五着目「やっぱ違う」

「ごめん、実はアナタといても全然楽しくないんだ……」

 あみちゃんは切実な表情でそう言った。

 それは今までに見たことのない深刻なもので、僕は衝撃を受ける。

「えっ、だって楽しいって言ってたじゃん……いつもあんなに楽しそうにしてたのに……?」

「うん……ごめんね。今まで楽しい振りをしてたの」

「なんだよ、そんなの全然わかんねーよ! あんなに笑顔で一緒に居たのに……あれ全部嘘だったのかよぉ……?」

 僕は否定して欲しくて問いを投げ掛けたが、あみちゃんはコクリと頷くだけだった。

 全身から力が抜けていく。外気とは関係なく体温が下がっていくのが感じられた。

「……はぁ」

 僕は無意識的に溜息を吐いた。そうすると、少しだけ気が楽になった。

 しかし、あみちゃんはそこで冷ややかに呟く。

「……それ」

 僕は何を言われているのか、さっぱり分からなかった。

 その態度にも彼女は一層表情を硬くしたように見えた。

「そうやってすぐ溜息を吐く癖。確かに一緒に居て楽しい時もあったけど、それをされると全部台無しになるの。あれ? 楽しんでないのかな? 私、何か嫌なこと言ったのかな? って、いろいろ心配になっちゃう。だから、私、全然楽しくなかった」

 あみちゃんは冷たい声音のまま、淡々と言った。

 僕は彼女がそんな風に思っていたなんて考えたこともなかった。

「なんでもっと早く言ってくれなかったんだよ。そんなの簡単に直せるって」

 だから、別れるなんて言わないで欲しい。

 そう言おうとするが、その前にあみちゃんは首を横に振った。

「もう今更よ……」

「それに、ほら! 旅行は楽しかったじゃん! 前に行った伊豆とか!」

 あれは楽しんでいたはずだ。僕はそう思って口にした。

 けれど、あみちゃんは苦い顔をする。

「そう、その旅行行った時も、やっぱ違うなって思ったの……」

「えっ……?」

 僕が思わぬ返答に驚くと、あみちゃんは呆れた様子だった。

「私はね、旅行に行ったら、値段とか気にせず、ご当地の美味しいものをたくさん食べたいなって思うの。でもアナタはちょっと安いのとか頼むじゃない? そういうの見ると、あ~、無いなって思っちゃうの」

「いやいや、あんなの観光客価格だろ。しかもほぼ外国産じゃん、ご当地のものなんて殆どないって……」

 僕は咄嗟に反論する。彼女の言葉には納得がいかなかった。

 けれど、それはあみちゃんの苛立ちに油を注いだようだった。

「そういう余計な事ばっかり考えて、目の前の事を楽しもうとしないケチくさい所が、あ~違うなって思うの」

 強い語調で言い切られる。

 僕が二の句を継げずにいると、彼女はまだまだ言葉を連ねていった。

「他にも、レンタカー借りた方が楽なのに、頑なに移動は電車だし、真っ先に窓側に座るし、どんどん先に行って歩調も合わせてくれない。こっちはへとへとなのに、荷物も持ってくれない。レストランでも店員さんを呼べないとか、デザートやドリンクバーをケチったり、ポイントカードにやたら詳しかったり……」

 あみちゃんの溜め込んでいた不満が次々と溢れ出していた。

 そのどれもが僕にとっては初耳で、打ちのめされた。

 あんなに楽しそうにしていたのに、裏ではそんな風に思っていたなんて。

「とにかくそういう気が利かなくて、みみっちい、せせこましい所が嫌」

 あみちゃんは総括するように、そう言った。

 僕からすれば、全ての行動を否定されているようにさえ思えた。

 それだけ、彼女は旅行で不快だった点を事細かに並べていた。

 旅行の話で彼女に楽しかったことを思い出してもらいたかったが、むしろ逆効果で墓穴を掘ってしまったようだった。

「私もね、そろそろ30になるし……年齢の事とかあるから、ある程度は自分に納得させてきたけど、やっぱり違うなって……それに、申し訳ないけど、今のアナタじゃ将来が見えないし……」

