マーマレード味の煙管

くもの すみれ

第一話 祁答院橙子

 島田橙子。旧姓、祁答院橙子。二十二歳、離婚歴二回。現在、独身。無職。両親は幼少期に死別、家族は祖母と妹。親戚達は居るが名前は殆ど覚えていない。趣味無し。得意な料理、凝ってないもの。

 私のステータスを知ると皆んなが愕然とするので実に面白かった。九割方の人間が、結婚と離婚の回数を聞き返してくる。その度に離婚した理由を教えなければならないので、最早一から十までの台詞は定型文のようになっていた。


「一人目は同い年の中学生からの仲だったの。そいつとはお互い依存気質な恋愛をずるずる続けてた。たまにあるでしょ、別れたと思ったのにいつの間にか復縁してるカップル。それよ。婚約指輪も結婚指輪も、めちゃくちゃ大事にしてた。指輪っていうものに胸がときめいちゃって仕方なかったわけ。」

「へぇ、ラブラブだったんだ。」


 久しぶりに再会した友人は、小学校卒業と共に疎遠になりつつあった子だった。流行りのふわふわパンケーキを、ふにゃっとした笑顔で頬張っていた。

 彼女は、付き合っている彼氏と、来月から同棲を始めるらしい。そんなおめでたい話をされた後に、離婚の過去を言うのは少々気が引けた。しかし本人から食い付いてきたので、あとで苦情を貰ってもゴミ箱に捨てるほかない。

 対して私はブラックコーヒーを飲んでいた。苦くて飲めたもんじゃないと高校生の頃まで思っていた。それが成人式を終えたタイミングで、試しに飲んだらゴクゴクと完飲出来るまでに成長していたのだ。私は大人の階段を登った。たしかブラックコーヒー記念日の前に、一人目の旦那とは結婚をした。


「そいつ、浮気したの。一度目は目を瞑った。二人目が発覚したときは目潰ししてやろうかと思ったわ。」


 彼女は苦笑いを浮かべていた。引き攣った笑みほど、虚しいものはない。


「二人目は価値観が釣り合う感じがした。一緒に居ると楽しくて居心地も良かったんだよね。」

「じゃあ、なんで別れちゃったのよ。」

「デートで美術館に行ったの。その時、そいつがさあ、マナーのない野郎だったんだよね。静けさの中で私は作品やその作り手の世界に浸っていたかった。そしたら、そいつ作品を見て一々冗談を飛ばすわけ。私、頭にきちゃってさ。美術館出て、家に送ってもらったとき。そいつ降ろさせて、弁慶の泣き所を蹴り飛ばしてやったわ。それから数日後に離婚届に必要事項記入して、おしまいよ。」


 今思い出しても腑が煮え繰り返るほど腹立たしい出来事であった。最悪なことに、そいつは作品にも触ろうとした。だから目一杯の笑顔で言ってやったの。お前、教養って言葉知ってんのか。

 その日の夜に吸った煙草は、反吐が出るほど美味かった。宵闇、白い煙が揺蕩う。世界は汚れた心に満ちているのではないかと呆れ果て、肺が曇っていった。


「今は?」


 人は恋愛をしていないと死ぬ生き物なのだろうか。そんなことを考え出しそうになるほど、女子間の話題はいつだって恋愛のことばっかりだ。今は、いない。そうなんだ、でも橙子美人なんだから直ぐに男出来るよ。

 私がいつ欲しいと言ったんだ。



「恋愛ねえ」


 哲学者みたいなことを呟きながら家に帰った。友達とは軽食を済ませて、さっさと別れた。向こうは今からデートで、私は自宅に戻る。たったそれだけの話だ。

 ハグもしないしキスもセックスだってない。だから、なんだっていうのか。

 恋愛していないと死ぬのか。恋愛していないと負け犬なのか。結婚していないといけないルールでもあるのか。


「ポエム?」


 テレビには美しい男女が映り、色彩溢れていた。アニメ化したばかりの作品だそうだ。ソファーにふんぞり返っているのは、私の実妹である島田結ヰであった。

 ロングヘアを茶色の太めのヘアゴムで、おだんごの髪型にして、黒縁眼鏡をかけている。化粧はなし。上下はネット通販で買ったグレーのスウェット。完全に枯れ果てた女に思えるが、結ヰは一年程前に結婚した。

