第5節
黒い霧に包まれた異形は、三人に向かって一歩前進した。その体躯からみれば拍子抜けするほどに軽い、振動も地響きもない静かな一歩だった。
「ちょちょちょ、来る来る!」
「押さないで、押さないで!」
「また逃げましょう!」
異形の一歩に対して、三人は十歩さがった。
『逃げるのはお勧めしません。またそこに転送すれば済む話ですから』
「い、いや、でも」
『皆さんが逃走しているあいだに、犠牲者がふたり増えましたよ。そういう意味でもお勧めしません』
「え?」
『タクシーの運転手と乗客ですよ。そのあたりに見えませんか』
確かに異形の向こう側に、さきほどまでなかった緑色の車体が見えた。フロントガラスには鋭く穴が空いている。運転手と乗客の姿は見えない。
「いや、でも、戦うって言っても」
「そうですよ。そもそも、この化け物はいったい」
『人間ですよ。元人間です』
「これが?」
『エスエナジーを強く浴びた人間はときおりそのようになります。もっとも、姿形はさまざまです。元になった人間がどんな欲望を強く持っているかで性質も変わります。目の前のそいつは、実にわかりやすいですね。破壊欲です』
「破壊欲?」
『ええ。破壊欲を抑えきれなくなった人間が、エスエナジーを大量に浴びて仕上がったのがそいつです。私たちはその状態のことをアルケウスと呼んでいます』
「アルケウス?」
『そのとおりです。そいつは”攻撃と対立のアルケウス”です。求めるのは破壊だけ。実にシンプルです。初陣としてはベストマッチでしょう』
そのときアルケウスが動いた。しかしその動きに抑揚がなく、なにが起きたか瞬時にはわからなかった。まるでズームインしたかのように大きくなり、それが一気に距離を詰めてきたからだと理解できたころには、間合いに入ってしまっていた。
アルケウスの右腕の一振りが、アゲダシドウフを捉えた。
「ぐぼっ!」
鉤爪に掻き出されるように、アゲダシドウフの身体は宙を舞い、直後にビルの外壁に叩きつけられた。周辺のガラスが砕け、陽光を反射して輝きながら、アゲダシドウフの背中に降り積もる。
トリカワポンズはその場にへたり込んだ。もともと小柄な彼が地面と仲良くなったため、アルケウスの視界から消えたのだろう。意識はナンコツに注がれた。
ナンコツは呆然としたまま、アルケウスの一閃を腹に受けた。まるでテーブルの埃を払うかのような動作だった。鉤爪の背で弾かれたナンコツは、隣接するテレビ局の十階あたりに激突し、意識を取り戻す間もなく落下した。
そのとき、トリカワポンズは、失禁していた。
つづく
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