第4節

ナンコツは周囲を見回し、観察した。

 ひとりひとりの表情、歩き方、肩の動きを。

「そういえば、あの人、やたらと背後を振り返りながら、歩いてますね。それも早足で」

『そちらに向かってください。なにかを目撃したのかもしれません』

「悲鳴をあげたりは、してないですけどね」

『人間は予想外の事態に遭遇したとき、正常性バイアスがかかります。自分は日常のなかにいると思い込みたくなるので、周囲から浮かないように努めることが多いのです。とにかく移動してください』

 三人は男の声に従って進んだ。銀色の高層ビルがそびえるT字路に立ったとき、坂道を駆け下りてくる数名の男女が見えた。

『どうやらその方向にいるのは間違いなさそうです。少し急ぎましょう』

 三人が坂道を進むにつれて、すれ違う人数が増えてくる。最初は数名づつが早足で。次第にそれが列をなしてゆく。カーブを曲がると、車道も生垣もおかまいなしに、群衆が全力疾走で向かってきた。

『間違いない。人々の流れの起点に、ヤツはいます』

 ハイヒールを脱ぎ捨てたのであろう裸足の女性が駆けてくる。彼女のインナーは、赤い飛沫で意図しないドット柄に変わっていた。そのすぐ後ろの宅配業者のユニフォームの男は、右肩から先がなかった。さっきすれ違ったジャケット姿の男性は、どう見ても助かる見込みのない出血量だ。

「ちょ、ちょっと」

「これ、本気ですか?」

「こういうのって、地獄絵図って」

『雑談はそれまでにしましょう』

 男の声が、低い。

『現れますよ』

 テレビ局と高級マンションに挟まれた路上に、それは姿を現した。

 黒い霧に包まれたように輪郭が滲んでいるが、その体躯は街路樹と同じ高さに達している。しかし最高点にあるのは頭部ではなく両肩だ。極端なイカリ肩をした異形は腕を下るに従って細くなり、先端は長い四本の鉤爪が揺らいでいる。頭はおよそ体の中心部分にあって、そこだけ霧が晴れたように鮮明に見える。それは人間の顔だった。しかし眼球はなく、眼窩から黒い霧が漏れている。

「ここここここれは!」

「ばばばばば化け物!」

「ににににに逃げましょう!」

 三人は踵を返して、脱兎のごとく走り出した。

 スーツの補助を受けてそのスピードは増し、逃げまどう人々を追い越し、タクシーを追い越し、飛ぶ鳥まで追い越して、皇居の内堀でようやく止まった。

「はぁはぁ、ここまで逃げれば」

「ええ、もう、安全でしょう」

「危なかった。ぜぇぜぇ」

 しかし次の瞬間、彼らは赤坂に立っていた。テレビ局と高級マンションに挟まれた路上で、黒い霧の異形を前にしていた。

「なんで、なんで、どうして!」

『転送したんですよ。だって、逃げちゃうんだもん』

「いや、そりゃ逃げるでしょ!」

『逃げたって何度でも転送しますから』

「いやいやいや!」

『覚悟を決めましょう。ヤツを倒さない限り、生きて帰れないんですよ。大丈夫、スーツとサングラスが、皆さんを完璧にサポートします』


つづく

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