孤高のヤモリ

麻根重次

序章

 勇気、という言葉はポジティブな文脈で使われるものだが、罪を犯すのに必要なそれを勇気と呼んでいいのか、今でも僕は考えてしまう。だけど僕の人生を変えた日に、僕の中にあったものは間違いなく勇気だった。


 その日、僕は朝からずっと吐きそうな程の緊張を必死に押し殺して過ごしていた。頭の中ではずっと僕がこれからやろうとしていることを押しとどめようとする声が聞こえていて、何度もやっぱりやめておこうか、という考えがよぎった。それでもその度にサヤカの顔が浮かび、なんとか決心を持続させることができた。


 あの時サヤカの長い独白を聞きながら、僕は目の前が赤く染まるような怒りに震えた。そしてその時躊躇なく僕は十五歳にして殺人者になることを決めた。僕がやるしかない。サヤカの人生を取り戻す。彼女自身の手に。



 夜八時に夕食になった。僕がリクエストした通りのメニューで、時間も概ね頼んでおいた通りだ。いつもは七時半頃に夕食になることが多かったが、僕が母に、少し宿題が多かったから、と遅らせてもらったのだ。

 サヤカの方も今頃は夕食にしている筈だ。そう考えると少しだけ気分がよくなり、思った以上に夕食を食べることができた。朝からの緊張の中で夕食が食べられるかどうかが不安で仕方なかっただけに、これは嬉しい誤算だった。


 それから部屋に戻り、時間が過ぎるのを待った。時計の針はいつまでも進もうとせず、僕は何度もこれからの行動を頭の中でシミュレーションした。

 やがて時計が十時半を指すと、僕は必要なものを入れたリュックを背負った。


 冷凍庫を開けてドライアイスの入った箱を取り出す。少し緊張しながら開けて中を見ると、ほとんど減っていなかったのでほっと胸をなで下ろした。きっちりとふたをしたのを確認し、頭の中で持ち物をもう一度チェックした後に家を出た。


 夜風は思った通りだいぶ冷えてきている。僕はサヤカの家を目指してペダルを踏み込んだ。ひと漕ぎごとに小さな声で、大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせながら。



 サヤカの家の少し手前までたどり着くと、近くのリンゴ畑の中に自転車を乗り入れる。そこで自転車を降りて木の陰に隠し、小型の懐中電灯をつけてリュックから厚手のビニール袋を取り出した。それから発砲スチロールの箱を開け、ドライアイスをふた欠片取って袋に入れた。袋を絞って中の空気を追い出す。そして袋の口を軽く縛ってそこを持った。


 懐中電灯を消してリュックにしまい、そこからは徒歩で目的地を目指す。計画段階では自転車で行くことも考えたが、何かトラブルですぐに逃げるときに自転車だと乗るのに手間取るといけないし、かといって置いていけば犯人がばれてしまう。


 右手に持ったビニール袋は歩くにつれて徐々に膨らんでいった。この分だと到着するまでに十分な量の二酸化炭素が溜まりそうである。しかし膨らむと流石に目立ったので、車が通りすぎるたびに僕は袋を体の後ろに隠すようにした。


 やがてサヤカの家が見えてくる。父親がいる新宅の窓に明かりがついているのを見て、僕の心臓は突然早鐘を打ち始めた。あそこにいる。あの男が。一方で広い敷地を隔てたサヤカがいる筈の古い方の家は、しんと静まり返ってまるでサヤカを包み込み隠そうとしているかのようだった。


 もはや不安を押し殺すことなどできなかった。敷地に一歩踏み入れると、足が萎えそうなほど震えているのが分かった。それでも一歩ずつ、足音を殺しながら建物へと近づいていく。玄関の前にたどり着くと同時に少し強い風が吹き、脇に積まれている酒の空き缶がカラン、と音を立てて少し崩れたので僕は心臓が止まりそうになった。しばらく立ち止まり、缶が立てた音だとわかるとどっと汗が噴き出た。


 右手を見ると袋はだいぶ膨らんできている。もう少し溜まるのをここで待とうかと思ったが、待っている間に恐怖心で動けなくなりそうでやめておいた。袋を握りなおすと少し滑って、手汗を大量にかいているのが分かった。


