EP17.瀬名くんの愛に殺されたい
新島くんと向井さんが出て行った扉が閉まるとすぐに、セナくんが「チョコは?」と首を傾けた。
「え?ちょ、ちょこ?」
「そ。今日バレンタインでしょ?え、もしかして僕……彼女から本命チョコ貰えないってこと?」
セナくんは、信じられない、とでも言いたげに目を見開き、次の瞬間には切なそうに眉尻を下げた。大袈裟な程悲しみに暮れているが、誰が見てもそれは芝居だと分かる。本当は悲しいだなんてちっとも思っていないだろう。
「ごめん……渡せるか分からなかったから」
それが私の本心だった。渡そうかなと今朝まで考えていたし、なんならチョコレートも用意していた。しかしいざ家を出る時間になって、"もし受け取ってもらえなかったら?"と不安に支配されて、自分の部屋の机にしまったのだ。
「……伊織には?」
「え、新島くん?」
「ここんとこずっと、伊織と仲良いよね?」
「誰にもあげてないよ」
私の返事を聞いたセナくんは黙りこくる。
「……セナくん?」
「……ねぇ、伊織のこと好きになった?」
どうして笑いながらそんなことを聞くのだろう。セナくんの心の内を想像しても一向に理解できない。
「なってないよ、新島くん優しいから話を聞いてもらってるだけ」
「……あいつが優しい?んなわけねーじゃん。あいつは優しくなんてないよ」
「やめてよ、何も知らないくせにそんなこと言わないで!」
私が新島くんを褒めるとセナくんはあからさまに不機嫌になった。しかしその返事に私も腹立たしさを感じる。セナくんが仲の良い友達のことを優しくないと言い切ったこともそうだし、それが私を唯一気にかけてくれた新島くんということが、私をさらに苛立たせた。
新島くんは優しい。新島くんと初めて体を重ねた後、「日村にお前とのこと『俺が別れたくてでっちあげた嘘だった』ってちゃんと言うわ」と約束してくれた。「悪かったな」って。「それでお前への風当たりが少しでも和らげばいいんだけど」と、愛おしげに頭を撫でながら。
私はそれを「言わなくていいよ」と断った。もう今さら過ぎるし、日村さんたちに謝られても許せる気がしない。それに「新島くんが色々言われるの嫌だし」と微笑めば、新島くんは優しいキスを瞼に落とした。そんな彼が優しくないわけがない。急に冷たくなったり、優しくなったりして私を振り回すセナくんよりずっと、新島くんは私に優しい。
「沙耶香ちゃんがアイツの何を知ってるの?」
「セナくんが知らない新島くんのこと知ってるよ」
売り言葉に買い言葉だった。これを言えばセナくんの怒りに触れると分かっていて、私はその言葉を故意に選んだ。しかしセナくんは予想に反して、ただニコニコと私に笑顔を向けるのみだ。それが不気味で恐ろしかった。整った顔は体温を失ったかのように少しも微笑みを崩さない。
「向井さんとイチャイチャしてたセナくんに、私を責める権利はないしね」
何を言えば彼はこの微笑みを崩すのだろう。感情のままに怒って、セナくんは血の通った人間だということを私に証明してほしい。
「えー?僕は沙耶香ちゃんと違って向井さんとセックスしてないしなぁ。伊織のちんぽ気持ち良かった?」
ゾッとした。その事実を知っていながら何を考えて笑い続けているのだろう。
