほうだった。将軍は貴州家の土地を奪ったが、島を与えた。愛娘が流された島だ。

 イコはうへぇと、反吐が出る思いを声にしてやった。


「桐子も、先代のうみだとでも言うのかよ」

「桐子どのの犠牲は、私の責任だ。心から詫びたい。大奥から一生出られないと言われた先代のお手つきが、解散したことで思わぬ怨恨をうんでしまった」


 二の丸に残っているのは、先代と添い遂げたいというわずかな希望者だけだ。戻らないはずの娘たちが出戻ったことで、地方にまで因縁の根を広げてしまった。


「安心して。嶋津と脂後の縁談は桐子どのの名に差し替えて、勅令にして出した」

「桐子が犯した罪は」

「将軍にハブ酒をふるまいたかっただけでしょう? 齢十五の姫君が、漬けたてが毒だなんて知り得ないことだ。毒味をした方々も幸い、命に別状はなかったし」

「そうか。……そうだな」


 馬房に入ってはじめて顔をゆるめたイコへ、コンが手を差し出す。


「さあおいで。私の愛しいひと」

「は?」

 

 イコはその手をパシーンッ、引っぱたいてやった。


「どうして! 旅道中はいいかんじだったのに!」

「魔法で忘れてくれ」


 コンはイコが候補者だから触るなと言えば、指一本触れなかった。その代わりに耳が腫れるほど愛を囁いた。さすがのイコも三日目には手を取り、四日目には腕を組み、帰りの野宿では抱き合って眠った。


「あれはコンが寒いと思っただけだ」

「好きなコに抱きしめられて、耐えた私を褒めて欲しいね」

「なるほどな。だから大奥に戻ってすぐ、ほかの女を抱いたのか」

「ん……?」

「いやらしい声が廊下まで聞こえていたぞ。悪いが将軍といえど、腰紐のゆるい男と添い遂げるつもりはない」

「ほう?」

 

 頭のよくまわるコンは、言い訳をこぼさずに一本一万石の羽根に命じた。


「徳河実明を今すぐに二の丸厩舎へ」


 実明と呼ばれたその男は風のように現れると、コンの顔を見るなり馬房の土の上で正座した。


「実明。このふた月、私がお前と立場を入れ替えたのは、口のうまいお前に娘たちから話しを聞き出させるためだ。候補者に一度でも手を出したら首をはねると、言ったよな?」

「兄上も酷なことを。あんなに初々しい美姫ばかり揃えられて、私が我慢できるわけないでしょう」

「そうか。よくわかった、殺す」


 コンが鞘に手をかける、その短いあいだ。

 イコは二の丸の石垣を飛び降り、城下町まで逃げ果せていた。




(まずいぞ。コンは私をあきらめそうもない。だがノミ付きの私が御台所にあがれば、コンも竹前も、延々笑いものだ)


