内的黙示録~世界の終わりに祝福を~

blazer

男と少年

わらべのときは

語ることもわらべのごとく

思うこともわらべのごとく

論ずることもわらべのごとくなりしが

人となりてはわらべのことを捨てたり


新約聖書『コリントの信徒への手紙一』より



果てしない荒野を、あてどなく歩く。

時折地面から萎れた草が数本生えているが、それ以外は地平線まで赤く焼けた大地が続く。

その中を、男と少年が歩いていた。


長い旅を続けてきたのだろう。

灰や泥の付いた薄汚れたコートに帽子、ズボンにブーツ。全て長く使われた形跡がある。

黒く長い髪をした、大柄な体格に無骨な人相をした髭面の男だった。

少年の服装もまた、男と同じくらい薄汚れている。

首元をマフラーで覆い、体格より少しばかり大きいジャケットに長靴。金色の短髪に、まだ年端もいかぬ顔立ちの少年だった。


「ねぇ、待ってよ」

息を切らしながら、少年が懸命に歩く。男は少年のかなり先を歩いていた。

振り向いた男は立ち止まり、少年が追いつくのを穏やかな眼で見守っている。

少年が男に追いついた時、急に男は目を見開いた。

「どうしたの?」

「隠れろ」

言うが早いが、二人は駆け出す。

幸い、赤い大地に紛れるようにして、小高い岩が近くに佇んでいた。

男と少年はその岩の陰に隠れると、先程まで自分達が歩いていた荒野を見守る。


やがて、地平線の向こうから、人間の集団がやってくる。


肌も服も汚れ切り、服は所々が破れているほどボロボロだ。しかしそんな彼らは服など気に留めず、ただただ虚ろな眼で歩いていた。

男も女もいる。頭髪の有無や背丈など、汚らしいがその外見は様々だ。

しかし、皆一様に青白い肌をしていた。

二人が様子を窺っていると、やがて彼らは緩慢な動きで歩き続け、通り過ぎて行った。

しかし、男はそこから動こうとしない。彼らが消えていった地平線を、目を細めて観察し続ける。


『置いていきな』


突如響く、しわがれた声。男の傍に、いつのまにか老婆が蹲るように座っていた。

薄汚れた服を着た老婆。その顔は皴で覆われ、瞼も垂れ下がっているが、その眼はひたと男を見据えていた。

『餓鬼は足手纏いだ』

男は、ただ無言で地平線を見つめ続ける。老婆の声が聞こえていないかのように。

しかし、彼には確かに聞こえているのだ。そして確かに視界の端に、老婆の姿を捉えている。

それを分かっているかのように、老婆は喉を鳴らす。

男が瞬きすると、老婆の姿は消えていた。


男は尚も動かない。少年の口元に手を当てたまま、さっきの集団がもう近くにいないと確信できるまで、息を殺して隠れていた。



焚火で温めた缶詰を開け、片方を少年に渡す。そうして夕食が始まった。

吹き荒ぶ風を遮るようにして、半分砂に埋もれた大岩がある。今夜はその陰を寝床にした。

夢中になって缶詰を食べる少年。

それを眺めながら、男は自分の缶詰をナイフで開ける。

「美味いか」

「うん」

少年は笑顔で答えた。そのあどけない笑顔に、男も微笑む。

しかし、そんな少年の顔が少し翳る。考えるような仕草の後、彼は口にした。

「ねぇ」

「何だ?」

「昼間のあれは、何?」

言うまでも無く、それは昼間に遭遇した虚ろな人間達を指している。

少年の問いに、男は少し暗い表情になり逡巡した。

「亡者だ」

「亡者?」

「俺やお前が生まれるよりずっと昔、世界はもっと豊かだった。しかし、豊かだったがために、人は互いに争うようになってしまった。そうして長く争いが続いた末に、世界はこんな風になった」

「もっと……豊か?」

「あぁ。大地はこんな荒野じゃなく、草や木、川、そして生命に溢れていたのだと」

そう言って、目の前の缶詰を見つめながら男は続ける。

「かつての争いの名残が彼らだ。思考も理性も無くなり、しかし不死となって彷徨う者達……それが亡者だ」

ゾッとして身震いする少年に、男は頷く。

「彼らにあるのは単純な欲求のみ。それを求めて、延々と彷徨っている」

「欲求?」

男は頷いた。重々しく。


「食欲だ」


男の言葉に、少年はゴクリと生唾を呑み込んだ。

「彼らは集団で移動し、目にした人間の肉を喰らう。傷ついてもすぐに治り、死んでもすぐに蘇る。体力が尽きることも無い。見つかれば、どこまでも追いかけてくるだろう。俺達が死ぬまで」

