人が苦手な大学生と心が折れた社会人の話

@seizansou

本文

「どうも」

 ただいま、と言うには馴れ馴れしすぎる。お邪魔します、と言うには他人行儀だ。だから私はそう言って、従姉妹と同居するマンションの一室に帰ってきた。

 いつも通り従姉妹はいない。社会人二年目の彼女は、いつも日付が変わる頃に帰ってくる。

 大学から帰ってきた私は、バッグをテーブルに置いて、シンクに向かう。洗っておいたコップを手に取り、水道水で満たして喉に流し込む。

 しまった、水を入れすぎた。

 半分ほど一気に飲んだ後、一旦口を離す。もったいないので意を決して無理やり流し込む。

 一つ息を吐いて、バッグを手に取り自室に向かう。

 そのまま流れ作業でバイトの支度にかかる。洗濯しておいたバイト先のコンビニチェーンのユニフォームをまとめ、インナーを動きやすいものに着替え、あまり気の進まない化粧道具を手に取る。

 大学進学と同時に従姉妹と同居を始めて生活は大きく改善したが、この化粧というのはそんな生活の中でも数少ない不満の一つだ。私には友達はいない、彼氏もいない。というか作る気がない。だからいちいち人目を気にして化粧なんてする必要はなかった。だけれど従姉妹はしつこく私に化粧するように言ってきた。お洒落は経験だとか、人との繋がりは財産だとか、磨けば光るだとか。私自身、どの理由に納得したのかはっきりとしないけれど、渋々化粧をするようになった。

 化粧を済ませた私は、憂鬱な気分で家を出る。

 ああ、あの従姉妹ぐらい上手に人付き合いができたなら、もっと楽に生きられただろうに。


 鬱々とした気持ちでコンビニのバイトをこなして帰路につく。帰り道のスーパーで食材を買う。コンビニの商品は高すぎる。贅沢をしないで生きられるならそれに越したことはない。こういう自分の貧乏性は嫌いではない。

 部屋の前につき、少し心を強くして玄関を開ける。

「どうも」

 無言で玄関をくぐるのには抵抗がある。とはいえ何と言って入れば良いのか自分の中でまだ決着していない。その結果、毎回なんとも煮え切らない言い方になってしまう。

 買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込み、シャワーを浴びて、髪を乾かしながら一息つく。今は大体二十一時ぐらいだからまだ夕飯を作るのは早いだろう。今作ってしまったら、帰って来た従姉妹が食べる頃には冷えてしまう。

 ぼんやりと壁を眺める。スマホを弄ろうにも、SNSなどやっていないし、ニュースなんかにも興味はない。きっと私は、大学を卒業して、変化の少なそうな会社に就職して、適当に搾取されながら生きて、そして死ぬ。私の人生はそのくらいが関の山だと思っている。

 そんなどうでも良いことを考えていたら、夕飯を作るのに良い時間になっていた。とっくに乾いていた髪をまとめてキッチンに向かう。

 今日も鍋でいいか。適当に冷蔵庫から食材を取り出して、二人用の土鍋を取り出す。ご飯は一昨日冷凍した奴があるから、作るのは鍋だけで良い。

 ぐつぐつ煮込んでいると、玄関の鍵を開ける音の後に、夜中とは思えないコロコロとした明るい声が響いた。

「ただいまー! おー! 良い匂い! 今日はお鍋かな!?」

「うん、今日も鍋」

 未だに、おかえりとは言えなかった。なんとなく、私にはそう返事をする権利が無いような気がしてどうにも口にできない。

「いつもありがとう、リンちゃん」

「うん」

 鈴の音のような聞き心地の良い声で私に話しかけながら、従姉妹は笑顔を作っている。だがどうしても、化粧の奥にうっすら浮かぶ目の下のクマに目が行ってしまう。

「サナさんは、まだ休みが取れないの?」

 私の言葉に、従姉妹、サナさんが一瞬動きを止めた。すぐに明るい表情を作って私に向き直る。

「そうだねー。二年目なのにおっきなプロジェクト任せてもらえたからね。認めてくれた人達にも恩があるし。うん、まだ全然いけるよ!」

 小柄で華奢なサナさんが力こぶを作るポーズをとって私に笑ってみせる。私はあんまり可愛いものとかには興味が無いのだけれど、そんな私でもサナさんのそういう仕草は可愛いと感じる。きっとサナさんは色んな人から愛されて生きてきたんだろうな、と少し羨む。そしてすぐに、サナさんの両親、私にとっての叔父と叔母の性根の悪さを思い出し、羨んだ自分に嫌悪感を抱く。きっとこの可愛らしさも、サナさんなりの生き残り方だったんだろう。

