第38話 ニャザトースの聖女

 神はあらゆる知識を有していた。

 とはいえ常にそのすべてを意識しているわけではなく、そのつど必要に応じ浮かび上がってくる受動的なものであり――。


 すべてのきっかけは、迷い人の語った『スローライフ』だった。

 この話により、かつてただの猫であった自らは、どうもスローライフと呼ばれる日々を過ごしていたのだと神は認識することになる。


 が、しかしだ。

 この迷い人、どういうわけかその口で語った内容からはかけ離れた生活を送り始め、それを眺めていた神は『どうやら自らのスローライフに対する知識は間違っていたようだ』と一度スローライフに対する興味をなくすことになった。


 ところがしばしのち、神は新たなる迷い人の口からもスローライフについて聞くことになる。

 内容は一人目と同じようなもの。

 ただ一人目と違い、二人目は確かに語ったとおりのスローライフを実現しようとした。

 問題だったのは、二人目の目的が世にスローライフを広めることであり、与えた恩恵の働きが助けとなってその生活様式はより外へ外へ、恣意的に広がる侵略的なものになったことだ。


 神は思った。

 違う、そうではない、と。

 かつて自分が過ごしていた穏やかな生活は――。


 そして神は追想に囚われる。

 意図的に避けていた想い出は、長すぎる孤独ゆえに甘美、溺れ浸るまで神の意識を離さない。

 こうして神は眠りながら眠り、想い出の甘さを阻害するものを排する。

 排されたものは『悪夢』として神域にのさばり、そんな『悪夢』の中にあって、もっとも誇り高きものは『花』であった。


 それは神がただの猫から神へ至るきっかけとなった花、その記憶。

 その成り立ちがゆえ、『花』は神と不可分な存在でもある。

 神の悲しみ、恨みつらみ、絶望、それらを一身に引き受けるために生まれた、いわば神の分身、神の影。

 ただ排された『悪夢』とは一線を画すもの。


 ゆえに『花』は明確な自我を有していた。

 自身の『神に疎まれるもの』という役割を受け入れていた。



    △◆▽



 神域を訪れた人々の前に姿を現した『花』は、ただちに己の己たるを示した。


 孤独を。

 孤独を与える。

 孤独を。


 神勅にも等しい権能の発露。

 それは時間と空間から逸脱した灰色の領域。

 

 抗えるものなどなかった。

 誰もがただ一人、『花』とあるだけになった。

 たとえ神力の一端を宿した者とて、その合一化を解かれ人と猫に分かたれた。


 孤独を――ただ孤独を。


 開かせぬ、門など。

 届かせはせぬ、言葉など。


 こうして孤立させられた者たちだが、その多くが祈りを捧げることで『花』を鎮めようと試みた。


 ああしかし、その祈りは真摯であれど『花』への憐憫が含まれる。


 侮辱であった。

 その役割は『花』にとって掛け替えのないものであり、哀れまれるいわれなどないのだ。

 たとえ――たとえそれが創造主に疎まれることだとしても。


 結局、『花』は救われることを望んではいなかったのだ。

 無理だから。

 無理なのだから。


 それは一種の罠であろう。

 知らねば識られることはなく、識れば哀れまずにはいられない。

 また哀れまぬものに『花』を受け入れる寛容さなどない。


 ただそのままに己を受け入れるものなどいないと、創造主をもって証明されたそれをいったい誰が覆せるものか……!


 ゆえに『花』は理解している。

 受け入れるものなどいない。

 いるはずが――


「うおおおぉ! やったぁー! 鎧との繋がりがなくなりましたぁぁぁ! これ、お花さんがやってくれたんですか!?」


 いた。

 疎まれし存在を心の底から喜ぶ者が、今、ここに。



    △◆▽



「はて……?」


 この騒動もようやく終わり。

 帰ったら妖精たちや、お留守番をしている子供たちと一緒にお菓子を食べよう。

 そんなことをシセリアが考えていたところ、空から『一輪の花』が降ってきた。

 そして気づけばシセリアは灰色の空間に一人きり。

 あとはただ、そこに『花』が浮かんでいるだけだ。


「ふーむ……むむ!?」


 普通であれば察する状況。

 なにしろ『ニャザトースの聖女』の足元に添えられた花についての話を聞いたのはつい先日のことであるのだから。

 が、しかし――


「お、おおっ!? 変身が勝手に解けている……? それに、あの鎧の気配を感じない……!」


 シセリアがまず意識を向けたのは、自身の変身状態が解除されていたことであり、そして忌々しい鎧との繋がりが断たれていたことであった。


「うおおおぉ! やったぁー! 鎧との繋がりがなくなりましたぁぁぁ! これ、お花さんがやってくれたんですか!?」


 状況からの的確な判断。

 そういう自分に都合のいい事実はちゃんと察することができるのがシセリアという少女であり、素直に感謝を示すのもまた同じである。


「お花さんがやってくれたんですよね! ありがとうございます! ホントありがとうございます! 私たちはなんか『悪夢』? ってのを退治しに来たんですけど、きっとお花さんもそうなんですよね? でもお花さんは無害そうなんで、退治しないようにってお願いしてみます! あ、なんなら私と一緒に来ませんか? 頭につけてこれは飾りですって言い張ればなんとかなると思うんです!」


