ショタト・ワタシ A shot at what I see

九乃カナ

第1話 人食いペンギン(1)

 シャーベット状の雪が眼前に迫っている。どころか、ほっぺはシャーベットに押しつけられていて凍りそう。床にゴム製の網目状のパネルが敷き詰められ、上にシャーベットが積もっているのだ。

 うぐぅ。重い。息ができない。

 目が閉じる。

 もうダメだ。死ぬ。

「ぼく、大丈夫?」

 やっとたすけ起こされて、体の前面についたシャーベットを払ってもらう。ほっぺは袖で拭く。脱げてしまった帽子は、助けてくれた男の人が拾ってくれた。太ももに軽くはたきつけてからかぶる。

 すー、はー。

 呼吸が軽い。体も軽い。このまま宙に浮くこともできそうだ。目をつぶる。

 ふわりふわり、白くてもこもこの雲だ。

 空に仲間が浮いている。

 仲間のところへ、浮かんでゆく。

 ふわりふわり、足が地面を離れ。

 地面を離れ。

 地面を。

 ダメだ。想像どおりに宙に浮くことはできない。人間は地面に縛り付けられている。物理法則は融通が効かない。

 そんなことより、もっと早く助けてもらいたかった。あとすこしで死ぬところだった。それに、シャーベットの地面にコアラのマーチが散らばってしまった。もう食べられない。手につかんでいる箱を振ると、二三個はまだのこっているらしく、草がカサカサと風で転がるときの音がする。サソリの音ほど力強さがない。

「ああ、お菓子をもちこんじゃったんだね」

 落ちたコアラのマーチをささっと回収する。すばやい身のこなし。

「ペンギンさんが間違って食べちゃうと大変だからね。食べ物はもちこみ禁止だよ?ペンギンさんはお魚しか食べられないんだ。ほかのものを食べると、お腹をこわして死んじゃうかもしれないんだよ?食べ物はもちこんじゃダメっていうルールは大切なんだ。わかったかな」

 わざわざ拾ったものを見せてくれなくてもいいし、そのくらいは知っていた。あらためて理解したから、うんとうなづく。帽子の上から頭をなでてくる。

 泰人にのしかかって床に押しつぶしてきたペンギンは少し離れたところに立っている。こちらには見向きもしない。しらばっくれているのだ。

「痛いところはない?」

 手足を見ても異常はない。首を振って問題ないことを伝える。

「あのペンギンさん、いつもは大人しいんだよ。ペンギンさん嫌いになっちゃったかな?」

 もう一度首を振る。ペンギンは近くで見るとあまりかわいくないけれど。むしろ顔がこわい。

「あのペンギンさんはエンペラーペンギンといって、世界で一番大きい種類のペンギンさんだよ。手みたいなの、フリッパーっていうんだけどね?あれで空を飛ぶように海の中をすごい速さで泳ぐんだ。すごい力もちなんだよ。エンペラーペンギンにひっぱたかれると、アザができちゃうくらい」

 それに、怒ると人に襲いかかってくるというわけだ。

「ペンギンて人を食べるの?」

 男の人は膝に手をついた中腰で立っていて、顔が近い。オジサンだ。なんだか困ったという顔をして笑っている。いつも困っているのかもしれない。

「ペンギンさんは凶暴な動物じゃないよ。だから、ぼくを食べようとしたわけじゃないんだ。お腹がすいてイライラしていたのかな。もしかしたら、お菓子が食べたかったのかもしれないね」

「ううん、オジちゃん。ペンギンは肉食なんだから、人間も食べるんじゃない?このクソガキ、取って食うたろかって言ったもん」

 オジサンの目つきが鋭くなった。プライドを傷つけてしまっただろうか。目以外の顔を笑わせている。

「ぼく、すごいね。ペンギンさんとお話ができるの?」

「ちがうよ。あのペンギンが人間の言葉をシャベったんだよ」

 エンペラーペンギンを指さす。身長は泰人とかわらない。下敷きになった経験からすると、体重はもっと重いだろう。丸々と太っているし、四十キロくらいかもしれない。

「ペンギンさんはトリだからシャベれないんだよ。わかるよね」

 口の端がひきつった笑顔で、気持ち悪いほどやさしい声だ。でも、答えはノーだ。

「インコとオウムと九官鳥はトリだけどシャベるよ」

 小学一年生にしてはなにかと物知りだと、泰人は自認している。とくに昆虫や動物にはくわしいつもりだ。大人にはかわいくないヤツと思われることがある。いまもきっとそうだ。子供は無知でかわいいほど好まれる。