 袋の口がきちんと閉じているのを確認して一度玄関ポーチへ置く。手汗をズボンで拭き、リュックの一番上から薄手のゴム手袋を取り出して両手に嵌める。さらにつばのついた帽子を深くかぶり、マスクをかけた。万一顔を見られてもいいように準備してきたものだ。それからそっとドアノブを掴み回そうとした。


 しかし回らない。鍵がかかっているのだ。


 合鍵を作っておいてよかった、と少しほっとしながらポケットから合鍵を取り出し鍵穴に差し込む。ざりざり、という小さな音ですら街中に響き渡るかのように感じた。ゆっくりと回す。かちゃり、と微かな音がして鍵が開いた。


 そっとドアノブを回して僅かに隙間を作る。そこに耳を押し当てて聞き耳を立てた。最初は自分の心臓の音が大きく聞こえるばかりで少し焦る。しかしやがて奥の方からいびきの音が聞こえてきた。どうやらしっかりと寝ているらしい。ここまでは予定通りだった。


 できるだけ音を立てないようにしながら、ビニール袋を持って家の中へ身体を滑り込ませた。靴を脱ぐべきか少し迷ったが、痕跡を残すことが何より怖い。いざというときに備えて靴はすぐに足が入るものを履いてきていた。やはり靴は脱いだ方がいい。


 靴を脱いで家に上がると、暗い廊下の左側から細く灯りが漏れていた。サヤカに聞いたところだとここがリビング兼ダイニングキッチンで、そこから奥に和室がある。父親の寝室は二階だが、いつも泥酔するとその和室で寝てしまうということで、最近は布団を常に敷きっぱなしにしているらしかった。耳を澄ませていびきの聞こえる方向を確かめる。和室のあるはずの方角から聞こえるようだった。


 灯りの漏れているドアの隙間から中を伺うと、そこには聞いていたとおりダイニングテーブルが見えた。テーブルには酒瓶やコップ、つまみにしたらしいナッツの入った皿などが載っている。光に透けて見えるその瓶には中身がほとんど入っていないらしかった。


 仮にこの量を今夜だけで飲んだとすればかなり酒に強い人間でも泥酔していると思われる量だ。とはいえ僕は建前上は酒を飲めないから――何度か隠れて飲んだことはあるにしても――確信できるわけもなく、その辺はサヤカの情報を信じるしかなかった。すなわち、飲んだ量はどうあれ、今父親は酔っぱらって寝ている。


 ドアをそっと開けて頭を突き出し、更に中を確認する。入って右側に和風のリビングがあり、こたつが真ん中に据えてある。このところ朝晩冷えるようになってきたから、数日前からこたつを出したとサヤカは言っていた。さらにその奥にテレビがあり、テレビの横には和室への出入り口が開いていた。和室は照明が消されているが、リビングの灯りで照らされているために真ん中のあたりに布団が見て取れた。そしてそこには大いびきで寝ているあの男がいた。


 僕は足音を忍ばせてダイニングを通り過ぎ、リビングへとたどり着く。テレビのある壁側へ身を寄せ、男の様子を覗き込んだ。


 リビングの灯りが届かない暗がりに、短髪に刈った頭と無精ひげが見える。腹から下には毛布を掛けてあるが、その上からでもやや太り気味の体形がはっきりとわかった。見えている上半身には長袖のTシャツのような服を着て、仰向けに大の字になっていた。聞かされた人相と一致する。


 これがサヤカを苦しめている悪魔だ。僕は不思議と緊張感が消えていることに気付いた。僕が彼女を救うんだ。救わなければならない。



 手に持ったビニール袋の口を中身が出ないように注意しながら開ける。すぼめた袋の口を右手で持ち、息を殺して和室へ入った。瞬きをする度に目の裏がちかちかと光る。その時、僕の頭の中には恐怖も不安も何もなかった。ただただ、使命感のようなものが頭の中を駆け巡り、僕の方が酔っているんじゃないかと思うほどクラクラとした。


 男は酒臭い息をまき散らしながらなおもいびきをかき続けた。

 そっと男の頭の側へ回り、屈み込んで袋の口を近づける。そしてだらしなく半開きになっている口と鼻を覆うように袋を顔の下半分に被せ、そのまま隙間から空気が入らないように手で押さえた。