 同じ苗字なのでややこしいが、妹の結婚相手は、私の元旦那の苗字と、漢字及び発音が重なるだけで、血縁関係は無かった。妹夫婦はとても仲が良く、微笑ましい。

 そんな妹の旦那は単身赴任の為、今は飛行機でないと会えない離れた所に住んでいる。

 期限が定まらないため、直ぐに帰れる保証はなく、その間、妹を一人家に残すのは不安だという理由で、私の家に居座っていた。いや、元々は共に暮らしていたので、暫く戻ってきているだけに過ぎないの方が正しい。


「この人の声どこかで聞いたことあるなあ。」

「私にはさっぱり分からないんだけど。」


 アニメのキャラクターに声を当てている人が誰なのか、聞けば大体は名前が分かるらしい。すごいスキルだ。姉の私など、血の繋がりが多少なりともある親戚の名前すらまともに言えないというのに。

 部屋の窓を開けて、手には灰皿。カバンに入ったままの煙草の箱から一本。ライターで火をつける。私は美食家なのだ。煙草はうまい。世の中はどこもかしこも禁煙ブームだが、私は永遠に喫煙者で居ることを決めていた。

 付き合いかける男は、煙草は百害あって一利なしだと口を揃えてみんな言う。

 君には健康で居てほしいんだ。気配りのできる心の持ち主だ。だが、私の肉体の健康が害されるよりも先に、煙草を辞めたら、心が不健康になって腐敗していくのが分かっていた。

 ヤニ切れ、今すぐ禁煙外来に行け。無理矢理、病院に連れて行かれそうになったことあった。だが辞められない。

 灰皿に、燃え滓が蓄積されていく。銀色のなかに臭くて、美味かったものが放り込まれていった。


「いいね、その匂い。」


 妹は勿論煙草は吸わない。だが、煙草の臭いは大抵好きらしい。変な趣向だとハッキリ言ってやったら笑っていた。


「恋愛、いいもんかねえ。」

「さあね。お姉ちゃんには向いてないかもね。」

「向き不向きとかあんの?」

「美人なのに喫煙者で口悪いから男は裏切られた気持ちになって離れていくんだよ。」

「夢見すぎなんだよ。煙草も辞めないし、口悪いのは適度に改善していく。」

「どっちも完治させたら、王子様が来てくれるかもよ。」


 よくもまあ、そんなにスラスラと言葉を返せたものだ。煙が舞う。私は、喫煙者で口が悪い。離婚歴もある。

 恋愛、そんなにいいものなんだろうか。結婚、嬉しいことよりも、俄然苦しみの方が多かったように思う。譲り合ってばかりでは、小さな不満が重なり、いつの日か駄目になっていく。だから私は二度も離婚届を役所に提出する羽目になった。

 この世はおかしな程に、幸せを追い求める。恋も愛も結婚も人生の中にある、膨大な幸福の一種類にしか過ぎないというのに。

 生活内で幾つもの選択をしながら、一日に組み込まれたルーティンを遂行していき、最期らへんに振り返るのだ。

 その時に楽しかったことが多ければ、満足して魂も天使に預けられそうだ。

 毎日丁寧な暮らしをして、映えに執着してしまったからこそ、自分に負債を押し付けてる子もいる。アイドルみたいに持て囃されて、芸能人か何かと勘違いを引き起こす子もいる。炎上しては真っ黒い背景に白文字で謝罪文を掲載する子もいる。そんなみなさんも、順調に年老いて、なんか心臓止まるくらいの頃に昔をおもって、笑ってられたら幸せは確定しちゃうんだ。

 焼かれて骨になって墓に入る。あとのことは、死んだことがないから分からないけど。

 箱から二本目を取り出した。カチカチと乱暴にライターをつけた。思うけど安物のライターって妙にエモい。エモーショナルだ。


「あ。キスした。」


 妹の声に釣られて、テレビを見たら、画面上の男女が唇を重ねていた。それだけで胸の内側に迫り来るものがある。

 ああ、これだから恋愛にみんな没頭しちゃうわけか。煙草の先っぽが燃えている。私は死ぬ前に幸せを感じるのだろうか。

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