同穴
三津衿
同穴
わぁとふみがまるで大層なものをみたように声を上げた。
「綺麗だねぇ」
「大袈裟。たかだか花束じゃない」
しかも暦が持ってきた花束はこの病院近くの花屋で適当に投げ売られていたものだ。可愛らしくまとまっているが、そんな声をあげるようなものではない。
それをいつも通り花瓶に移す。一応見栄えがするように整えるが暦はこういったセンスが自分にないことを知っている。いっそ花束のままで置いておいた方がまだましなのではとすら思うが、ふみは「こよが飾ってくれるのがいいんだよ」と口を尖らすので毎回こうして律儀に花束を買って花瓶に移している。
「たかだか花束でも私じゃ買いにいけないし、ここからじゃ花も何も見えないし。私にとっては大袈裟でもなんでもないの」
「そういうもの?」
「そういうもの。せめて真下の花壇にお花植えてくれたらいいのにね」
果たして自分が同じようになったとしてこんなに花束で喜ぶことができるだろうか。所詮感性の違いで立場の違いにすぎなくともこうやってにこにこと不恰好な花瓶を見つめることができるのはやはり素晴らして尊いことだろう。
「体調は?」
「悪くないよ。相変わらずって感じ」
「そう」
「そっちはどう?大学でうまくやれてる?」
「やれてるわよ。毎週言ってるじゃない」
「そうだけど……でもやっぱり不安だよ」
「保護者のつもり?自分の方が年下なのに?」
「心配に年齢は関係ないよ。だってこんなに優しいのに不器用でしょ、こよは。高校の頃だって」
「はいはい。少なくともテストの範囲尋ねても笑顔で返してもらえるぐらいには馴染んでるわよ」
「……それはそれで寂しいかも」
ふみがシーツに投げた手をもぞもぞとさせる。人差し指と何か言いたいことがある時の癖だ。花瓶を置いてベッドに腰かける。そのまま白い手を軽く握った。紙のような、という表現がよく似合う白くて薄い手。
「別に大学になじめたってどこにもいったりしないわよ。ふみはここにしかいないじゃない」
「そうだけど、でもわたしよりいい子なんてたくさんいるもん。こよだって」
「それでも」
握った手から伝わればいいのにと思う。自分がどれほどふみのことが大切か。自分にはどれほどふみが必要か。言葉を尽くしても伝わらないことのほうが世の中には多すぎる。
それでも言葉にしなければ何も伝わらない。
「わたしにはふみしかいないよ」
ふみは暦の顔をじっと見る。まるで品定めをするかのような視線に居心地が悪くなる。そわそわとしてふみの手の甲をなぞった。
その手が不意に暖かくなる。ふみの左手が暦の手にかぶさっていた。
「ありがとう、こよ」
自分と違って傷一つない手は入院前からのものだった。大事に守られてきた手だ。その手が暦はふみの体の中でいっとう好きだった。これからも自分が守らなくてはならない。
「こよがわたしの恋人でよかった」
「うん」
「この前ドラマでやってたんだけど」
「うん」
「もしね、わたしが全部忘れてもきっとこよのことねきっと覚えてるよ。恋人だってわかるよ」
聖母のようにふみは微笑む。冗談でも過言でもなく、全てを許す笑みだった。
それでもこの病室に鏡がなくてよかったと暦は思う。いくら聖母でも神様でも井地野ふみでも許すことができない顔をきっと自分はしていた。
だからこそ暦は恋人ではない彼女の手を握り返すことも頷くこともしなかった。それだけが唯一の自分の良心だった。
病室を出れば見たくもない顔が廊下に備え付けられているベンチで足を組んでいた。
「相変わらずご苦労様」
「……何の用?」
「そんな怖い顔すんなよ。見舞いに来ただけだから」
「そっちこそご苦労様じゃない」
「俺はいいの。顔だけ見に来てんだから」