 いびきとなって吸い込まれた息が、カエルの鳴くような音とともに吐き出されたような気がした。男の手が何かを探るように少し動き、すぐにまただらりと横たえられた。そして袋の中からしゃくりあげるような声が聞こえ、いびきは完全に止まっていた。


 その瞬間男の目が見開いた。


 巨大な目玉に見据えられて僕の中にたちまち消えていた筈の恐怖が溢れだす。失敗だ、反撃される前に逃げないと――ビニール袋から手を放そうとしたとき、男の身体がほとんど動いていないのに気が付いた。


 大丈夫、動いていない。身体が動かないんだ。このままで大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて一度しっかり目を瞑り、再び開ける。見ればサヤカの父親の目は閉じていた。幻想だったのか、一度開いてまた閉じたのかはわからない。しかしパニックを抑え込んだ今、僕は重大な事実にやっと気が付いた。


 男の突き出た腹は、毛布の下でもはや上下動をしていなかった。



 死んだ――僕が殺した。うまくいったんだ。



 途端に頭の中にあらゆる感情が押し寄せてきた。達成感、全能感、焦燥、後悔、不安、そしてまたしても恐怖。それでも僕の中に残っていた冷静な部分がそれらをうまく処理してくれた。これでもう反撃におびえることはない。計画を進めるんだ。


 念のため、ビニール袋を抑える手を緩めるまでにたっぷり三分間待った。腕時計が三度長針を動かしたのを見て、恐る恐る袋を外した。男の首筋に手をやったが、自分の脈が速く相手のものが分からない。そこで袋の口のあたりを男の口元へ近づけてみる。袋は全く揺れなかった。


 僕は人を殺した。そのことが急に現実のものとして感じられ、思わず吐きそうになるのを懸命に堪えた。まだだ。まだ吐いてはいけない。計画はまだ半分しか達成されていない。まだやることが沢山あった。まずはこの男をあの場所へ移動させる必要がある。


 しっかりしろ、ここでミスをしたら全てが水の泡だ。何度も自分に言い聞かせたが、やっと立ち上がった僕の膝は、この敷地に踏み込んだ時よりも数倍も激しく震えており、男の死体を抱えあげられるようになるまでに更に時間を要した。


 いつのまにか外は雨が降り出したらしい。忌まわしい男のかつての住処を叩く雨音は、僕を責め立てるかのように次第に強くなっていった。


 *


 愛犬との早朝の散歩は老いた男にとって一日の始まりを告げる欠かせない儀式であり、それはたとえ雨が降っていても毎日のように続けられた。しかし、犬が先に天寿を全うして次の犬に替わっても何十年と続いてきた変わらぬ日常は、その日驚くべき変貌を男に見せた。六合橋の近くまで来たとき、不意に愛犬が立ち止まり橋の下に向かって吠え始めた。


「なんだありゃあ。随分でけえゴミだな。あんなもんなんて、役場に知らせてやんねえと……」


 男は犬が向いている方を見て独り呟いていたが、それの正体に気付くと目を見張った。


 あの青ざめた白。


 気持ちの悪いくらい滑らかに濡れて光っている表面。


 あれは人間の背中ではないか――?


 気付くと愛犬の引き綱を持つ手が震えていた。とにかく警察に知らせなければ。頭ではわかっているが身体が言うことをきかない。見たくない、と思えば思うほど、男の視線はそれに吸い寄せられ、まるで外すことができなかった。


 愛犬が足元に寄ってきて濡れた身体を擦り付ける。その刺激でようやく我に返った。


「シロ、おめええらいもんをみっけたもんだな。行きや。家に戻って警察に電話せにゃ」


 男は家に大急ぎで戻ると、三度押し間違えた末にようやく一一〇番に通報した。オペレーターに問われるがままに説明をしていた男は、その最中にふと自分が見た光景の重大さに気がついた。


 そういえば、あの死体は裸だった。


 だがなぜだ?謝って川に落ちたにせよ、自殺にせよ、服を脱ぐわけがない。


 そうなるとまさか――。


 男はそこで考えるのをやめた。あとは警察が考えてくれる。この平和な田舎でそんな恐ろしいことがあってたまるか。


 男は電話に向かって、死体を発見した場所を詳しく説明しはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る