「無理しないでね」

「もー、そんな難しい顔しなくても大丈夫だって! 私はこれまでちゃんとやってこられたんだから。これからも大丈夫だよ」

「そっか」

 サナさんは私よりもずっと要領が良い。だから私なんかが心配しなくても大丈夫なんだろう。

 彼女はすごく有名な大学を出ていて、今勤めている会社のお給料もすごく高い。サナさんは将来のため、と言って貧乏性の私にお金の管理を任せてくれているけれど、一体何のためにこんなにお金を貯めるんだろうかといつも不思議に思っている。まあ、あるに越したことはない。

 軽くシャワーを浴びて部屋着に着替えたサナさんがキッチンに姿を現す前に、おおよそ鍋が出来上がった。湯気を立てる鍋と、解凍したご飯を見て「ありがとー」と声をかけてくれる。私だったら手伝えていなかったことをつい謝ってしまっていただろう。謝られるよりも、感謝される方が良い。それはサナさんと暮らし始めて知ったことだ。きっと私の両親も、私からの謝罪を聞いて、それで余計に不機嫌になっていたんだろうな、と今更ながらに思う。

 解凍したご飯をサナさん用のご飯茶碗、私のご飯茶碗それぞれよそって、いつもの席にお箸と一緒に並べる。テーブルの真ん中に鍋を置く。私とサナさんが席に着く。

「へへー。ありがと。リンちゃんが作るご飯、美味しいから大好き」

「鍋なんて、誰が作っても一緒だよ」

「リンちゃんと一緒に食べられるから、っていうのもあるかもね」

「そうなのかな」

「私はリンちゃんのこと好きだからね。リンちゃんは私のこと嫌いだったりする?」

「いや、そんなことはないけど」

 なんとも答えづらい。

「というか、あんまり簡単に人に対して好きって言うの、ちょっと無防備で危ないんじゃないの」

「そうかな? 自分の気持ちは伝えられるうちに伝えておきたいじゃない」

 まるで死期を悟った人みたいなことを言う。

「美味しいねー」

 本当に美味しそうな顔をして、満足そうにちびちびと口に運ぶ。

 可愛らしい。

 可愛らしいんだけれど、それが逆に不安になる。私が育った環境のせいなんだろうか。こんな幸せそうな食事の風景に、どうにも現実感が湧かない。どこか作り物めいたものを感じてしまう。

「ふー、お腹いっぱい」

「また?」

「うん」

 サナさんが少し困ったように笑う。

「じゃあ、後は私がもらうよ」

「ごめんね」

「いいよ、別に」

 サナさんのご飯茶碗にはまだ白米が残っている。鍋もまだ半分も減っていない。

 ここでも自分の貧乏性が発揮されて、何とか全部食べる。私が食べ終わるまでサナさんは席を立たず、話しかけてくる。主に私の大学生活の話だ。とは言っても私は大学で講義を受けて帰ってくるだけなので、大して話すことはない。それでもサナさんは自身の大学生時代の思い出話や雑学を交えて話を広げてくれる。本当にサナさんは人付き合いが上手だなあといつも思う。基本的に人付き合いなんてするつもりもないから話術なんてどうでも良いけど、こういうサナさんとの会話はもうちょっとちゃんとできたらいいな、と思いはする。思うだけならいくらでもできるから。

 それはそうと、最近少し太ってきた気がする。見た目はどうでもいいんだけれど、苦しんで死ぬのは避けたい。だからできるだけ健康でありたい。

 明日の食事は少し抑えよう。

 ごちそうさま、と言いながらそう思った。


 朝はサナさんより先に起きる。体質的にショートスリーパーなのか、特に苦労もなく起きられる。そして自分とサナさんの分の朝食を作る。朝食と言っても大したものじゃない。食パンを焼いてスクランブルエッグを挟んだごく簡単なサンドイッチだ。

 しばらく待つが、サナさんがいつもの時間になっても起きてこない。とりあえず自室に向かって、今日の講義で使う物をバッグに詰める。詰めていると、講義資料が目に入った。そういえば前回の講義で分かっていなかったところがあったことを思い出す。講義資料を手に取って、前回躓いたところの少し前から読み返す。

 うんうんとしばらく唸ってみる……わからない。仕方ない、朝食の時にサナさんにちょっと聞いてみよう。

 そこで気付いた。

 サナさんはまだ寝てるのか? 流石に起きるのが遅すぎないだろうか?

