第八部 長き治世

8-1 幼君と冴えない男

      ◆


 春秋朝廷における特筆すべき点は、それまでになく、あるいはこれからもないかもしれない、長く世を治めた天皇の存在である。

 天柊の地を離れたのは御籠天皇の治世で、遷都により春秋の地が新しい国の中心になった。

 この遷都は表向きには人心の一新を図り、国を引き締め直すためなどと主張するものが多かったが、裏では、仲建天皇の治世の最後に起こった奇怪が事態から、物理的に逃げ出すためだと言われた。

 これはまさに噂の域を出ないが、天柊の地は呪われており、悪鬼が跋扈する土地へ様変わりしたと真剣そのもので言うものもいれば、遠方の知人にそのようなことを書き送ったものさえあった。

 朝廷が去っていった天柊には建物などはそのまま残されたのが、あっという間に浮浪者の集まるところとなり、それがそのまま天柊の地を、都という華やかな印象ではなく、悪徳の街という印象に一変させていたのは事実である。

 こうなっては商人などは立ち寄らず、荒廃は退廃へと転げ落ち、最終的には朝廷の指示で兵士が出動し、ならず者たちを追い出した後、天柊京には火がつけられた。こうして天柊京は姿を消し、一面の焼け野原となった。

 これが御籠天皇の治世七年目の出来事で、これ以降、天柊京があったところには多くの寺社が集中することになった。これもやはり朝廷の命であり、同時に天皇陛下からの勅命もあり、瞬く間に焼け野原には立派な伽藍が建ち始めた。

 民はまず、御籠天皇は旧都を焼き払うとは恐れ多いことを、と慄き、次には、御籠天皇は信心の篤い方であることだ、とにこやかに話すのだった。

 この新しい都、春秋京は民にとっては何かと暮らしやすかった。水の問題も交通の問題も、念入りに計算されているようであった。

 御籠天皇は皇后を早々に定め、後宮に女人を入れることにはそれほど積極的ではなかった。貴族や公卿はもちろん、民の間でもこれはという美しい娘がいるとこの頃の都ではよく、後宮へ入るのでは、という噂が立った。

 どこそこの誰は絶世の美人らしい、あの貴族の娘の美声は素晴らしい、あの公卿の娘は歌の才に恵まれている。そんな風に、何か際立ったものがあると、すぐに後宮に結び付けられるのだった。

 しかし御籠天皇は後宮には二人の女御と、三人の更衣を求めただけであった。

 皇后との間に男児を一人、女御との間に女児を一人もうけた以外は、子はいない。

 その御籠天皇が急な病で、その病の情報が広がるより先に崩御されたのはその治世十二年目のことであった。

 朝廷が揺れに揺れたのは、唯一の男児である皇子がまだ八歳だったからである。自然、摂政を置くよりない。朝廷では誰が摂政の座に就くか、激しい議論が連日、重ねられることになった。

 御籠天皇の皇后は、喪に服すべしという朝臣たちの態度に反発を覚えたが口を閉じると決め、結果、摂政の座は横槍の入らない、純粋な派閥闘争、権力闘争へ発展した。

 ともかく、御籠天皇の唯一の皇子が即位し、御狩賀天皇を名乗った。

 摂政の座を巡る争いにおいて、有利な立場にあるものはこれといって見当たらなかった。仮に御籠天皇の后の親とか、そういう立場の者がいれば、何か変わったかもしれないが、喪に服するという姿勢で沈黙した皇后の親は他界していた。家柄としては貴族の一角に血筋は残っていたが、遠い血筋のためにあまりにも立場が弱かった。

 幼い御狩賀天皇が何も知らないまま、摂政は岩垣古長という人物に決まった。岩垣家は公卿の家柄であり、古長自身の位階は上二位である。

 この最高位の朝臣でもないものが、天皇の最も側に立つことができたのは、貴族たちの思惑によるのだった。自分がその場に上がりたくとも、下手なことをすれば周囲全てから攻撃され、追い落とされ、潰されてしまう。

 自分が批判されることもなければ、責任を取る必要もない。そういう場所にいながら、政の主導権を握る。これが朝臣たちが腐心した最たるもので、いってみれば、岩垣古長という人物は生贄であり、操り人形であった。

 岩垣古長は日記にこの日のことをこう記している。

 朝臣たちによって大きすぎる役割を求められているが、自分にそれが務まるとは思えない。近いうちに、宮家か貴族か公卿か、その辺りが私に告げ口をするだろう。私がそれを天皇陛下の御耳に入れなくてはいけない。まだ九つにもならない少年を、私は大人たちの都合で操らなければいけないのだ。世間では私が操り人形と思われているようだが、恐ろしいことに、その操り人形が操る人形がいるのである。なんと愚かしく、残酷なことであろう。

 この日の三日後、岩垣古長は御狩賀天皇に拝謁している。その日の日記も今に伝わっている。

 あの愛らしい少年を、つまらぬ権力欲や出世欲から守らねばならない、守る、そう私は決意した。摂政としてどこまでできるかはわからないが、出来る限りの事をするとここに誓う。この国のあり方、この国の理想は、誰もが考えねばならぬ。しかし、そのために犠牲になるもの、犠牲に差し出すものがあってはならない。どうか陛下には、この私のような頼りないものを見て理解していただければ思う。人とは愚かしく、汚らわしいが、美しいものを求め、美しきものを作ろうとする意思があることを、私が伝えられれば良いと思う。

 この記録が御狩賀天皇の治世の一年目のことである。

 時に御狩賀天皇は八歳、岩垣古長は三十九歳であった。



(続く)

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