第9話 目覚め

 幸子さんの話が終わった時、お香はすでに、燃え尽きて、白檀の甘い香りが、残り香として、静かに漂っている。


「生きててよかった、幸子さん」私は、涙を流しながらそう言うのが精一杯だった。

「ありがとう、彩乃ちゃん」

 お香の芯は、燃え尽きた後も、そのままだった。それを幸子さんと二人で静かに見ていた。


 十五歳の少女が、目を失っただけでなく、顔が歪んでしまうと言われた時の心境を思うと、胸をぎゅっと掴まれる感じがする。そんな気持ちを知っていてもなお、「生きて欲しい」と訴えた幸子さんのおじいちゃん。私、彩乃の高祖父も、辛かっただろう。


「片目だとね、ほぼ見えるのよ。遠近感覚は、慣れれば、問題ないし。するとね、周りは、『本当に見えてないの?』と不思議に思うのよね。」と幸子さんは、また話し出した。

「高校では、私があまりにも自然に動くから、仲の良いお友達も、疑問に思ったみたい。それで、試されて、怪我したこともあるわ」

私はちょっとギクッとした。子供の頃、私も同じようなことしていた。

「その時ね、左目が不自由なことって、そんなにたいしたことじゃないように思ったの」

私は、幸子さんの一言にびっくりした。

「そんな、片目でも不自由って大変なことだわ」と身を乗り出して言った。

「もちろん、そのこと自体は、大きな問題よ。でもね、それ以上に、その事実とどう向き合っていくかの方が、『たいしたこと』だったと気づいたの。私がどんなに頑張って、周りと同じように振る舞ったって、実際は、同じにはならない。逆に、そのことで、気を使わせたり、疑いを持たれてしまう。なら、他とは違う自分をどうやって受け入れていくかを真剣に考えて、実行したの。」

私は、幸子さんを「強い」と思った。


「実行したことって、どんなこと?」私は、聞き返した。


「まず、目が見えないことを隠さなくした。目が不自由だと知っているクラスの中でも、私から、片目が不自由だから、こうしてほしいとお願いするようにしたわ。それに、義眼に疲れたら、眼帯をして、学校に行ったわ。皆、振り返ってたわ」

 そう話す幸子さんは、いたずらっ子のような表情だった。そうか、あっちゃんに義眼を見せた時も、ちょっとは悪戯心があったのだ。私はそう思い、一緒にクスッと笑った。

「私が変わっていくことで、周りも変わった。自分にできることと、できないことをしっかり見極めたの。するとね、自然と自分の存在が目立たなくなるの。『周りと溶け込む』て感じかしら。人との距離も上手に取れるようになったのが、自分でもわかったわ。家の中でもそうだった。嬉しかったわ」

そう語る幸子さんは、生き生きとして、清々しかった。


 そして、幸子さんは、私に静かに、そしてはっきりと私に言った。

「だからね、彩乃ちゃんが一生懸命になって、この家のバランスを取ろうとしなくていいの。彩乃ちゃんができることをしてくれるだけで十分なのよ」


 それを聞いて私は、怖いような、苦しいような、恥ずかしいような、いたたまれない気持ちになった。子供の頃から、あまり怒られたり、注意されたりしたことがなかった私は、焦りにも似た気持ちを感じた。いつの間にか、膝に乗せた両手を強く握りしめていた。


 なぜ、急に皆、同じようなことを言うのだろう。社長と話をした時もこんな感情を味わった。何が、いけないのだろう。足元が、崩れていくような感じがした。お香の香りが残る部屋に、沈黙が流れる。


 どうしよう。どうしよう。となんども心の中でつぶやいた。何か言わなきゃ、でも、何を言うのだろう。


「私、どこがいけなかったの?」と気がつくと、声を荒げていた。


 机に手をついて身を乗り出て、目の前の幸子さんに向かって怒鳴っていた。 幸子さんは、ひるむことなく、私を見据えていた。私は、また、涙が溢れてきた。

「頑張ってきたのに、なぜ、ここにきてみんな私に『自分のことをしろ』って言うの?私を突き放すようなこと言うの?」心で思っているはずだったのに、私は、声に出していた。

「彩乃ちゃんは、たくさん気配りをしてきたのよね。みんなのために、いろいろ手伝ってくれたのよね。それは、とても大切なことだわ。本当なら、感謝されて終わるはずが、それより、自分のことをやりなさいって言われたら、戸惑うわよね。」そう答える幸子さんは、全く隙のない態度だ。


 お茶のお師匠の幸子さんだ。


「私は、今、お稽古中なのか」とぼんやり思った。


その幸子さんの様子を見て、私は、少し落ち着いた。そして、机から手を下ろし、ストっと座り直した。ふうっと肩で息をした。


 そうだ、幸子さんの言う通りだ。別に、褒められたくて仕事や人助けをしているわけではない。でも、なぜか、すんなり褒めてもらえない。自分のことを犠牲にしているつもりもない。

