第34話 百聞はボサノバにしかず 10
アスファルトの感触が冷たい。
頬に触れる小石が痛い。
鼻から垂れた血が路面を濡らす。
何が起きたのかと物事を一瞬忘れてしまうほど揺さぶられた頭。
文哉の視界には後退り遠ざかっていく革靴がいくつも見えた。
また人の多い通りで喧嘩沙汰なんて、誤魔化すには無理がある。
こんなことになるなら私服に着替えてから帰れば良かったな、と文哉は後悔する。
使い古した薄汚れが取れない作業ズボンの膝の辺りが妙に冷たい。
擦りむいて破けてしまったようだ。
「良い人ごっこは素直に卒業しときゃ良かったな」
自分を窘めるように愚痴り、文哉はうつ伏せになった身体を手をついて起こした。
そこに突っ込んでくる剣崎。
身を低くした低空タックル。
掴むのではなく肩を突きだした体当たり。
文哉は慌てて地面を押すようにして身体を横に転がした。
突っ込んでくる剣崎が横を通りすぎる、わけはなく、片手を地面に滑らして急ブレーキ!、からの急旋回でまだ起き上がりきれてない文哉の背中に乗った。
うつ伏せになった文哉の背中に乗り、首から顎を掴んで身体を海老反り状に引き上げて、背骨や首にダメージを与える。
グググ、と海老反りになった文哉の身体から音が鳴る。
首の音、背中の軋み、漏れる吐息。
キャメルクラッチ。
技を仕掛けている様子がラクダに乗って手綱を引いているように見えることが技名の由来。
「どうだ、羽姫の女王、桐山邦子が何人もの相手からギブアップを宣言させた技の味は!!」
跨がる剣崎の両足が文哉の両肩をロックしていて、文哉は両手の自由を塞がれていた。
もがく手は拘束する剣崎の腕には届かず空を切り、アスファルトを叩いただけだった。
「あ? ギブアップか、それ。バカかよ、平田ぁ。ストリートファイトにギブアップなんてあると思うなよ、お前はこのまま落ちるんだよ」
落ちる。
絞め技で失神することを落ちるという。
頚動脈洞を圧迫されて失神した者は絞めるのを止めるとすぐに脳への血流が再開するため問題はないが、気管を圧迫されて失神した者は放置しておくと危険なため、直ぐに蘇生のため応急処置が必要である。
キャメルクラッチはそういう技じゃないだろ、と文哉は抗議をあげたかったが声は出なかった。
格闘技バーに感化されて喧嘩がしたいというならバーでの試合ルールに則ってやってほしい。
ルール無用のストリートファイトなんて、それはアンチ行為と変わらないのではないか。
「たぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」
アスファルトを叩きもがく文哉。
何だと首だけ振り返る剣崎。
威勢の良い女性の声がドタドタと足音と共に近づいてきて。
文哉の顎から手が離れ、馬乗りしていた剣崎が吹っ飛ばされた。
「大丈夫!? 文哉くん!」
拘束から解放されて文哉は冷たいアスファルトに頬をつけて呼吸を取り戻す。
濡れる頬、鉄の匂いが鼻につく。
映る視界に転がる剣崎、窺う少女。
聞き馴染みある声に誰と問う必要もなかった。
軽く茶色に染めたストレートボブ、目尻が少し垂れ下がったつぶらな瞳、自然と形作るアヒル口。
「か、華澄ちゃん? 斧宮、華澄ちゃん、嘘だろ、なんで……」
後頭部を蹴られ仰向けに倒れる剣崎が、華澄の姿を捉え呟く。
華澄に手を差し伸べられて文哉は掴んで立ち上がった。
身体を引き上げる力は、その小柄な身体からは想像しがたいものだ。
ただ文哉にはそれも馴れたものだった。
「助かったぜ、華澄。ありがとよ」
「もしかして、また自警団復帰したの?」
嬉しそうに目を輝かせる華澄に、文哉は首を横に振って答える。
残念がる華澄の口がアヒル口に尖る。
「町内会の自警団は十代の若いヤツの捌け口みたいなもんだって、華澄も知ってるだろ? 二十歳越えりゃ卒業だよ」
町内会自警団は血気盛んな十代に警備という大義名分を与え正当な暴行へと導く、羽音町商店街に代々受け継がれている自警団だ。
昔からある千代田組へのみかじめに反対する人々が結成し、不良やヤクザ相手に警察に目を瞑ってもらいながら喧嘩する集団である。
「じゃあ、なんでまた路上で喧嘩なんてしてるの?」
「ははは、したくてしてるわけじゃねぇよ。ったく、華澄、お前のファンだ。責任取ってくれ」
「へ?」
文哉が自分の背後に向けて親指を差す。
華澄がそちらを見ると、後頭部をおさえながら剣崎が立ち上がっていた。
「華澄ちゃん、なんでそんなヤツ助けるんだよ? そいつは羽姫アンチなんだぞ! 生かしておいていいヤツじゃない!!」
顔を紅潮させ激昂する剣崎。
倒れ転がった際に顔を引きずって眉の上から血を垂らしていた。
「羽姫アンチなの? 文哉くん」
「女同士の喧嘩を酒飲みながら見てぇなんて、思わねぇよ」
「はぁ?」
「ほらみろ、華澄ちゃん。こいつは生かしてちゃいけないクソ野郎だぜ! オレが今からぶっ殺すから見ててよ!!」
大声を上げながら剣崎が一歩踏み込む。
クソ、と呟いて文哉は振り向きながら後ろ蹴りを振る。
踏み込みの足りない牽制程度の蹴りで足止め出来たら御の字か。
そう思う文哉の視界の端から飛び跳ねる華澄の姿。
文哉の肩に手で体重を乗せて軸にした飛び蹴り。
文哉の後ろ蹴りが刺さるより先に、華澄の飛び蹴りが剣崎の顎を横に叩いた。
剣崎の顔が四十五度斜めに傾く。
歯が一本、空中に飛ぶ。
「私、強くなってるんだから。ちゃんと観てよね、羽姫の試合。面白いんだから!」
目の焦点が合わない虚ろな目をした剣崎が、文哉と華澄の横をふらついた足取りで通りすぎていくと前のめりに倒れた。
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