7-4 異常事態
◆
ある冬の日、現島神社も一面の雪に覆われ、常よりもなお静かな空気に包まれていた。
その日、一人の巫女が未夢皇女の所へ新しい炭を運んだ時、図らずも未夢皇女と二人きりになることがあった。
すでに未夢皇女の腹部は疑いようもないほど大きく、出産も間近と思わずにはいられなかった。
「父親が誰か知りたい?」
炭を火鉢へ移しているところへ、不意に未夢皇女の方から言葉を向けてきたので、巫女は危うく炭を床に転がすところであった。
どう答えることができるか、巫女は混乱した。
皇女の方から訊ねてくるということは、答える気があるのか。本当のことを答えるのだろうか。しかしそれを自分が知ってしまって、果たしてそれで無事に済むのであろうか。仮にも天皇の娘の重大事であり、余計なことを知ってしまえば、どのような不幸がやってくるか、想像するだけで恐ろしかった。
沈黙。
外で木の枝から、雪が落ちたような微かな物音がした。それでハッとした巫女は、どれだけ部屋が静寂に包まれていたか思い至り、余計に混乱して考えがまとまる前に答えていた。
「いえ」
答えてから、失敗しただろうか、と巫女は反射的にやっと考えが回り始めた。もっと別に答えようがあったのではないか。
「知りたくないの?」
まったく余裕な口調で皇女に問いを重ねられ、いよいよ巫女は進退窮まると言った心地に陥った。
どうやら未夢皇女は話をしたいらしい。聞き出せることを聞き出し、しかるべき御仁に話を伝えるのが正しいだろうか。それとも何も知らず、なるがままにしておいた方が、安全だろうか。
今度こそ、巫女は答える言葉を持たなかった。
知りたいとも、知りたくないとも、言えない。
また沈黙が降りてきたが、今度の沈黙は短かかった。静かな空気に未夢皇女の言葉が非情にも流れた。
「私に子を与えてくださったのは、若沼紫さまよ」
聞いてしまった。まず第一に巫女はそう思い、何故、自分がその答えを聞く前に逃げ出さなかったのか、と後悔した。巫女は無意識に唇を噛み締めてから、「そうでございますか」とやっと言葉を返した。
するとどうだろう、未夢皇女はぽかんとした顔になり、それから笑顔を作ると炭の感謝を口にした。こうなってやっと巫女は金縛りが解けたように、すっくと立ち上がり、部屋を出ることができた。
若沼紫。
この名前はその日のうちに現島神社に、三日後には朝廷に、十日後には都に伝わった。
しかし不思議なことに、誰も「若沼紫」なる人物を知らないということが、わかってきた。
都はもちろん、地方の有力者にも若沼という家柄はなく、都の周辺、そして現島神社の周辺を当たってみると若沼という地名はあるが、それらしい人物には出会えなかった。
こうなると、未夢皇女は巫女をからかったのだろう、と現島神社の巫女たちが考え始めた時、それはもう都でも朝廷でも、確度の高い情報として共有されていた。
この時間のずれが、この後、さらなる奇怪な事態を呼ぶことになるが、最初の事態はこの時、都で起こっていた。
にわかに都で高熱を発する病が流行し始めた。民はもちろん、朝臣にも体調を崩す者がおり、それは皇宮に及んだ。
仲建天皇の女御が二人ほど倒れた後、ついに病魔は第一皇子、第二皇子に襲いかかった。
二人ともが最初こそ言葉のやり取りができたものが、数日のうちに意識は朦朧となり、それから三日で第二皇子が、その五日後に第一皇子が命を落とした。
これがまさに、未夢皇女が若沼紫の名を口にした、という噂と時期的に重なり、様々な憶測を生むことになった。
一番、大きく広まったのは、若沼紫は朝廷から追放された人物で、それが未夢皇女を孕ませたのがそもそもの呪いであり、皇室への復讐である、という物語であった。そして若沼紫の名を口にしてしまった未夢皇女が原因となり、都に、皇室に病が吹き荒れたのだ、というところまで噂が行き着くと、強引なこじつけのようだが、都のものはおおよそそれに納得した。
未夢皇女は天皇の娘でありながら、現島神社で神に仕えるはずであった。それがどこのものともしれない男の子を身ごもったとなるのだから、神がお怒りになるのも当然だ、という理屈もあり、また同時に、未夢皇女の過ちが皇室に不幸をもたらした、という理屈も広まっていくのを止められるものはいないのだった。
この頃、現島神社で何があったかといえば、まったく平穏であった。何かに守られているように、現島神社には流行病は気配もなく、都の惨状が伝わった時には一人残らず困惑するほど、普段通りに過ごしていたのだ。
兄皇子二人の急死の報は、都の噂を追いかけるように現島神社にやってきた。
この時、未夢皇女が何を思ったか、何を考えたかは、記録にない。臨月と言っていい腹に手を当てて、書状を受け取り、呆然とそれを取り落としたのを見た、という巫女の話は残されている。
これが仲建天皇の治世二十八年の終わりに起こったことで、しかし最大の衝撃は思わぬ通報だった。
現島神社にて、厳しい冷え込みの日の朝食の席に未夢皇女がやってこないので、巫女が部屋へ声をかけに向かった。廊下から声をかけても返事がないので戸を開けたところ、そこには寝具が綺麗に整理され、未夢皇女の姿はなかった。
巫女はどこか厠へでも行っているのか、と探し始めたが、やがて言い知れない恐怖が、瞬く間にその巫女を包み込んだのである。
未夢皇女は、忽然と消えてしまった。
現島神社の周囲は雪に覆われていたというが、足跡などの痕跡が一切ない、実に奇怪な失踪であった。
(続く)
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