 私は慌ててサナさんの部屋に行き、一応ノックをする。弱々しく「はい」という声が聞こえた。どこか違和感がある。

「ごめん、入るよ」

 ドアを開けると、サナさんは床に横たわっていた。

「大丈夫?」

 近付いてみる。息が荒れている様子はない。額に手を当ててみるが熱もない。

「どうしたの?」

「なんか……力が、入らない」

 弱々しい返事が聞こえた。

「会社に連絡する? 休むって」

「駄目。外せない会議があるから」

「でもそんな状態じゃ……」

「ちょっと手、握って欲しいかも」

 なんでだろう。何か関係あるんだろうか。とりあえず言われたとおりにサナさんの手を握る。女の私からしても華奢で小さい。というかなんか骨張っているような気もする。やっぱり最近食べる量を減らしすぎていたんだと思う。

「よくわからないけれど、朝ご飯食べる? そしたら少しは動けるようになるかも」

「うん」

 返事はあるが動く様子がない。

 とりあえず、弱々しく握られる手を握り返し続ける。

 しばらくしてゆっくりとサナさんが立ち上がろうとする。なんとなく片手を繋いだままだったので、両手でサナさんの片腕をゆっくりと引っ張る。立ち上がり、サナさんは息を吐いた。

「ありがとね」

 サナさんは笑顔を作った。本当に〈作った〉ように見えてしまった。

 ゆっくりと歩き出し、そのままキッチンに向かう。なんとなくその後ろを付いて行く。トイレには行かないのだろうか? 顔は洗わないのだろうか? 歯磨きはしないのだろうか?

 そのままサナさんは朝食が並べられたテーブルの椅子に座る。じっとサンドイッチを見つめている。

「食べられそう?」

「あ、うん。うん、大丈夫だよ」

 そう言ってまた、笑顔を〈作った〉。

 サンドイッチを手に取る。

 涙を流す。

「うえ?」

 困惑の声を漏らす。

「あれ? えぇ? え? なんで?」

 次第に鼻声になっていく。

「うえ、うええ、うあああ」

 口から出る言葉は意味をなしていなかった。

 サナさんはそのままサンドイッチを落として、泣き崩れた。

 背中を丸めて、とても惨めに泣いていた。

 華奢で可愛らしくも、どこか芯のあったサナさんの今までの姿からはかけ離れていた。

 幼い子供がするように、ただただ泣きじゃくっていた。

 何か強い感情があるようには見えなかった。

 サナさん自身も何で自分が泣いてるのか訳が分からないといった様子だった。

 サナさんの身体の中の細い水道管が破裂して、そこから水があふれているみたいだった。

 可哀想だなあと思った。

 そこでふと気付く。

 そうか、この場は私が何とかしなくちゃいけないんだ。

「あ、えっと」

 何をすれば良いんだろう。泣き止ませる? なんで? 泣くのは悪いことなのか? 何か問題があって泣いているのでは? その問題ってなんだろう。っていうか私がサナさんの問題に首を突っ込んでもいいのだろうか? 待て、落ち着こう。整理しよう。何が問題で、どうすれば解決するのか。問題はサナさんが可哀想なことだ。だとすると、今の状態から脱してもらうことが解決の方向性になるはずだ。いくら幼く見えるとは言え、成人女性がこんなに泣きじゃくってしまっているのは、私に見られることも可哀想だし、後で思い返したときも辛い気持ちになるだろう。だから私はサナさんを泣き止ませて、落ち着かせることを目的に動けば良い。では具体的にどうすれば良いのだろうか? そうだ、さっき手を握ったら横たわっていた状態から立ち上がれていた。手を握ることがなにかしら効果があるのかもしれない。

 私はテーブルの上で弱々しく握りしめられたサナさんの手に、恐る恐る片手で触れてみた。

 触れた瞬間、サナさんがびくっと反応して泣き声が上ずった。泣くのを止めずに私の手を両手で握り返してくる。相変わらず弱々しい力だったが、どこか必死さが感じられる握り方だった。