そこまで言って、男は付け加えるように言う。

「俺のいた村も、彼らに滅ぼされた」

それを聞いて少年は缶詰を置くと、凍えるように自らの両肩を抱きしめる。

「怖いな……」

「大丈夫。彼らは暗くなると眠る。朝が来て目覚めると、また動き出すんだ」


食事が再開される。昼間の疲労もあるのだろう、しばし二人は缶詰に集中した。

もう少しで食べ終わるという時、少年はもう一度顔を上げる。

「ねぇ」

「何だ」

「どこへ行くの?」

その問いに、男はしばし俯いて考え、やがて顔を上げた。

「居場所へ」

「居場所?」

「安心して暮らせる場所……そんな場所を、ずっと探している」

「亡者もいない場所?」

少年の問いに、男が頷く。それを見て、今度は少年が考え込んだ。

「あると思う?」

「……どうだろうな」

言いながら、男は視線を上に向ける。


空には、無数の星が瞬いている。月は青い光を放ち、天上に昇っていた。


「俺のいた村は滅んだ。俺を残して、他の皆は逝ってしまった。だから、それからずっと探してる」

「ずっと?」

「ずっとだ」

遠い眼で夜空を見上げる男に倣うように、少年も見上げる。

「僕もそうしなきゃならない?」

「俺と同じである必要は無い」

その言葉に、少年は男へと視線を移した。男は、まだ星を眺めている。

「人は、自分に合った生き方しかできない。お前も、いずれ自分の生き方を知るだろう」

「そう……なのかな」

しばし、沈黙が生じる。二人は、食事を再開した。


やがて食事が終わり、缶詰を片付けると、男はもう一度星を眺める。

男の様子に、少年は堪え切れなくなったように声をかけた。

「星が好きなの?」

「俺の故郷には、言い伝えがある」

そう言うと、男は少年に視線を向けた。

「人は死んだら、星になるのだと」

「星、に……?」

少年も、改めて星を眺めた。

その眼から、一筋の涙が流れ落ちる。

「お父さんとお母さんも、空に……いるかな」

「きっといるさ」

男はただ、穏やかにそう答えた。


火を消して、男の荷物から取り出した毛布に少年はくるまる。

それを眺めながら、隣で男は横になった。

「ねぇ」

「何だ」

「亡者は、来ない?」

「あぁ」

「明日は、どこへ行くの?」

「東へ」



『償いのつもりかね』

少年の寝息が聞こえてきた頃、男は目を開けた。

視線の先に、またあの老婆が両手を組み、蹲るように腰を下ろしている。


『意味が無いことは、お前自身も分かっている筈だ』


男は答えない。ただただ老婆を見ていた。

尚も老婆は、歪んだ口元から言葉を紡ぐ。


『いいかい、お前ができることは一つしかない』


そう言って、老婆は立ち上がった。男の間近まで迫ると、その眼を覗き込む。



男は目を閉じた。

もう老婆の声は聞こえてこなかった。


やがて男と少年は、夜明け前に出発した。



それから幾日も、二人は歩き続けた。


やがて赤い大地に、次第に緑の草がまばらに生えてくる。

歩いていくうちに、その数が多くなっているように思えた。

少年は、それを物珍しそうに見つめる。

「草が増えてきたね」

「森が近いんだ」

男の言う通り、やがて二人の行く先に、鬱蒼とした森が立ちはだかった。

少年は目を丸くして、その森を見つめる。

「豊かな、世界?」

数日前に男が語った、自分達が生まれる前の世界。それを思い出さざるを得なかった。

男は微笑むが、首を振る。

「もうこんな森も少なくなった。それに、ここもそんなに広くないだろう」

そこへ立ち入ろうとする男の服の裾を、少年が掴んで止める。

「亡者がいたら、気づかないかも」

「荒野では、見つかれば逃げ場が無い。それよりは、身を隠しやすい森の方がいい」