 とうてい実現などせぬ話。

 いざ『花』が汎界に出現したとなれば、その被害は静かで甚大なものとなるが、そんなことをシセリアが知るわけもない。

 なぜ、寿命の長い竜が『悪夢』対策の筆頭にあげられたのか、年齢の半分を若返っても容姿が変わらぬ老婆がいるのか、その理由を知るよしもない。


 場合によっては汎界に災厄を引き起こす提案をするシセリアだが、その内にあるのは『花』への深い親愛であり感謝であった。


『……』


 と、その時、浮かんでいた『花』が力なく落下する。


「おや!? お花さん!? どうしたんですか!」


 この心配もまた心から。

 シセリアにはわからない。

 無条件で己を受け入れてくれる存在に、『花』は喜びをもって散ったのだということを。

 そして最後に、一つ願いを託したことを。


「んん?」


 落下した花の周りが白く染まる。

 その白さの中に現れたもの、それは眠る白猫であった。

 うにゃうにゃ、と唸りながら、ぴくぴくと痙攣する白猫――。


「パレラちゃん……? どうしてこんなところに……?」


 盛大な勘違いであった。

 ここは神域、現れた花、そして白猫。

 普通ならば気づくものを、シセリアの認識は『自分がそんな存在と邂逅するはずはない』と切り捨てた。

 常識的といえば常識的であり、ゆえに行動も常識的で――


「悪い夢でも見ているんですかね?」


 シセリアは白猫を抱えてあやそうとする。

 不用意な接近。

 眠り眠る白猫の、抑えられていない神威しんいの圧力。

 ただの人ごとき曝されようものならただではすまないが――


「よいしょっと」


 シセリアにはもはや人から逸脱するほどに育った『抗魔』があった。

 よって何事もなくシセリアは白猫を抱きかかえ、ここでようやっとこの猫がパレラではないことに気づく。

 気づくが、正体にまでは意識が向かず、そのままあやす。


「よしよし、よしよし」


 撫でることしばし。

 ふいに白猫の唸りがやみ、ぼんやりと瞼を開ける。

 覗くは輝くような金色の瞳だ。


『……ご主人? ……いや、雰囲気は似ているが……違う。だが……とても懐かしい……』


「おやおや?」


 白猫の呟きにシセリアは驚き目を見開く。

 気づくか――。


「喋る猫ちゃんなんですね!」


 気づかない!


 それは喋る猫を見過ぎたせいだ。

 なんなら少し前までその四体に囲まれてお菓子を食べていた。


 よってシセリアはそのまま白猫を普通の猫にするようにあやし続けた。

 問題は……なかった。

 なにしろ白猫が満足そうなのだ。


 普段なかなか猫たちをもふる機会が得られないシセリアは、これ幸いと白猫をもふり、あやし、それに集中するあまり、わずかな範囲であった白い空間が徐々に広がり、灰色の領域を塗りつぶしつつあることに気づかなかった。

 まだ、分断されていた者たちが周囲に現れたことにも。


『………………』


 場の様子が変わったことに気づいた者たちはまず辺りを見回し、そして『それ』に気づいた者から動きを止めた。


 ただ唖然と。

 自身が目にしているもの、それを咀嚼するのに時間を要した。


 白猫と、それを抱きかかえる少女と、その足元の花と。

 あまりにも象徴的な光景であった。


 誰もがそうと望みながらも不可能と思われた奇跡。

 せめてもと、像を造り託した願いの形。

 白猫を抱く者は違えど、今そこに実現されているその衝撃は信徒たちにとっていかほどか。


 もはや言葉にはできない。

 思考にもならない。


 反応を表すことは困難であった。

 目にしているものがあまりにも尊く、神聖で、もたらされる甘美な痺れはいたずらな情動を許さない。

 やがては立ちすくむ力すら失い、自然と跪く。


 奇跡を前に、人はこのようなもの。

 やがて遅れ、溢れ出たのは涙。

 とめどなく。


 ああ――と、ようやくこぼれるうめき。

 ただ感謝。

 感謝できることに感謝しつつの感謝であった。


 また熱心な信徒でない者も、その光景の前には膝をついた。

 そのまま立ちすくむのは一人の迷い人と、彼に与えられた力の化身たる一体の大きな猫だけだ。


 ここでシセリアは周りの者たちの存在に気づき、少し驚いた顔をしたものの、結局は首を傾げながら白猫をもふり続けた。

 皆さんお疲れなんですね、としか思っていないのだ。


 そしてしばし後――。


『しばらくはよい夢を見られそうだ。ありがとう』


「どういたしまして!」


 御言葉みことばがあってのち、白い空間に変化が起きる。

 光が溢れ、すべてが眩しさの中に消えていく。

 そんな中でぽつりと――


「あいつ、昨日認定された聖騎士をもう過去にしてんじゃねえか……」


 これからシセリアがどのように扱われるようになるのか。

 およそ正しく推測した迷い人は、あきれたようにそう呟いた。

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