「やだ、なに、怖い、」
「怖い?僕が?どのあたりが?こんなに愛してるのに?怖いの?」
「愛してるなら私だけ見ててよ、他の子に優しくしないで」
セナくんは無言でジリジリと私ににじり寄る。壁とセナくんに挟まれて私はいよいよ逃げ場をなくした。
「セナくん、やっぱりおかしいよ。こんなの間違ってる。こんなの愛じゃない」
初めて終わりにしたいと思えた。やっと解放されると安堵の息を吐いた。終わりを受け入れてしまえば、苦しみが一つ二つと私の体から消えていくのが分かった。なんだ……もっと早く手放しておげは良かったんだ。
「ねぇ、沙耶香ちゃんはこの世の中で難しいことってなんだと思う?」
明後日の方向へ飛んだ会話に言葉が出なかった。そんな私に気づいているのかなんなのか、セナくんは「んー、」と悩ましげな声を出して、「じゃあ、簡単なことは?」と質問を変えた。
「正しいことを正しいと言うこと」
「そう、それ。沙耶香ちゃんらしいね。だけど僕はね、それが難しいと思うんだ」
セナくんは私に何を伝えたいのだろう。「こっちにおいで」と私の手を強引に引き、リビングのソファへ座らせる。
「セナくん、私帰りたい」
「昔話だよ。僕はね、ずっと背が低かったんだ。父の仕事柄転校続きで、あまり友達もできなかった。揶揄われてイジメられたこと、何度もあるよ」
帰らせてくれる気はなさそうだ。私は黙ってセナくんの話を聞くことにした。これを聞けば彼の心の柔らかい部分に触れられる気がしたから。だけどそれはもう今さらなこと。もっと早くに教えてくれる気になっていたら、私たちには違う未来があったかも知れないのに。
「中学2年生の時の転校先で、僕はまた揶揄われてた。『暗い』だの『チビ』だの、使い古された言葉で」
「…………うん」
「そんな時、助けてくれた女の子がいたんだ」
「そうなんだ、良かったね、どこにでも、」
「したり顔で正義のヒーロー気取りの奴はどこにでもいるんだと、反吐が出たよ」
「え?」
無意識に顔を歪めてしまうほど、セナくんの口から出た言葉を受け止められなかった。
「あの時はどうもありがとうね、沙耶香ちゃん。高校で再会できたときは涙が出そうなほど嬉しかったよ」
私?頭が混乱してセナくんの話を整理できない。そんな戸惑った私に理解を促すように「僕小さかったし転校したばかりだったから、沙耶香ちゃんは後輩だと勘違いしてたみたいだけど」と説明を付け加えた。
「も、しかして、私がセナくんのこと助けたの?」
「何を聞いてたの?僕は沙耶香ちゃんの"自分の正しさを証明したい欲求"に利用されたんだよ」
「……そんな、私そんな風に思って誰かを助けたことなんてない……」
心の動揺を表すように声が震え、視線が泳ぎ出す。強く握った拳と浅くなり始めた呼吸がさらに私を追い詰めた。
「そうかな?正しさを振り翳せばどんな酷い言葉も正義になると思ってない?これを言われた相手はどう思うかな、とか、どうやって伝えれば相手は理解してくれるかな、とか、全然考えてないんだよ」
「そんな、違う、私……!」
「一番僕のこと憐れんで見下してたのはどこのだーれだ?」
怖い。私の心の中全て暴かれていくようで、その見透かした瞳が恐ろしい。私が今まで正しいと信じて行ってきたことはただの自己満足だったの?
