【未完】もう、SUSHI でしか語れない

七谷こへ

第1話


 海松さんのことを考えると、頭がぽわぽわとあたたまる。


 仕事が手につかない。


 では考えなければいいではないかと言われると、こまる。


 なぜなら、すぐ左を向けば海松さんがパソコンに向かっているわけで、その長くしなやかな指がカタカタとかなでる音や、電話をとったときの少し低めの声、立ち上がったときに流れる黒髪からかすかに漂うその香りと、五感をつぎつぎに刺激してくるからである。


「ねえ、海松さん」


 右手で頬杖をついて、ヒサシは話しかける。


「コハダ食べたくないっすか」


「別に」


「じゃあカズノコは」


「別に」


「じゃあいなり寿司は」


「別に。っていうかヒサシ、あんた余裕そうだけどA社の案件終わったの」


 問われ、ヒサシは自席のディスプレイにぼんやりと浮かぶエクセルを確認する。


「いまだ道半ばってとこっすね」


「道半ばもなにも30分で終わる作業でしょうが。3時間経ってもなお道半ばって、あんたの移動ハイハイなの? 赤ちゃん? いや赤んぼうでももっと進めるわ。マンマのおなかで指くわえて眠ってる最中なのかな。25年の眠りはちょっとねぼすけさんだね」


「ぐうの音も出ないけどさすがにちょっと言い過ぎじゃないですか? あーこれはぐうの音の代わりにバブバブ言って海松さんに抱擁してもらいこの傷心を癒やしてもらうしかないですねえ痛い痛いすみません。いや、考えてみてくださいよ海松さん。知識豊富なベテランマラソンランナーのごとき海松さんと、入社1年ヨチヨチ歩きのヒサシくんでは、そりゃ進むペースが違うでしょ。いろいろ調べながらやるから時間かかるんすよ」


「あんた入社して3年経ってなかった?」


「経ってます」


「その恥をおそれぬ印象操作だけは立派なもんだよ。あんたに渡した過去データ、ちょうど私が3年目のときに30分でつくったやつだからね。あとあれよ、そのラインナップ」


「ラインナップ?」


「コハダ、カズノコ、いなり寿司ってなんなの。寿司のこと? 寿司食べたいかって聞くんならマグロとかサーモンとかイクラとかランキング上位に入りそうなのがいくらでもあるでしょが。どれも好きだけどいきなり挙げていくにはちょっとレアキャラすぎん?」


「イクラだけに『いくらでも』ってわけですか。さすが海松さんキレッキレっすね」


「貴様のメガネ叩き割るぞ」


 憤慨して自分のパソコンに戻った海松さんの横顔を見る。


 その出刃包丁のように大きく鋭いひとみと、カッパ巻きの中に入ったきゅうりを思わせるスッと通った鼻筋を見て、きれいだなあと思う。「で」ヒサシはメガネをくいと上げ、懲りずに話しかける。


「寿司、食べたくないっすか」


「『で』じゃねーよ。おまえが聞いたのは『寿司食べたいか』じゃなくて『コハダ、カズノコ、いなりを食べたいか』だよ寿司食べたくないかだったら『食べたい』だけどな。でも今月飲みに行きすぎて金ないから寿司は無理だわな」


