EP16.セナくんの愛に殺される
セナくんの柔和な笑みからは匂い立つ美しさを感じる。強い目力とは対照的な、ふっくらと際立つ涙袋と下がった目尻が醸し出す雰囲気のおかげだろう。しかし今の私はその柔らかで慈しみ深い笑みを直視できない。
あれだけ冷たく接してきてたセナくんはまた私に優しくなった。戸惑いはもちろんあったが、それよりも嬉しさが勝った。だけれどそれと同時に新島くんと浮気している罪悪感が私を蝕んだ。
「それ全部バレンタイン?」
「あぁ、これ?下駄箱とかロッカーにね」
だから断れなかったんだということを伝えたいのだろう。サブバッグに収まりきらなかった分を先生に貰った紙袋に入れながら、セナくんは苦笑いを浮かべた。
「えー、すごいね。って、わたしも渡したくて持って来たんだけど……貰ってくれる?」
「ん?あぁ、ありがとう。もちろんいただくよ」
私の横で、向井さんが丁寧にラッピングを施した袋をセナくんへ差し出す。中身はもちろん手作りお菓子だろう。恐らく向井さんは私たちが既に別れていると思っているに違いない。でなければこんなに堂々と本命チョコは渡せないはずだ。さすがに。
本当は私たちはまだ付き合っている。正確には"別れていない"と言った方がいい気もするが。それでも関係は解消されていないのだ。しかし今やそう認識しているのは当事者である私とセナくん、そして新島くんぐらいだ。
「お前それどうやって持って帰んだよ?」
ひょこりと顔を覗かせた新島くんが、少しの揶揄いを含みながら同情に顔を歪めた。
「んー?どうしよーねぇ?」
「一緒に持って帰ってやろーか?」
「おー、それ助かるわ」
「あ、じゃあわたしも手伝う!」
新島くんに続いて向井さんも手を挙げる。それに私の心が波立ったことを新島くんは気付いたのだろう。「じゃあ、沙耶香も手伝えよ」と私を気遣うように言葉をかけた。
その日の放課後は約束通り、大量のチョコレートを4人で手分けしてセナくんの家へ運んだ。「上がってってよ」というセナくんの誘いを受け部屋にお邪魔した途端、向井さんが「すっごーい」と声を弾ませた。同級生でマンションの広い部屋に一人暮らしだなんて、そうそういない。だから向井さんのテンションが上がることは納得できた。
「あんま見ないでね、ちゃんと片付けてないから」
キョロキョロと部屋を見回す向井さんに、セナくんが照れた表情を見せる。ツキンと鋭い痛みを感じた胸を咄嗟に押さえ、それでも2ヶ月ほど前に訪れた部屋と何も変わっていないことに安心した。
「あ、やっべ、水しかないわ。みんな水でいい?」
「うん、なんでもいーよー!お気遣いなくー!」
「珍しーな、お前んちに水しかないの」
「いやー、ほんと仕事忙しくてさ。誰とも遊んでないのよ、ここんとこ」
セナくんの口から告げられた事実に泣きそうなくらいホッとした。良かった。浮気してるとか、私に飽きたとか、そういうことじゃなかったんだ。仕事が忙しくて連絡出来なかっただけなんだ。自分の気持ちを誤魔化しながら、なんとか今日までやって来れた。その苦労は無駄じゃなかった。
迫ったクラス替えのことや進路のことを少し話した後、「そろそろ帰ろーぜ」と新島くんが私と向井さんに交互に視線を送った。
「そうだね、帰ろっか!ありがとね、瀬名くん」
「いえいえ、僕の方がありがとうだから」
「セナくん、また明日ね。お邪魔しました」
ほぼ同時に立ち上がった私たち。別れの挨拶を口にした私の腕をセナくんが緩い力で掴んだ。
「沙耶香ちゃんは僕が送ってくから残って?」
「……え?」
「え?!いーなーいーなー!わたしのことも送ってってよ!」
「向井さんのことは俺が送ってくわ。ほら、帰るぞー」
えー?!と不満を表す向井さんの背中を押しながら、新島くんは「じゃあな!」と爽やかな笑みで私たちに手を振った。それに小さく手を振り返しながら、私の胸は期待と不安でどうにかなってしまいそうだった。
▼
未だにブーブーと文句を垂れ流す向井莉奈の手を引きながら、俺は気付かぬうちに大きな溜息を吐いていたようだ。
「こわー、怒った?!ごめん〜」
「えっ?!俺?!怒ってないけど」
「あ、ほんと?めっちゃおっきな溜息吐くんだもん」
ぷぅ、と漫画やドラマのように大袈裟に頬を膨らませた向井莉奈は確かに可愛い。騒がれるだけのことはある。しかしセナにとってはそんな見た目など大したことではないらしい。事実、向井莉奈にあれだけのアプローチをかけられながら、セナの興味関心はただ一人、正木沙耶香に注がれ続けている。
「お前、ほんとーにセナのこと好きなの?」
「んー?好きだよー?かっこいいじゃん?」
「まぁ、顔はなぁ」
「あれ?もしかして新島くんと瀬名くんって上辺だけの友達なの?」
えらく失礼な発言だと思った。そりゃあ、俺たち親友!、なんて仲良く肩を組む関係ではないが、俺は俺なりにセナのことを好いていた。気を使わなくていいから楽なのだ。しかしやはり、あいつの正木沙耶香に対する執着と仕打ちは理解できない。
2年生に進級したばかりの頃、セナに持ちかけられた話を思い出した。そもそもの始まりは、普通なら流してしまうようなありふれた会話の一端だった。まぁ、俺が知る限りの始まりは、という話だが。