男の言葉に少年はしばし迷っていたが、やがて頷く。

そして、二人は森の中を分け入った。


木漏れ日が差し込んでくる。少年は眩しそうに、しかし物珍しそうにそれを見つめた。

風でそよぐ木々、葉のこすれ合う音が、森の中を木霊する。

二人が歩き、踏まれる草の音や足に擦れる音。それらも、少年には初めての音だった。

「音がいっぱい」

「そうだな」

歩きながら、少年が耳を澄ます。

やがて、彼は一際違う音を耳にした。

「何か聞こえるよ」

男にも聞こえていたのだろう。彼は頷いた。

「行ってみよう」


森の先には、小さな滝があった。

上流から、止めどなく水が流れ落ちてくる。流れ落ちた先は池のようになっており、更に下流の方へ川が伸びていた。

その光景を見て少年は感嘆の声を上げたが、それは辺りに響く水音にかき消されてしまう。

そんな少年の耳元で、男が囁いた。

「身体を洗おう」


慣れない様子で服を脱ごうとする少年に、男は手を貸してやる。

やがて、少年は恐る恐る水に入ろうとした。

「冷た……!」

「ゆっくり入るんだ」

そう言うと、男は水の中に身体を入れた。深さは男の腰下くらいまであり、少年の身長でも底に足は着きそうだ。

少年は水の冷たさに少し震えながらも、澄んだ水を通して見る、底の方に目を奪われていた。

苔や、木々から落ちた葉が沈んでいる。目を上げると、男が流れ落ちる滝を身体に浴びているところだった。

ようやく冷たさに慣れ、少年は身体を水に浸ける。


その瞬間、見た。


自分の身体から、赤く黒いものが染み出していくのを。


まるで、身体が――


「どうした?」

青ざめる少年の様子に、男が声をかける。我に返った少年は、目の前の水面を見つめた。

水は、少しも変わっていない。澄んだままだ。

少年の身体も、何事も無い。

「……何でもない」

「布が要るな。荷物から持ってきてくれ」

男の言葉に少年は頷くと、水辺の淵に置かれた男の荷物から布を取り出す。

その時、あるものが眼に映った。


一本の瓶。少年が両手で持たなければならないくらいの大きさ。


その中には、黒みがかった透明な液体が入っている。

そして液体の中に、球が入っていた。


球は青く澄んでいる。液体の中を浮きも沈みもせず、瓶の中央辺りを漂っていた。


その青い球を、魅入られたように少年は見つめる。


「大丈夫か」

いつのまにか、背後に男が戻ってきていた。

「これは?」

少年の問いに、男は黙って首を振る。

そして荷物から布を取り出すと、少年の手を引いて歩き出した。


そうして二人は、水場で身体を洗った。



暗い森の中で、焚火に薪をくべる。

その夜も男と少年は、焚火で熱くなった缶詰を食べた。

「ねぇ」

少年の呼びかけに、男は答えない。何を聞きたいか知っているからだ。

黙ったまま、男は少年を見つめた。

「あれは、何なの?」

スプーンと缶詰を地面に置くと、男は溜め息を吐く。

そして荷物から先程の瓶を取り出すと、それも地面に置いた。

「村の長老から託されたものだ。村が滅びる直前に」

「長老……」

少年の反芻に、男は頷く。

「これは、世界だ」



「一人の老婆がいた。老婆は、不思議な力を使うことができた。物を触れずに動かしたり、どんな病も治す薬を作ったりした。人々はその老婆を『魔女』と呼んで恐れたそうだ」


「時と共に、人々の老婆を恐れる視線は強くなっていった。いつしか人々に殺されるのを恐れて、老婆は土地を離れたという」


「どこへ行っても、誰と会っても、老婆は恐れられた。不思議な力を使わずに生きることは老婆にはできなかった。自分の力を誇りに思っていたからだ。人々に恐れられながら、老婆は旅を続けた」