 じろじろと顔を見るのも悪い気がしたので、テーブルに座って泣きじゃくるサナさんの横に手を握ったまま膝立ちになって、じっと床を見つめ続けた。

 サナさんが泣き続ける間、ずっとそうしていた。


「ごめんね。ありがとう」

 泣き止んだ後の静寂に、か細い声が響いた。

 ずっと床に下ろしていた視線を上げて、サナさんの顔を見る。表情らしきものは見当たらなかった。そこには、ただサナさんの目と鼻と口があるだけだった。

 私は恐ろしくなった。今私が手を握っているのは誰だろう。

 思わず手を引っ込めてしまう。目の前の女性はあまりそれには反応しない。

「ごめんね、テーブル汚れちゃった」

 先ほど取り落として、テーブルに散らばったサンドイッチを集め始める。散らばってしまったスクランブルエッグを手ですくい、パンに挟んでいく。一つ一つ、テーブルに転がる黄色い粒をパンに挟む。

 サナさんの部屋から着信音が聞こえた。すぐには鳴り止まない。電話だろうか。

 目の前の女性が転びそうになりながら椅子から立ち上がり、サナさんの部屋に向かう。ふらふらとした足取りで、壁にぶつかってバランスを崩したりしていた。

 着信音が鳴り止む。

「はい、もしもし! あ、おはようございます!」

 明るいサナさんの声が聞こえた。

「あ、はい、そうですね! あ、すみません! ええ、八時からの打合せ資料はもうすぐチームに展開しますので、ええ、はい! え? 鼻声ですか? なんでしょう、風邪でも引いたんでしょうかね?」

 サナさんの部屋に向かった。そこには、ハキハキと明るく電話に対応しながら、顔に笑顔を貼り付け、大粒の涙をこぼし続ける女性がいた。

 いや、いるのはサナさんだ。

 身体が勝手に動き出す。

 サナさんが耳に当てているスマホを奪い取る。

「すみません、同居している者です。彼女は今高熱を出して意識がはっきりしていませんので、休ませます」

 なにか驚くような男性の声が聞こえたが、そのまま通話を切る。電源ボタンを長押ししてスマホの電源を落とし、手近な台に置く。

「駄目、私、行かなくちゃ。仕事が、仕事が終わらない」

「休もう」

「無理、だって皆頑張ってるのに。私だけ休むなんて、無理」

「サナさんが、まるでサナさんじゃない人のように見えた。絶対おかしい。休んで」

 私はサナさんの肩を押さえてベッドに横たわらせた。抵抗したがっている様子だったけれど、少しも力を感じなかった。

 サナさんは力なくベッドに横たわると、また涙を流し始めた。さっきのような大粒の涙ではなく、一つ、二つとすじを引いていた。

 何をどうすれば良いか分からなかったけれど、とりあえずサナさんの手を握った。

 今日は大学に行くのは止めよう。もし講義を受けるとしてもリモートの講義を受けよう。

 手を握って心配する素振りをしながら、自分の受ける講義のことを考えている自分が、ひどく偽善的な人間であるような気がした。


 涙を枯らしたサナさんに声をかける。

「しばらくいなくなるけれど、ちゃんと休んでね」

 握っていた手を離すと、サナさんは視線をゆっくりと天井から私の顔に移動させた。

 私はサナさんに目線を合わせて、ゆっくりとうなずいた。サナさんは特に反応しなかったが、きっと安静にしていてくれるだろう。

 サナさんの部屋を出て自室に戻り、ノートパソコンを開いて起動する。時間を確認すると、少し経ったら教養科目の『こころの科学』という講義がリモートで受講できそうだった。この講義の単位は元々取るつもりではなかったが、今のサナさんの状態についてなにかヒントがあるかもしれない。

 時間になり、オンライン講義に参加する。前回やったらしい内容の復習から。まったく分からない。まあ当然だが。

 とりあえず講義を聴いていると、気になる内容があった。オキシトシン。専門用語が多く、詳しい内容まではあまり理解出来なかったが、主にスキンシップによって分泌されるホルモンで、不安や恐怖心を軽減したり、幸せな気分になるらしい。

 これだ、と思った。

 今朝からサナさんの様子がおかしくなる度に、手を握ることによって落ち着く様子があった。たぶん、手を握るというスキンシップでこのホルモンが分泌されて状態が緩和したのだろう。