見るからに不機嫌な暦に男、阿古はヘラヘラと笑う。それが無性に腹立たしく見えて危うく鞄を顔面に投げつけそうになったが、ここが病院の廊下だということが暦の手を止めた。
「ふみは元気?」
「お見舞いにきたんでしょ。自分で確かめれば」
「冷たいなぁ。そんなんじゃふみに嫌われるよ」
「……嫌われないわよ。嫌味のつもり?」
「まさか。俺はふみにも嫌われたくないけどあんたにも嫌われたくないんだよ。だってそうだろう」
よいしょとベンチから立ち上がり、阿古は病室のプレートを眺める。
508号室、井地野ふみ。もう二年ほど変わらないふみの病室。阿古も暦も何度訪れたかわからない病室。
「自分の義理の姉になるかもしれない人間と険悪になりたい人間なんてそういないだろ」
ね、井地野暦さん。
「もうすでに険悪な場合は?」
鞄どころか手が出そうになったのを堪えたのもやはりここが病院だったからだった。
自分のせいでふみの居場所がなくなるのは耐えられない。手の代わりに睨んだ目も気にせずに阿古は相変わらずプレートを眺めている。
「しかし本当嫌な女だよな、ふみも」
このまま帰ってもおあいこなのではないだろうか。しかし今帰れば次会った時にまた面倒なことになるのは火を見るよりも明らかだった。
「頭ぶつけて姉ちゃんしか人間として認識できないのにその姉ちゃんすらも恋人として間違って見てるんだから。自分の姉ちゃんと同じあだ名を彼氏につけるからそうなるんだよ」
「……前から思ってたんだけどどこからどうとってこよになるわけ」
「阿古世人だから苗字の最後と名前の最初でこよ」
「昔からそういうあだ名なの?」
「まさか。こんな変なクロスワードみたいな抜き方するのふみだけだよ」
なんでもないはずのその言葉に揺れる炎のような熱を感じたのは暦だからだろう。ふみが頭をぶつけて暦を恋人の「こよ」とだけ認識するようになって、他の人間が人間に見えなくなってもう二年経つ。もう見舞いなんてほとんどこない。不器用な暦と違っていつも人に囲まれていた妹でもこれだ。自分のことを認識しない人間の見舞いなんて会話も碌に成り立たないのだから当たり前だ。
だが、阿古は違った。影のような、幽霊のようなものとしか認識されておらずとも、姉に自分の立場を成り代わられようとも、毎週毎週欠かさずに見舞いにくる。自分のことを認識しない恋人を。認識されない以上、逢瀬とも何とも呼べない本当にただの「面会」をこの男は繰り返している。
理由もふみとのなり染めも恋人だった時どういう風だったのかも暦は聞いたことがない。ふみの携帯の写真や履歴からこの男と付き合っていたのは間違いない。その事実だけで十分だった。
きっと「どうして」を聞けば暦はもうふみの前で「恋人のこよ」を続けることはもうできない。
「さて、そろそろ行こうかな。金曜だから16時から診察だろ、ふみ」
「べつに私は引き留めてないわよ」
「そりゃそうだ。じゃあまたそのうち」
阿古はようやく病室の扉に手をかけて思わず暦は息を吐いた。
「ああ、それと。俺はふみのお姉さんが俺と同じタイプで良かったと思ってるよ」
扉が閉まる音とほぼ同時だった。振り返っても阿古の姿はもうない。
「何が険悪になりたくない、よ……」
最悪な男だ。どうしてふみはあんなのと付き合っていたのか。どうしてあんな男を「こよ」なんて自分と同じあだ名で呼んでいたのか。
それでも一生解けることのない謎と自分の存在だけを残していった自分の妹の井地野ふみも「恋人のこよ」と病室の中でしか生きられなくなったいまの井地野ふみも、やはりどうしたって愛していることには変わりないのだ。
井地野暦も、阿古世人も。
同穴 三津衿 @shi7a_
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