「遂に老婆は人々に捕らえられ、やがて処刑されたという。死ぬまでの間、老婆は世界を呪い、滅びを願った」


「そして、老婆はこれに……込めたんだ。星の魂を」

「ほしの、たましい……?」


男の説明に、少年はまじまじと瓶を見つめる。

液体の中に漂う、青い球を。

男は、重々しく頷いた。


「もし、これが割れたり潰れたりした時……世界は終わる。そう長老は言っていた」


その言葉に、少年は肩を震わせる。

男の話は続いた。


「老婆が死んだ日、彼女が閉じ込められていた牢で、一人の男がこの瓶を見つけた。不思議なことに、これがどんなものなのか男には一目で分かったのだという。あるいは、それも死んだ老婆の力だったのかもしれない」


「男は死ぬまで、それを家の奥にしまった。自分の息子にも、決して開けるなと言い残した。その息子も同じようにした。そうして、何代にも渡ってこの瓶を継承した」


「最後の代が、俺の村に居た長老だった。村が滅びるとき、長老はこれを俺に託した」


そこまで説明すると、男は瓶を持ち上げた。

瓶の中にある青い球を見つめる。

「長老は言っていた。この球を見ていると、まるで自分の魂が吸い込まれるような、そんな感じを覚えると」

「……うん、僕もそんな風に感じた」

「だから、あまり見てはいけない」

そう言うと、男は瓶をしまう。少年の視線は、瓶から男の顔に注がれた。

「これが割れたら……どうなるの?」

「想像もつかない」


森の中で二人は眠った。

そよぐ風に揺れる木々。静かになると、葉のさざめきが大きく聞こえる。

それが何だか心地良くて、少年はいつのまにか眠りに就いていた。



「ねぇ」

荷物をまとめる男の背に、少年が声をかける。

「ずっとここに居られない?」

少年の言葉に、男は振り返った。

風が吹き、木々が揺れる。男は突き放すように、少年に言った。

「亡者は、ここにも来る」

「でも……」

「二人では、いずれ亡者に捕らわれる。生きるには、人間の村に辿り着かなければ」

男の言葉に、少年は俯く。

しばしの沈黙が辺りを覆った。風は、もう止んでいる。

顔を上げた少年は、力無く頷いた。



森を抜けた先は、また荒野だった。

「また歩くんだね」

「あぁ」

少年は、遠くなっていく森の方へと後ろめたい視線を向ける。

「過去にしがみつくな。未来へ行けなくなる」

男にそう言われ、少年はハッとして視線を戻す。

「この先に、居場所はある?」

「分からない。だが……あると信じよう」

そうして二人は、歩き出した。


『そうだ。信じるしかない。それがあんたの、人間の限界だ』

耳元で囁かれた老婆の言葉を、男は聞き流した。



二人はまた、幾日も歩き続ける。

地面に生える草木はやがて数えるほどになり、当分また森は現れないだろうと少年は思った。


やがて、ふと男は足を止めた。

「どうしたの?」

「……亡者だ」

言うが早いが、男が少年の手を掴み走り出す。

手近な岩場の陰に、身を潜める。

少年も男に従い、彼の傍らで伏せていた。

だが。


「助けて」


少年は、その声を聴いた。


「誰か……助けて」


か細い声。それでも耳に入ってくる、確かな声。

少年は顔を上げた。

「見るな」

男の言葉が耳に入らないかのように、声のする方へ、岩場の陰から顔を出す。


親子がいた。髭面の痩せ細った男と、少年よりも幼い子供。


二人は必死で走っている。後ろを追いかける亡者から逃れようと。

男は銃を背後へと向け、引き金を引いている。子供は泣き叫びながら逃げ続ける。

少年がその光景を見たのは、丁度男の銃の弾が切れる瞬間だった。

男の銃弾が当たったのだろう、何人かの亡者が倒れているが、それよりも二人を追いかける亡者の方が多い。そして倒れた亡者も、すぐに立ち上がってくる。

やがて、亡者が男に追いつき、その首に嚙みついた。

続けて子供も、頭を掴まれてその場に倒れ込む。

空気を裂くような、甲高い悲鳴。

「助けて、助けて……!!」


その瞬間に、子供は少年と目が合っていた。

子供は少年に向かって、声の限りに叫び続ける。

その眼が、何も見なくなるまで。

亡者達がその場を離れるまで、少年はその光景から目を離すことができなかった。



吐いた。今朝口にしたものを全て。