 講義が終わると、私はノートパソコンを閉じて、長く息を吐いた。事前知識が一切無い講義を集中して聴くのは骨が折れる。

「スキンシップか……」

 気が付くと俯いていた。いや、サナさんのためだ。必要ならやるべきだ。

 私は意を決してサナさんの部屋に向かう。部屋に入ると、ベッドの上で頭まで布団を被っているサナさんがいた。

「サナさん」

 返事は無い。そのまま続ける。

「さっき講義で聴いたんだけど、スキンシップを取ると、不安が無くなったり幸せな気持ちになったりする物質が頭の中に出るらしいんだ。朝とかも手を握ってたら動けた様子だったし。だから今日は、とりあえずサナさんとスキンシップをしようと思う」

 ゆっくりと布団がめくられ、胎児のように体を丸めたサナさんの姿があらわになった。

「スキン……シップ……?」

「そう、えっと、と、とりあえず、手を握ってみるとか」

 そう言って私が差し出した手を、緩慢な動きでサナさんが握る。ずっと布団にくるまっていたはずなのに、サナさんの手はひんやりと冷たかった。

 サナさんはもう一方の手を重ねる。握り合った手を自分の頬に当て、目を閉じた。

 この様子だと、やはり少しは効果があったんだろうか。

 そう思っていると、サナさんが言葉を発した。

「リンちゃん、抱きついてもいい?」

「へぁ。あ、その……う、うん。多分、大丈夫……だと思う」

 私の体から血の気が引く。

 サナさんは握っていた手を離して、ゆっくりと起き上がり、ベッドから降りる。

 私の心臓は早鐘を打ち、唇が冷たくなる。

 ベッド横に腰をおろしていた私の前に、サナさんも腰をおろし、両手を広げてゆっくりと抱擁しようとしてくる。

 平衡感覚が狂い始める。世界がぐるぐると回る。呼吸が浅くなり、猛烈な吐き気がこみ上げてくる。

 サナさんが私のからだに両手を回す。

 大人の力で押さえ付けられる記憶がフラッシュバックする。

「いやあああああ!」

 自分の発した声で喉が痛かった。

 ガタンという音がする。

 見ると、サナさんはベッドフレームに背中を打ち付けたようだった。

 一体何が、という疑問が頭に浮かぶのと同時に、自分の手が視界に入ってその理由を理解する。

 私がサナさんを突き飛ばしてしまったのだ。

 昔の記憶で、思わず。

「ごめんなさい! そんなつもりじゃ!」

「だ、大丈夫。私の方こそごめん。そういえばリンちゃん、そうだったよね」

 サナさんの顔には、昨日までよく見ていたサナさんの笑顔、その出来損ないが張り付いていた。

「ごめんね、無神経なお姉ちゃんでごめんね」

 サナさんは手で目を隠していた。私に涙を見せないために咄嗟に取った行動なんだろう。死にたい。消えてしまいたい。かなうなら自分を殺してやりたい。

 いや、そんなどうでも良い自己嫌悪なんて置いておかなければ。それよりもサナさんに大丈夫だと伝えないと。

「リンちゃん、私は大丈夫だから。うん、だからその、なんだろう、そう、一人でも大丈夫だから。ね」

 出て行け、ということなのだろう。こんな時まで、私を傷付けない言葉を選んでくれている。それなのに私は。

「ごめん。じゃあ、何かあったら言ってね。すぐ来るから」

 私は、サナさんの部屋を去ることしかできなかった。


 日が暮れて、夜になり。その間、私は自分の心の整理を付けていた。

 もう寝る時間だ。

 私はサナさんの部屋をノックする。

 弱々しい返事が聞こえたので、私は部屋に足を踏み入れる。

「どうしたの?」

「一緒に寝よう」

 サナさん掛け布団から頭を出して、ぼんやりと私を見ている。

 私は、私なりの決意を持った目でサナさんを見つめる。

「大丈夫?」

「大丈夫」

 きっと、それがサナさんの気持ちを安定させられることなんだ。

 私は歩みを進めると、サナさんのベッドに横になる。

 完全に挙動不審だったという自覚はある。ベッドに横になったはいいものの、どうすればいいか分からず、ピンと姿勢を伸ばした状態で横になっている。こんな有様で本当にサナさんを安心させることができるんだろうか。