沙耶香ちゃんの瞳にうっすらと膜が張る。美しいと思った。この涙が零れ落ちる頃には、この子は僕のものになっているだろうか。
「気持ち良かったでしょ?可哀想な子を助けるのは、まるで正しいことをしてるヒーローになった気分で」
「そ、それでもただ見てる子よりマシでしょ?偽善でもなんでも、私に助けられた子はたくさんいるよ」
あぁ、中々折れないなぁ。どうせもうすぐ手に入るんだから焦る必要などないのに、少しでも早く僕のものにしたくて急く心をなんとか落ち着ける。100%自分が正しいと信じて疑わない勝気な瞳が、その自信の表れを体現したブレない声が、僕の前で枯れていく様はこの上ないほどの甘美さを内包している。何がなんでも彼女を僕の支配下に置きたい。彼女が欲しい。
「そうだね、その子がそう思うならそうなんでしょ?でも僕は沙耶香ちゃんの自己陶酔に吐き気がしたよ」
「ひどい、」
「誰が褒めてくれるの?誰に褒めてほしいの?歪んだ正義感をみんなに押しつけて、結局沙耶香ちゃんの手元にはなにが残った?」「沙耶香ちゃんのこと誰が信じてくれた?イジメられて誰が助けてくれた?えーっと、親友だった紗良ちゃん?それとも今まで沙耶香ちゃんが助けたはずの誰か?それともー、あっ、伊織かな?下心たっぷりで、沙耶香ちゃんのことなんて少しも心配してない伊織かな?」
彼女の心を折るための言葉がスラスラと淀みなく流れ出る。心当たりのある沙耶香ちゃんはもう言い返せない。微かに震える唇が愛しい。
「ね?正義を振り翳して良い気になってた沙耶香ちゃんはただ嫌われてただけ」
「わ、たし、嫌われてる?」
「まさか気づいてなかったの?僕のこと散々可哀想って言ってたけど、本当に可哀想なのは誰かな?」
「私、私だ。私可哀想なの?」
オドオドとした声が、泳ぐ視線が彼女の尊厳の成れの果て。
「でも大丈夫。僕だけはそんな沙耶香ちゃんの味方だよ?誰に嫌われても誰が敵になっても、僕だけはきみを愛してる」
「せ、なくん……違う、本当の私はこんなんじゃない」
「へぇ、そっかぁ。なら本当の沙耶香ちゃんってどんなの?僕に見せてよ」
顔が良く見えるように髪を耳にかける。僕の指先が少し肌に触れただけで、大袈裟なほど跳ねた肩と見開かれた目が心地良かった。
「正木沙耶香は曲がったことが大嫌いな正義感の塊。そんなクソみたいな理想の自分、捨てちゃえば?」
そしたら今よりずっと楽に生きられるよ、と優しく優しく、彼女の眦に指先を這わせた。ふるりと震える伏せられたまつ毛が濡れている。愛しい。舐めたい。全部欲しい。
「楽になれるの?」
「うん……でもね、楽と幸せはイコールじゃないんだよ」
僕の言葉を聞いた沙耶香ちゃんの瞳が絶望に染まる。幸せになりたいよねぇ。でも沙耶香ちゃんの幸せは僕と共にあるんだ。そうでなければいけない。
「だから僕のために苦しんで。僕のために生きて。言ったでしょ?沙耶香ちゃんの感情も全部僕のものだって」
「やだ、やめたいのに……セナくんのことすきなのやめるの。もう解放して、もう充分気持ちは晴れたでしょ?」
なにも苦しむことはないのだ。僕のために生きる必要などどこにもないのだ。それでも沙耶香ちゃんが苦悩し、踠き、やめたい手放したいと悶えながらも、僕から逃れられない、それこそが僕の至上の幸福。
沙耶香ちゃんはそんな抜け出せない地獄のような世界から解放されたいと、僕に縋った。あぁ、そんなの、そんなの。
「ダメだよ。お前が俺のことを諦めるなんて許さない」
天使の微笑みと称される僕の笑顔。しかしそれを見た沙耶香ちゃんの瞳からは涙が溢れた。それが僕の目の前で落ちていく。
「どこで転んでも、血が流れて足の皮がめくれても、足がもげて、心臓がとまっても、お前は俺を諦めるな。お前は死んでも俺のものだよ、そして俺も沙耶香ちゃんのものだ」
沙耶香ちゃんの瞳に滲んだ僕が映っている。
「愛してるよ」
「瀬名くん、」
その瞬間、初めて本当の俺を見つけてくれた気がした。沙耶香ちゃんと初めて会ったあの日の卑屈な俺が遠くで笑う。
全てを諦めて、彼女の中には瀬名和泉だけが残った。それでいい。これがいい。
力無く笑った彼女はあの日助けてくれた時と同じ天使の微笑み。俺が欲しいと願った全て。やっと手に入れた宝物を壊さないように、優しく優しく抱きしめた。
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