 歴史に残るかもしれない。日暮れに酒屋の前でうなだれているところ、その身はあっという間に大奥の御寝所へ移された。


「まさか、今日で朱雀の羽根を使い果たしてしまうとは」

「コン、いや上様は、弟君の首をはねられたのか」

「コンでいいよ。殺したら今夜が台なしになるから、泣く泣く堪えた。……けどね、イコ。私のわがままは、ここまでだ」


 コンはイコと膝をつきあわせる形で居住まいを正し、切なげに笑った。


「ここから先は、君が決めて。竹前へ帰るなら、そのように手配しよう」

「竹前へ……? 帰っても、いいのか」

「イコ。君の名は北の民族の言葉で、宝物っていう意味でしょう。家族に愛を注がれ育った君を奪う権利が、私にあるのかな」

「ずいぶんと、……弱気なんだな」


 将軍のくせに。

 名の由来まで、わざわざ調べて。

 イコは颯と膝をたて、腰を上げた。


「御膳所に行ってごはんをよそってくる。昨日の腹子、酒屋のかまどをかりて、新しく漬けなおしたんだ」


 毛皮の衣嚢の左二番目から小箱を取り出し、コンへ手渡す。コンがフタを開けると、耳飾りのように煌めく腹子が箱いっぱいに詰まっていた。


「城下町へおりたのは、このためだったの」

「毒を抜くために、高い酒を使ったんだ。無駄にはさせないぞ」


 颯爽と襖を開けたが、外にいた女中に「あなた様はすぐ迷われるでしょう」と、炊きたての白米二膳を差し出された。

 両手にもって、大人しく布団の上に戻る。


「いただきます。コンも、ほら」

「……いただきます。イコは、逃げないの」

「もう逃げない。里は愛しいよ。でもそれ以上に、コンのことが好きだから」


 ふたりして、はらこ飯をかっこむ。

 本州の腹子は小ぶりだが、川で着物を濡らし合って獲った味は、格別だ。生涯忘れず心に刻んで暮らすことを、イコは誓った。

 食べ終わった茶碗といっしょに、毛皮が引き取られていく。


「あの女中はずっとそばにいるのか」

「君が来てすぐに、おつきにした女中だよ。気になるならノミ取りを命じて下がらせるといい」


 かかさずそばにいたと言うのなら、迷ったときや寝過ごしたときに、声をかけるなりして欲しかったものだが。

 見ていろと言えば見ているだけで機転は効かないが、ノミ取りだけはお墨付きなんだとコンは言った。


「女中がノミ取り名人……、コンは、ノミ付きの私でほんとうによいのか」

「よいよ。君は千年前からノミ付きだったし」

「コンには、前世の記憶があるのだな」


 イコはコンへ、フチの占いのことを話した。

 コンは驚きつつもまったくそのとおりで、昏明という名は前世のもの、コンという呼び名は前世のイコが名づけたのだと、明かした。


「イコは、千年前からずっと寝汚くて、食いしん坊だった。……そうだ!」


 コンは両手で膝を打った。

 

「それでもね、イコは歴史上最高の皇后だった。爪の先まで美しいその所作を、ひと目見ただけでみんな卒倒したものだ。その記憶を呼び起こして明日にお披露目すれば、ノミのことなんてすぐに忘れる」

「それは大昔の話しだろう。そもそも器量がちがう」

「容姿のことなら、前世のままだよ。すれ違いや誤解を生まないために、私から神様へお願いしたんだ」


 だからひと目でわかったんだと、コンはイコの豊満な胸をみつめながら白状した。竹前は米より漁猟。良質な脂肪とタンパク質に恵まれ、胸だけは前世よりひとまわり、いやふたまわりおおきい。


「神様、イコを竹前で育ててくれてありがとう」

「容姿は同じで、あとは所作か。ひと晩で記憶を取り戻せるかな」

「戻るよ。口づけで」


 口づけか。今日は顔を洗ったし、まあいいかと、イコはコンの頬を引き寄せた。


「……なにか、思い出せた?」

「驚いた。ネズミは美味いが、小骨が多い」

「あはは、そうきたか」

「残念だが、御台所にふさわしい所作は手に入らないようだ」

「あきらめるのはまだ早いよ」

 

 コンは、前世の記憶とすり合わせながら、何度も唇を重ねた。


 記憶を口実にたくさん口づけできるよう、少しずつ思い出させて欲しい。

 神様との約束は、千年の時を待ったコンに都合のよいことばかりであった。




 翌朝の総触れ。

 ノミ付きの娘を御台所に選んだ将軍への抗議に、候補者だけでなく年寄や、家臣までもが集まったが、コンの言葉のとおり。


 御座敷には太鼓や鈴ではなく、頭を打つ音が轟き。イコの十全十美の立ち居振る舞いに、その場にいたすべての人間が腰を抜かしたのだった。



 終わり


 

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千年恋〜ノミ付き姫君は正室になれません〜 紫はなな @m_hanana

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