「ありがとう」

 小さな笑い声が聞こえた気がした。

「でも、あんまり泣き顔は見られたくないから、背中を向けてくれると嬉しいかも」

「うん」

 私は言われるがままに、サナさんに背中を向ける形で横になる。

「こんな感じ?」

「うん。ありがとう」

 背中の方でもぞもぞと音がする。サナさんも自分の寝る位置に移動したようだ。

 私の肩に手が当てられる。

「これ、大丈夫?」

「大丈夫」

 そう言って私は当てられた手に、自分の手を添える。

 その夜は、時折聞こえるサナさんのすすり泣きを背中に受けながら、自分が役に立てたら良いな、などと考えながら過ごした。


 遮光カーテンの隙間から朝日が差し込んできた。外も少しざわついたような気配を感じる。朝になったようだ。結局、サナさんが寝付く様子は無かった。

 サナさんとはつかず離れずといった隙間を空けていた。私に気を遣ってくれていたんだろう。こんな状態でも変わらない優しさを保てていることに感服した。

「リンちゃん」

 ずっと口を閉じていたせいか、少しガラガラとした声色でサナさんが呼びかけてくる。

「うん?」

「私、会社辞めるよ」

「……どうして?」

「身体が動かせない。動けって思わなくちゃいけないのに、そう思うことすらできない。私、たぶん壊れちゃった。頑張って人間やってきたつもりだったけど、やっぱり私なんかに人間の振りはできなかったみたい。私なんかが会社で働くのは、やっぱり無理だった。だから、私、会社辞めるよ。それで、ごめん、もう二人で暮らすのはできないと思う。会社辞めたら、引っ越して、離れて暮らそう。こんな壊れた私の面倒を、リンちゃんにみせるわけにはいかない」

 ぽつぽつと、絞り出すように言葉が紡がれていた。口を挟むタイミングはいくらでもあった。そんなことない、そう言って遮ろうと何度も思った。でも、なんとなく、サナさんの言葉を最後まで聞きたかった。

「そっか」

 いきなり何か言いつのることに抵抗があった。だから特に意味の無い相槌の言葉が口から出た。

「私だってそうだよ」

 頭の中はまだまとまっていない。なのに口から言葉があふれた。

「私が高校卒業してすぐに、このサナさんの借りてるマンションに逃げてきて。それからずっとサナさんには面倒かけっぱなし。甘えっぱなし。それなのに、サナさんがこんなになるまで気付いてあげることができなかった。私も出来損ないの人間だよ。大切な人が追い詰められていたのに、何も出来てなかった。お金のことなら大丈夫、私がバイトを増やすし、サナさんが会社を辞めるなら、きっとそれを補助するお金ももらえるだろうし、それに私は、貧乏性だから。私がいれば、お金の節約には困らないはずだよ。だから、その」

 急に喉が締め付けられたように、言葉が出なくなる。本当に言いたいことを言葉にしようとするのは、こんなに辛いものなのか。

 私はもベッドの上でもぞもぞと姿勢を変えて、サナさんと向かい合わせになる。憔悴しきったサナさんの顔をじっと見据える。

「まだ、一緒にいようよ。まだ大丈夫。違うかな、大丈夫とかじゃなくて、二人だからこそ、きっと超えられる、ような、気がする、多分」

 言葉が尻すぼみになってしまった。なんとも格好がつかない。

 せめて、少しぐらいは格好を付けたい。

 私はサナさんに向かって両手を伸ばす。

 寝っ転がっているのでひどく不格好だ。

「リンちゃん、無理しないで」

 サナさんが気を遣ってくれる。まったくもって優しい人だ。

 サナさんを両手で抱きかかえようとする。

 唇から血の気が引く。

 脳が焼き切れそうだ。

 手が震える。

 だからこそだ。

 私の決意を見せたかった。

「へへっ」

 強がりなのか、恐怖で口から息が漏れたのか、私の口から不格好な声が漏れた。

 それでも私は手を伸ばす。

 これが、私が今出来る、私の気持ちを伝えるための行動だから。

 私はサナさんに抱きついた。

 腕がけいれんして指がはねる。

 心臓が壊れそうだ。

 サナさんの肩に顔を移す。

 きっと今の私はとてもサナさんに見せられるような顔をしていないから。

「ごめんね。……ありがとう」

 やっぱりサナさんは、感謝の言葉を口にする。

 きっとそれは、生き残る技術とかじゃなくて、サナさんそのものなんだと思う。

 根拠は無いけれど、そんな気がした。


 ――そして私は、今日も彼女を抱いて眠る。

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