 けど、周りからは、そう思われている自分がいるらしい。自分では、好きなこともしてきたと思っている。お友達も多いと思う。でも、本当は、周りの人に、私は、どのように写っているだろう。私は、どんな人物なのだろう。


 すると、彼氏である、雅也の言葉が頭の中に浮かんだ。雅也は、よく「それは、お前の仕事なのか?」と言う。私は、人の仕事やっているのかな?助けているつもりなのだけど。

 そうだ、大学の時のバスケコート作成依頼の時も、皆が、バスケをしている時、私だけ大学で提出書類作っていたな。私もバスケしたかった。けど、これが終われば、みんなで楽しめると思って、頑張った。中学生の時も、高校生の時も似たようなことはあった。そうか、あの時、提出書類なんかあとにして、みんなとバスケすればよかった。


 仕事もそうだ。私が任された敷地内の南側に作る公園のデザイン。あれも、もっと色々調べてたかった。そうしていたら、違う雰囲気の公園ができたかもしれない。手が回っていない仕事が目についた。誰もやらないから、私がした。そしたら、自分の時間がどんどんなくなっていった。

 いろいろ思いつくことが、頭に浮かぶ。でも、まだ疑問が残る。なんで幸子さんも同じようなこと言うのだろう?家の中では、特に私、気を使うようなことはしていないように思う。もしかし、私が意識していないだけで、何か、必要以上に周りに気を使っているのかな?


なんだろう、それって。


 私は、幸子さんが怒っていないか不安だったけど、顔を上げた。幸子さんは、穏やかな顔で私を見ている。


「彩乃ちゃん、私が目を失ったのは、私のせいなの。誰のせいでもないわ」少し間をおいて、幸子さんは続ける。


「本当のこと言うとね、自分のしてしまったことを、今でも悔やむわ。でもね、悔やむだけの人生は嫌なの。だから、自分のできることをやっているわ。どうやって生きるかは、私が、藤本幸子が、なんとかすることなの。彩乃ちゃんが、心配することではないよ」


 穏やかだけど、はっきりとした意思を感じる声音だった。ああ、そうかも。やっぱり思い上がっていた。小学校三年生の時から、全く成長していなかったみたいだ、私。


 私は、私が幸子さんをなんとかしなきゃと心のどこかで思っていた。それは、違うんだ。違うよと幸子さんは、教えてくれた。


 脱力。怒られた方が、よかったかも。かなりグッサリきた。


 そう考えると、雅也の言っていることは当たっている。人にいいように使われているなら、まだ救いようもあるだろう。でも、私の場合は頼まれもしないのに、自分で責任を感じて、行動している。自己満足に浸っていただけ。

 私、バカみたい。


「彩乃ちゃんが、私に気を使うようになった時ね、辛かった。目を失った時と同じ、いやそれ以上だったかも」震えた声で、幸子さんが言った。

「涼子ちゃんも、お世話させてもらった。和ちゃんの娘だけど、私にとっても娘と同じだわ。彩乃ちゃんもあっちゃんも、孫と同じ。あなた達を抱いた時、可愛くて、愛しくて、生きていてよかったと本当に思った。でも、小学生の彩乃ちゃんの態度が変わった時、一線を引かれたと思ったの。この目のせいで、自分はやはり、母親にもおばあちゃんにもなれない存在なんだと思い知らされた。自惚れていたのよね。私」

 私は、ハッとして、幸子さんを見た。無言で、首を何度も振った。

「小さな彩乃ちゃんがね、一生懸命、私に気を使うでしょ、それがいたたまれない時もあったわ。でも、それが彩乃ちゃんの優しさだと、思いやりだとわかっていたから、そのままの彩乃ちゃんを大切にしたかった」


 今度は、幸子さんが泣いている。


 頭が真っ白になった。でも、体は勝手に動いた。気がつくと私は幸子さんに抱きついていた。


 私は、バカだ。子供の頃、幸子さんを危うく晒し者にしてしまうようなことをした、自分を認めたくなかった。必要以上に気を使うようになったもの、そんな自分を隠すためだった。幸子さんを言い訳にしていた。それが、幸子さんのことを傷つけた。


 ごめんなさい。


 どのくらい、幸子さんに抱きついていたのだろう。私は「幸子さん、茂さんに会いたくない?」と聞いた。

「彩乃ちゃん、また、人のことのことばかり考えて」

私は、幸子さんの言葉を遮って話した。

「うん、そうかもしれない。でも、幸子さんは、茂さんに、会いたいの、会いたくないの、どっち?」


 もう、遠慮はなかった。幸子さんは、じっと私の目を見て、真剣な眼差して答えた。


「会いたい」と。

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