「おれが出しますよ」


「え」


「おれが出すって言ったら、寿司、行きます? いい店見つけたんすよ」


「マジで」


「マジです」


「一応聞くけど、どんな店」


「ほら、これですよ」


 ヒサシはパソコンの検索履歴から、「これは」と思ったひとつの店をひらく。ひらいたら海松さんに頭をはたかれた。


「おまえの検索履歴、寿司屋ばっかじゃねーか。道半ばどころか行くべき道を進んでねーじゃねーか」


「まあ、道なき道をくのが男の生きざま痛い痛いすみませんまじめにやります。あとで。まあこれを見てくださいよ」


「おお……」


 こづかれながら画面を見せると、海松さんも息を呑んだ。

「創業118年」

「この道48年の職人が握る」

 など、寿司屋としてはおしゃれなwebサイトが、信頼感をにじませながらスタイリッシュに伝統を見せつけてくる。

 つづいて浮かびあがる華麗な寿司ネタに、海松さんがつばを飲む音が聞こえた。


「し、しかしなあ、後輩にごちそうになるわけには」


「いや、実はですね、このあいだB社の案件で、おれが税金1,000万円まちがえたのを見つけてもらったことがあったじゃないですか。それをお客さんとこ行く車中で社長に笑いながら報告したら『きみ、それは海松くんにちゃんとお礼しときなさい。あと次やったら社会的に殺す』と言われてですね、なるほどお礼はたしかに大事だなと」


「まあ私もあれは『こいつどんなまちがいしたらこうなんの?』って目を疑った」


「あとですね、たしか来週あたり海松さん誕生日とか言ってませんでした? 『祝ってくれる彼氏もいねーしよ』ってこのあいだぼやいてたのと、ネット見てたら『世の中の上司・先輩の99割はくそみたいな武勇伝語りたがってる』という説を見たんでしかたない、誕生日祝いがわりにくそみたいな昔の武勇伝聞き流してやるかなと」


「おまえの浅い見識と上から目線にいまにも憤死しそうなほど腹が立っているが、まあ、なんだ、しかたない、寿司がね、待っているというならね、そのくそ生意気で失礼な態度をスルーして奢られてあげようかな、まあ仕事のお礼ってことならね」


「よっしゃ決まった! お先に失礼しまーす」


 立ち上がるヒサシの首根っこをむんずとつかみ、海松さんが耳元でがるると唸る。


「定時まであと3時間あるだろうがまずA社の案件終わらせろ」


 かくしてふたりは、仕事を終えた18時28分(18時が定時だが、ヒサシがよけいなミスをして社長に怒られる時間が23分あった)に連れ立って職場を出た。「これ、あいつらつきあってるんじゃとか噂されちゃいますね」と浮き足立つヒサシだったが、「おまえごときとごはん行くぐらいで噂もくそもあるか」とプロサッカー選手もかくやという勢いで一蹴される。


 2人はヒサシが探した寿司屋へおもむき、「眼がいのち 鮨 かがみ」と書かれたのれんの前に立っていた。そのすし酢の香り漂う高貴な店構えを前に、ごくりとツバを飲んだあと海松さんが口を開く。


「一応、一応奢られる前に言っておくぞ」


「はい」


「私は職場の男とどうにかなる気はないからな」


「どうにかとは?」


「いや、ほら、男女のあれ的なあれだよ」


「ああサメの交尾的なあれですか」


「サメまったくいらんだろ。いや交尾どうこうもおかしいんだが、その前に恋愛関係とかそういうことだよバカ」


「いや魚類だと卵にぶっかける感じになるんで、そこまでマニアックじゃなくサメみたいに交尾はきちんと行ないますよという渾身のノーマル性癖アピールです。そんな心配しなくても大丈夫っすよ」


「いや寿司屋の前だからって海の生きもの縛りがまず不要なんだが、そうだよなすまん。いや、私みたいな飲んだくれのガサツ女が言うのも自意識過剰みたいで恥ずかしいんだが、こういうのはハッキリさせとかんとな」


「そういう難攻不落なところを攻め込んでいくのが醍醐味なんで」


「おまえ、仕事まったくできないのにそのクソ度胸だけはいつも感心するよ。私のタイプはまず仕事ができる人だから、おまえは仕事も顔も性格もなにもかもが圏外だ」


 あきれてため息をつく海松さんを、ヒサシはまあまあとりあえずとうながして店内へと入る。

「へいらっしゃい!」

 寿司屋のテンプレのような発声がふたりを出迎えた――




<未完>


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