「同じトリでも、ペンギンさんはインコなんかとは種類がぜんぜん違うんだよ。ほら、ネコや犬は人間と同じ哺乳類っていう仲間だけど、人間みたいにはシャベれないよね。それと同じだよ。ペンギンさんはシャベらないんだ。急に襲われたからビックリして、鳴き声がそんな風に聞こえちゃったのかもしれないね。ごめんね、ビックリさせて。あのペンギンさんには悪いことをしないようによく言っておかなくちゃね」

「ウソだ。あのペンギンはシャベるよ。ぼくのこと食べるって言ったんだよ」

 つい大声をだしてしまった。水族館が用意してくれたお揃いのツナギに身を包んだペンギンツアーの参加者が皆こちらに注目している。泰人は人の注意をひきつけることをやってしまいがちだ。ある意味慣れっこになっている。

「ぼく、お名前は?」

 話題をかえようということらしい。あまり注目を集めすぎるのも得策ではない。

「泰人くんだよ」

「タイトくん、パパかママはどこ?」

 首を振る。

「じゃ、だれと一緒に来たの?」

 また首を振る。

「ひとりで来たの?」

 今度はうなづいて見せる。

「どこから来たの?」

 指をさす。

「うん、そっちは海だ」

 そうだったか?えーと。上を向いて方向を確かめる。そうか、階段をあがるときに折り返したんだった。逆向きに指しなおす。

「本当かな」

 信用はたった一度の誤りでも簡単に失われてしまうものだ。年齢は七歳で小学一年生だと自己申告した。

 ペンギンツアーはそこで終了だった。ペンギンの水槽を出たあと着替えをし、スタッフ専用のドアから通常の観覧にもどってゆく人々の群れを離れ、泰人ひとり事務室に連れてこられた。ソファにすわらされ、手にはプラスチックのコップにはいったココアをもたされた。あたたかくて甘くておいしい。落ち着く。ココアを飲んでいるうちに部屋には誰もいなくなっていた。ひとりで留守番をさせられている。

 物音がして顔を上げる。さっき助け起こしてくれた水族館のオジサンと若くてきれいな女の人が事務室にはいってきて、こちらに歩いてくる。

「きゃー、かわいい」

 目の前にしゃがみこんで、頭をなでてくる。さっきまでのペンギンになった気分だ。帽子はソファのとなりの席に置いてある。オジサンは遠くからイスを転がしてきて、背もたれをつかみ、くるっと座面をまわしてすわる。

「久保田さん、かわいいですね」

「そうですか?もう歩くし、いっちょまえにシャベりますよ」

「いっつもそれだ。久保田さんだってこんな時期があったんですよ。どこでそんなにひねくれちゃったんですか」

「たぶん、それくらいのときにはすでに」

「げっ、はやっ」

「だから、歩き出すまでなんでしよ、かわいいのは」

「いま噛んだでしょ。ごまかそうったって、わたしは聞き逃しませんよ。かわいいでしゅねー」

「ちょっと、いろいろ聞きだしてください」

「ひとに押しつけるんですか。高くつきますよ」

 お姉さんが立ちあがってしまう。頭がすこし寂しい。ココアはコップの底に粉がたまる。残り半分くらいになったらコップをゆすっては一口飲むようにしてやらないと、飲み終わるころは口の中が粉だらけになってしまう。要注意だ。

「なでなでですね、あとでしてあげます」

「ちゅーっとやって、れろれろですよ」

「このあいだしたじゃないですか」

「このあいだじゃダメです。予習復習、繰り返しが大事なんですよ。それにあんなのはチュッとくっついただけじゃないですか」

「子供のまえでなに言ってるんですか。教育に悪いからやめてください」

「親がラブラブな方が、子供は安心して育つことができるんですよ」

「そういうものですか」

「たぶん」

「でまかせですか」

「アドリブです。んっ」

 大きい音にビクッと反応してしまい、飲もうとしたココアをこぼしそうになった。

「わあっと、失礼」

 バタン

「金子さん」

 誰かが勢いよく事務室のドアを開けて、すぐに閉めたみたいだ。どうしたのだろう。

「見られちゃいましたね。こんなところで、ダイタン」

 久保田オジサンが顔を手でおおって、ため息をもらす。なにかコメディを演じているようだ。もしかしたら観客の役を期待されていたのかもしれない。だったらココアを渡してはいけない。

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