男は何も言わず、少年の背中をさする。

少年は胃の中が空になってやっと、言葉を口にした。

「助け……られなかった……」

「そうしたら、俺達も死んでいた」

「うん……」

それ以上、何も言うことが無い。

その日はそこから動けず、一晩を過ごした。



また数日、二人は歩いた。

男の荷物には豊富な食料があったが、それももう底を着いていた。

それでも二人は、残った飲み水を頼りに、歩き続ける。


やがて少年は遂に、息を切らして膝をついた。

「はぁ……はぁ……もう、もう無理……」

言いながら、少年はその場に両手をつく。


「もう……分からないよ。この先に歩いてたって、居場所があるかなんて分からない。ずっとまた、あんなものを見るくらいなら、いつか僕たちもあんなになるくらいなら、ここで……いっそ死んじゃいたい」


言いながら、嗚咽と共に少年は涙を流す。

男は少年の少し先の小高い丘の上で、先の光景を眺めていた。


「見てみろ」

「え?」


顔を上げると、男は微笑んでいる。

その言葉に、少年は歩いて彼のいる場所まで行き、眺めた。


視線の先に、海があった。


厚い雲に覆われ、辺りは薄暗い。

空の色を反射した海は灰色で、波は静かに寄せては返す。

「これは……」

「海だ」

砂浜には、打ち捨てられた大量のゴミが散乱している。

ガラスが割れてタイヤも無くなった車両の残骸、ばら撒かれたような大量の瓦礫。何かのビニール袋の欠片。

男は静かに、近くにあった瓦礫の上に座る。

少年は魅せられたように、海へと足を進めていた。

「これが……海……」

恐る恐る、波打ち際へと歩いていく。やがて海水が、靴を浸した。

自然と少年は靴を脱ぎ、素足を波に浸す。

「冷たい……!」

しばし、少年は寄せては返す波に足を浸し、海水を見つめていた。

やがて歩いて両足の膝まで浸すと、両手で水を掬って感触を確かめる。

そうして、少年は男の方へ振り向いた。

「ねぇ……」

「行ってもいいぞ」

最後まで聞かずにそう返す。そうして穏やかに微笑む男の顔を、少年は見つめた。

「気をつけてな」

少年の顔に、久方ぶりの笑顔が浮かんだ。

「うん!」

そして上着やズボンを脱ぐと、下着姿で少年は海へと入って行った。



浅瀬で遊ぶ少年の姿を、男は目を細めて眺める。

鞄からあの瓶を出して、中の球体を見つめた。

もう自分達に行く場所は無い。これを、割るべきだろうか。そう考える。


ふと気づいた。少年のはしゃぐ声は、途切れていた。


目を上げると、その姿はどこにも無い。


「……行ったか」

『ああ。行ったよ』

傍らに、あの老婆がいた。

男は老婆に視線を向けると、微笑んだ。

『これで満足かい』


男は空を仰ぐ。

目を瞑り、思い返す。

旅の途中、焼け落ちた村の中で死んでいた親子のことを。

目に焼き付いた少年の死体。それがいつしか、自分に着いてきていたことを。

あるいはそれは、自分の良心とでもいうものだったのかもしれない。

「あぁ」

男の答えに、老婆は頷いた。そして、海の方へと視線を向ける。


『居場所、ってのはね……探すもんじゃない。自分で作るもんさ』


『世界とは、自らが見て、聞いて、嗅いで、触れて、味わう感覚のことだ。たったそれだけのものさ。けれど……そんなものに、人は左右されちまう』


『自らが感じる世界を、自分の思うように変えていく。それが人生だ。なのに、いつしか人は、世界を変えるために生きるのではなく、世界のために自分を変えて生きるようになっちまった』


『自分勝手に生きればいいと言ってるんじゃないよ。ただね、善行が報われるか、悪行が裁かれるか。そんな保証はどこにも無い。それでも人は、自分の信じるもののために生きるしかないのさ』


『さぁ、あんたも終える時だ、幼年期を』


「……怖いな」

『誰でもそうさ。おっかなびっくり、震えながら進んでいく。そうするしかないんだ』

老婆の言葉に、男は答えなかった。

ただただ、手元の瓶を眺め続ける。名残惜しそうに。


そして男は、瓶を地面に叩きつけた。


瓶は砕け、中の球体も砕け散る。


そうして世界は、終焉を迎え。


夜明けの光で満ち溢れた。

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