詩人=タントリスの追想

中田もな

 荘厳な態度の時計塔。人々はそれを、ビッグ・ベンと呼んだ。多くの車が行き交う中、彼は独りで佇んでいる。修繕工事の終わらない、ロンドンの象徴を見上げながら。

「あのー……」

 私が声を掛けると、彼はゆっくりと振り返った。複雑に編み込まれた白い髪が、小風に吹かれて揺れている。

「ビッグ・ベンは、ただ今修繕中ですけれど……」

 彼は随分と前から、この場所に突っ立っていた。私は犬の散歩に出て、市街地を一時間ほど回ったのだが、彼は行きにも帰りにも、ずっと同じ場所にいた。辺りは段々と暗くなり、街灯には灯りがともり始める。

「もしかして、待ち合わせですか?」

 犬はわんと吠えながら、彼の足元をぐるぐると回る。明るい毛がふさふさと生えた、短い足のコーギー犬だ。

「……あながち、間違いではありません」

 彼は静かに微笑むと、コーギーの鼻に手を寄せた。犬はやたらと興奮していたが、彼の掌のにおいを嗅ぐと、途端にすっと大人しくなった。

「私は随分と昔から、彼女のことを待っているのです。白い帆を掲げてやって来る、美しい彼女のことを……。彼女は、そう……、あなたのような、まばゆい髪の女性でした……」

「はぁ、そうですか……」

 彼の眼下を流れるのは、海ではなくてテムズ川だ。彼が何を言っているのか、私にはよく分からなかった。

「あなたの滑らかな金髪は、彼女の面影を思わせる……。彼女があまりにも美しいので、私は度々、とある騎士と戦うことになりました……」

 ……これは、新手のナンパ(hit on)だろうか? 彼は赤い目を細めながら、空想の世界に浸っている。

「あのー、お困りではないなら、これで失礼します……」

 私はリードを引っ張って、奇々怪々な彼から離れようとした。コーギーは彼になついたようで、楽しそうに尻尾を振っている。「ほら、帰るよ」と合図をすると、途端にしゅんとしょげてしまった。

「ああ、花のように可憐なレディ。どうか私を、独りにしないでください。厳かな鐘の音も、今は全く聞こえない……」

 ビッグ・ベンは修繕中なのだから、鐘が聞こえなくて当然だ。やはりこれは、質の悪いナンパだったようだ。

「散歩の途中ですので! さようなら!」

 彼のうるんだ瞳を見ると、僅かな罪悪感が襲って来る。しかし、これはナンパなのだ。同情しても、仕方がない……。

「ああ、見目麗しいレディ……。せめてものお願いです……。どうか、私の話を、聞いてください……」

 彼は黒いフードを取りながら、何度も必死に頭を下げた。とうとう地面に跪き、犬にぺろぺろと舐められ始める。

「ああ、もう! 恥ずかしいから、止めてください!」

 ……通行人の冷たい視線が、彼と私に注がれる。私はついに根負けして、彼の話を聞く羽目になった。

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