第210話 また会えるよ
暖炉の炎はまだちろちろと燃え、冬の入り口に入り、冷え込んできた夜の闇の中、静かに部屋を暖めてくれている。
老人は静かに本を閉じてテーブルの上に置くと、痛む膝を押さえながらゆっくりと安楽椅子に腰かけた。
ふぅ、とため息をついた瞬間激しく咳き込んでしまった。
『もう、長くはないか』……そう考えて、テーブルの上に置いてあった細長い木箱を手に取り、中に入っていた笛を取り出し、ゆっくりと、それを愛おしそうに撫でた。
それは、一本の、黒い笛であった。
ごほりごほりとまた二、三回咳をしてから、辛そうな表情のまま背もたれに体重を預け、静かに天を仰ぐ。
五十年前、この笛を吹いた時には音を出すことは出来なかった。
だが、今なら。
きっと今なら吹けそうな気がする。
そう感じ取って老人は横笛の
部屋の中に高く、そして消え入りそうに儚い音が響く。
夜の闇よりも暗く、蜘蛛の糸よりも儚げで。
冬の夕暮れのように悲しげで、春の淡雪の如く消え入りそうな。
ほんの数分か、それとも十分余りも吹いていたか。老人は楽器など演奏した経験もなかったが、しかしその笛の音は誰が聞いたとしても涙を誘うような、美しく哀しい音色であった。
いつの間にか老人の顔からは辛そうな気配は消えていた。
笛を右手に優しく握り、再び背もたれに体重を預ける。
「お久しぶりです……」
パチパチと燃える暖炉の薪の音に消されそうなほどのか細い声。
「会いたかった……ずっと」
しかしそれは老人の今際の際の幻聴ではない。たしかに彼の前に、長い黒髪の、美しい女性が立っていた。
「ドラーガ・ノート……」
ぽろりと、女性の瞳から涙があふれる。
老人は、にやりと笑みを見せる。
「現れると、思ってたぜ」
先ほどまでため息をつくのにも難儀していた老人とは思えないほど、力強い口調であった。
「ドラーガは、死ぬのが怖くないの?」
不思議そうな表情で美女はドラーガに語り掛ける。
「あの時……消えてしまったお前は、きっとこの笛と一つになったんだと思った。
……きっと、死神になったんだとな……
ドラーガが立ち上がる。先ほどまでのように体の苦痛を気にしない……まるで若返ったかのように力強い。
そう、二人が別れたあの時のように。
彼の姿はいつの間にか老人ではなくなっていた。その力強くも美しい立ち姿は、二十代後半の、自身の全盛期の姿であった。
「だから俺はお前が消えても悲しくはなかった。もし、死神になったんなら、きっといつか、もう一度会えるんだからな」
彼女の長い髪の毛をかき分けながら、ゆっくりとドラーガは彼女の頬を撫でる。
「俺が死を怖がると思ったか? お前に会える日を、待ち望まないとでも思ったか?」
女性は、彼の胸に顔をうずめ、そして激しく嗚咽しながら涙を流した。
「ドラーガ……ッ! 会いたかった……ずっと、ずっと!!
あなたに会えると思ってたから……ずっと待つことができた……
あなたはきっと、私に気付いてくれると思ってたから……」
ドラーガは彼女の涙を指で掬い上げる。
「せっかくの美人が台無しだぜ? そんなに泣くんじゃねえよ」
そう言って強く彼女を抱きしめ、そして二人はゆっくりと光の中に溶けるように消えていった。
次の日の朝
賢者ドラーガ・ノートは眠る様に安らかな顔で、椅子の上で冷たくなっているのが発見された。
その手には、黒い笛が握られていたという。
後に、それは50年前の惨禍以来消失していた野風の笛だという事が判明し、野心を持った者がそれを利用しようと試みたが、いずれもその力を御することができず、悲惨な末路を辿ったという。
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