逃走中の彼

相沢 たける

逃走中の彼

 私は悲鳴を上げそうになった。


 貧乏に分類される私は筆箱を学校に忘れると言うだけでも大事件であり、あの二本の鉛筆(一本はちびていて、もう一本はまだ一回も削っていない状態)が入った筆箱がなければ宿題もできない。宿題は漢字の書き取り。なんでこんなに黒煙をすり減らす苦行を課すのだろう、と私は常々思っていた。漢字検定準一級を受けて合格した近所のお兄ちゃんは、小学生の頃にやった漢字練習はほとんど役に立たず、あれは頭を働かせずに腕だけを使っているからけっきょく漢字の形状は実は記憶できていないのだ、と主張する。そんなことをするくらいだったら、漢字の形をいったん記憶し、その形を頭に思い浮かべながら指で空に漢字を書いていく方がよっぽど効率がいい勉強だと言っていた。まったくその通りだと思う。私も漢字テストの前の日は出されるデアロウ漢字をヨーク見つめているだけだったし、それで満点が取れる。学校というのは嘘の勉強法を教えてるんじゃないだろうか。まったくそうだ。それとも私の記憶力が優れているだけなのだろうか。


 私はおそるおそる夜の階段をのぼっていく。二階、踊り場、三階。ぶるりと窓ガラスが震え、建物自体老朽化が進んでがたついているのか、突風が吹いたくらいで花瓶がカタカタ揺れた。こんな学校はあり得ない。中学校に期待しているわけじゃないけど、少なくともこの小学校から卒業できる日を望んでいる。こんな色んな意味でネジのおかしくなった学校にいてたまるか。四階に私の教室はある。


 体操服とか給食当番用の白衣のつまった袋の並ぶ廊下が伸びている。私は喉が渇いたので水道に寄って、水をガバガバ飲んだ。金属の味がする。思うのだがこの蛇口誰か洗ってんのかな。


 私は口を腕で拭いて(育ちが悪いとか言わんでくれ、こちとら出世するまでにあと一五年はかかるほどの若造なんでね。あと一五年したらとりあえず金持ちに色目使って荒稼ぎしてやる。こうして私はいずれ天下を取るかもしれない。大統領夫人? それはちょっと命を狙われる危険がありそうだから、そうだな、スーパーマーケットの代表取締役くらいの人間を婿にもらうとしよう。そうして私の近所の商店街を潰してもらう。楽しい人生設計、狂いはない)


 という誇大妄想をしていたら、私は思わず声を上げてしまった。私は廊下に血痕がポツポツ、と滴っているのを見た。私はしゃがんでそれを見た。血痕は六年三組、つまり私のクラスまで伸びている。そいつ――殺人鬼か――は前の扉から侵入したようだ。


 私はこめかみを掻いて、こりゃ困ったことになったぞ、と思いながらその血痕を追うことにした。


 しかしこれ、本当に血痕だろうか。私はもう一回しゃがんで、ちょっと指で拭き取ってみた。臭いを嗅ぐ。臭い? 私は眉根を寄せて、人差し指を額に当て、おでこに皺を寄せ、下唇を前に着きだして思案する。ん、これはいったいどういうことだろうか。掃除し忘れたのか? いや、まさか。


 しょうがねぇな。私は廊下を行く。六年三組の札がかかった真下、ガラガラと大きな音を立てて「しししししし失礼します」と私は震える声を意図的に出した。いいか、意図的にだからな。いやだから意図的にだって。


 その部屋には、もちろん誰もいなかった。というか教室の戸締まりしとけよ。私は敷居をまたぐと、黒い痕が伸びていく先を追った。黒板の横に続いていた。


 私はゴミ箱を見下ろす。燃えるゴミの箱にはティッシュとかテストの模範解答とか何たらがくるめられて捨てられていたが、私はその上に寝転がっているそいつを見た。本体は潰れているが、安いUFOキャッチャーのぬいぐるみのように白い手足がついている。青い目がこちらを見つめていた。


「こらこら、お前の居場所はそこじゃない」


 私は空き缶をカンのゴミ箱へ入れた。誰だよ学校で飲んだ奴。

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