 最後の一言は僕の心を抉ってきた。

 直接言われずとも、それがどういう意味かはすぐに分かった。

「……はぁ」

 僕は深々と溜息を吐く。

 この癖が気に入らないと言われても、せずにはいられなかった。

「なんだよ、結局カネかよッ……」

 まざまざと感じさせられた思いが自然と漏れ出た。

 それを聞いたあみちゃんは、不愉快そうに声を荒げた。

「違うわ! どうしてそうなるのよ! そんな事、一言も言ってないじゃない! それに……お仕事がなくなったのは、アナタの自己責任でしょ!!」

 その言葉を聞いた僕はカーっと頭に血が上った。

 あみちゃんの目の前まで詰め寄って問い質す。

「っ!? いや、ちょっと待て、今のはさすがに聞き捨てならない! 金融危機で僕の仕事がなくなることのどこが自己責任か教えてくれよ!」

「知らないわよそんなの。もっと頑張りなよっ!」

 あみちゃんは怯んだ様子もなく、突き放すような物言いだった。

 これまでこんな風に言われたことはなかったのに。

 込み上げてきた怒りが言葉となって口から溢れ出る。

「はぁ? なにその言い方……どう頑張っても個人の力ではどうにもならない事だって、あるんだよ! クソッ!! 今日だって、ほんとは有給申請して会社に来なくても良かったんだ。でも、一日も早く次の契約を見つけなきゃならないから、朝から晩までこうして仕事してるんだよ。それの、どこが自己責任か教えてくれよ、なぁっ!?」

「…………」

 一気にまくし立てたが、あみちゃんは顔を背け、両腕を組んでいた。見るからに興味なさそうに受け流している。その態度は一層、僕の頭に血を上らせた。

 どうにもならない状況にイライラした僕は、あみちゃんの両肩にガシッと手を置いて、大仰に溜息を吐き、恨み節のように言う。

「……はぁ。こんなこと話しても、どうせ興味ないよな? だって、どうせ他人事だもんな? そっちは、明日も普通に仕事があって、クビを切られる心配もない。ボーナスも出る。なんも困ってないもんな! 未来が明るくて羨ましいよ!」

 随分と嫌味のこもった言葉となってしまった。

 僕はこんな話がしたいわけではない。あみちゃんに考え直して欲しいだけなのに。

 彼女は両肩に置いたこちらの手を振り払うと、強い語調で言い返してくる。

「もう、いい加減にしなさいよ! 普段、無口で全然喋らなくて、何考えてるかさっぱりわかんないクセに! こんな時にばっかり、急に早口になってまくし立てないでよ!」

 その時、あみちゃんからふわりとアルコールの臭いが漂ってきた。

 それに気づいた僕はフッと冷静になった。けれど、怒りは急速に不安へと転じていく。

「……もしかして、誰かとお酒飲んでたの?」

 問いかけた瞬間、あみちゃんはバツの悪そうな表情をしたように見えた。

「もうアナタには関係ないじゃない。別れたんだから……」

 あみちゃんはそう切り捨てた。

 その様子は単に友人と食事をしていただけとは思えなかった。

 男だ。もしかすれば、既に……。

 そんな風に考えた途端、悲しみがぶわっと込み上げてきた。両目から涙が溢れ出す。

「ヤダヤダよぉ、まだ別れてない~」

 僕は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら縋りつき、あみちゃんの身体を弱々しく抱きしめる。

 彼女は身を固くするだけで、他には何の反応も返してはくれなかった。

「ごめん、もう好きじゃないの……」

「嫌だよぉ~そんなの嫌! もう一回、好きって言って……」

 僕は彼女の耳元でみっともなく呟いた。その声は涙と鼻水で掠れている。

「無理よ……」

 あみちゃんはそう返すだけだった。

 その態度に我慢ならなくなった僕は小さい子供が駄々をこねるように言う。

「ウソでも良いからぁ、好きって言って!!」

「……好き」

 あみちゃんは顔をしかめ、渋々と嫌そうに口にした。

 それを感じた僕は間髪を入れずに糾弾する。

「ウソつき!」

「……だって、ウソだもん」

 あみちゃんは取り繕う様子も見せなかった。

 それでも、僕は諦めきれず必死に求める。

「違う! 違うの! ちゃんと言ってほしいの! 本当の気持ちを込めて言ってほしいの!!」

「だから、無理だって……もう好きじゃないのに、そんなこと言えるわけないじゃない」

「ヤダヤダ、一生のお願い、もう一度だけ言ってよぉ」

「……好き」

 あみちゃんが口にするそれは何も変わらなかった。

 何の感情もこもっていない、無機質なものでしかなかった。

 だから、僕は取り乱して泣き喚く。

「ヤダァ! 違うぅ! ウソつき!」

 あみちゃんはうんざりするような表情を見せる。

 こんなどうしようもないやり取りが延々と続いた。

 けれど、僕とあみちゃんの心の距離が埋まることは決してなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る