▽
俺とセナは一度別れた後、再び合流した。『正木さんとはバイバイしたから、今から俺んち来いよ』とセナから電話があったのだ。
「お前大丈夫だったか?あの女」
「んー?あー、正義感の塊?」
名前こそ出さないものの、俺たちの間には共通の人物が浮かんでいた。正木沙耶香。曲がったことが大嫌いで?、俺がセナを虐めてると勘違いして一方的に俺を断罪したいけ好かない女だ。
「そうそう。アイツやべーだろ?マジで正体バレないようにしろよ?」
「……んー」
「大丈夫かよ、その返事。たぶんこれからも事あるごとにお前のこと気にかけて付き纏ってくるぞ」
俺の心配をよそに、セナは呑気にあくびを一つ。人気モデルということを隠して高校生活を送っているくせに、こいつには今一つ危機感ってものが足りない。
始業式の後、正木沙耶香はどういう訳か俺たちの後をつけていたのだ。それは正木沙耶香曰く、正義感故の行動、らしいけど。どんなことにも盲目になる奴は恐ろしい。それがいくら正しいとされていることでも、だ。
「ってかさ、俺めっちゃ腹立ったわ」
「正木沙耶香に?」
「そーそー。チャラチャラしたモデル業って馬鹿にしただろ?アレ」
「あー、アレね。伊織怒ってんなーって思ったわ」
思い出し笑いをし始めたセナは「そういやさ、」とニヤリと口角を上げた。これは何かを企んでいる時の顔だ。しかも恐ろしいほど悪趣味な企み。
「俺、正木沙耶香のこと前から知ってんだよね」
「あ?セナが?」
「そう。昔会った時にすっげー嫌なことされてさ」
そこまでを告げたセナは、時が止まったかのように動きを止めた。そして顎に当てていた指を唇に移動させ、指先で唇をトントンと弾く。何かを考えているらしい。
「そーだ、俺、正木沙耶香と付き合うわ」
「?はぁ?何言ってんの?」
「面白そーだろ?」
悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべたセナの中では、正木沙耶香と付き合うことは決定事項のようであった。
「付き合うって、どっちで?」
「こっちで」
自分を指差したセナは、つまりモデルのセナとして正木沙耶香と付き合うようだった。まぁ、セナにモーションかけられて断れるような奴はいないか、と納得する。
「お前何企んでんの?」
「んー?嫌な思いをさせられた沙耶香ちゃんへの復讐、かな?」
「え、こわ」
「そう。俺ってば執念深いんだ。伊織、なんかあったら協力してよ」
花笑みとはまさにこのこと。息を呑んでしまうほどの美しい笑みを浮かべたセナに、「おもしろそーじゃん」と軽い気持ちで応えたことが懐かしい。
そんなことを思い出していた俺に、向井莉奈が「瀬名くんって、やっぱり正木さんのこと好きなの?」と聞いてきた。
「さぁ?」
「えー、教えてよ。アプローチしても全然手応えないんだけど」
不満げに唇を尖らせた向井莉奈に「俺も知らねー」と返す。彼女はその返事をテキトーにはぐらかされたと思い腹を立てているようだが、その答えは正しく俺の本心だった。本当に知らないし、分からないのだ。
始まりがあんな感じだったので、初めこそセナも正木沙耶香を弄んで愉しんでいると思っていた。だけどあと2ヶ月やそこらで一年だぞ。正木沙耶香によってセナがどんな嫌な思いをしたのかは知らないが、復讐に一年を費やすってヤバくね?と素直に思う。それに、と思い返したのは俺が正木沙耶香と何度目かの浮気セックスをした日のセナだ。
いつも通り「今日もヤッたわー」とセナに報告をしていた時だ。セナは真剣な眼差しで「伊織、お前沙耶香ちゃんのことほんとーに好きになるのはダメだからな?」と釘を刺したのだ。
それに俺は「ならねーから」と返し、プラスで「お前も向井莉奈とイチャつくのやめろよ。もうアイツの反応は充分愉しんだだろ?」と、行き過ぎなセナの行動に一応忠告をしたのだ。それに乗っかってセックスまでしてる俺が言えることではないが。良心の呵責に耐えられなくなってきた、ということだ。
その後セナはどんな顔をして何を言ったんだっけ。それが思い出せない。いや、正確には思い出したくないのだ。
「まぁ、向井さんはさ、もう関わんないほーがいーよ」
「えー、瀬名くんに?どうして?」
「んー、そっちのが絶対平和な人生を送れるから?」
俺の言葉を聞いた向井莉奈は「なにそれー?!」とキャハハと高い笑い声を出した。恐らく冗談の類だと受け取ったのだろう。
だけど見てみろよ、セナに執着されて心を絡め取られた正木沙耶香を。アイツが幸せそうか?初めて見た日の勝気な瞳や自信に溢れた声はもう見る影もない。今じゃあ惨めにセナの歪な愛にしがみつくことしか出来ない哀れな女だ。
「俺は一抜けするわ、取り返しがつかなくなる前にな」
俺はアイツを地獄から助けてやれる程の力を持ってはいないのだ。俺に抱かれた後必ず「ありがとう」と言う薄幸な雰囲気を纏った沙耶香を頭から追い出すことで、なんとか心を納得させた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます