第176話 魔笛

 朝焼けの光が空を黄金色に染め上げる頃。


 カルゴシアの町には美しい笛の音色が染み渡るように響いていた。


 トンビの鳴き声の様な、オオカミの遠吠えの様な、


 元々、イリスウーフには音楽の素養はない。それでもその悲しげな音に、誰もがその手を止めた。敵の首を刎ねる手と止め、弓を引く腕を止め、投げつける石を取り落とした。


 誰もが天を仰ぎ見て、黄金色に輝く雲に打ち震え、世界の大きさに心を打たれ、笛の音に涙した。


「ああ……」


 カルゴシアの騎士団、近衛騎士長のイザークは鉄塊のごとき巨大な両手剣をがらん、と取り落とし、そして両手で顔を覆った。


― なんと美しくはかなげで、そして悲しい旋律なのか ―


 このイザークという男はおおよそ風流というものに全く理解を示さない男であったが、この時ばかりは美しい笛の音に涙を流した。


 イザークだけではない。他の騎士団の皆も、そして騎士団だけでもない。冒険者達もそれは同じであった。武器を振る手を止め、弓を引く手を下ろし、ただただその音色の美しさに聞き入っていた。人だけではない。魔物達も。突き立てる爪を止め、その牙を収め、悲しげな眼で静かに聞き入る。


 町の外では得物を襲おうとしていたオオカミがその歩みを止め、ネズミを狩ろうとしていたフクロウが枝にとまり、ともに耳を傾ける。


 カルゴシアを中心に静寂の輪が広がっているようであった。


 とりわけこの男にはその笛の音が心に染み入るようであった。


「ううっ……ああああッ!!」


 剣も盾も取り落として、アルグスはその場に泣き崩れた。嗚咽を上げ、しゃくりあげ、呼吸も覚束ないほどに大声で泣き続ける。クオスの死から立ち直って随分と時間が立っていたようだが、その時の不安定さがぶり返してきたようである。


「話には聞いていたが……凄まじいな」


 ガスタルデッロは朝焼けに燃える町を眺めながら腕組みをして呟く。どういう理屈かは分からないが、この男だけは笛の音の中でも普段と変わらない様子である。


 いや、「どういう理屈なのか分からない」のは笛の音の方だ。


 イリスウーフが笛を吹き始めると、途端にみながそれに聞き入り、そしてこのような異常な事態に陥ったのである。


「もういい、そこまでだ」


 ガスタルデッロは演奏を続けるイリスウーフから「野風の笛」を取り上げた。


 急に笛を取り上げられたイリスウーフは暫くの間は演奏によってトランス状態になっていたのか、呆けていたが、急に覚醒状態になり、ガスタルデッロに抗議をする。


「返してください、その笛は私の物です。私自身なのです。私が……」


「ワイウードから譲り受けたのか?」


 そのガスタルデッロの言葉にイリスウーフは言葉を失う。どうやら何か言えないことがあるようだ。


「フッ、隠さんでもいい。おおよそのところは分かっている」


 ガスタルデッロは満足そうな表情で笛を高く掲げ、東から差す朝日の光でよく見ようとする。


「長かった……三百年か……ようやく俺の手に取り戻すことができた」


 イリスウーフは抗議の声は上げたものの、しかし力づくで取り返そうとはしない。この男が本気を出せば、自分を始末することなど赤子の手をひねる事よりも簡単だと分かっているからだ。


 辺りを見回せば、やはり先ほど、笛の音が鳴っていた頃と変わらず、町の人々や騎士団の男たちは皆、戦う力を失くし、その場に泣き崩れ、俯き、活力を失くしたような状態だ。


「凄いものだな……ワイウードがスナップドラゴンによって生み出した魔笛、ただの魔道具ではないとは思っていたが。

 美しい音色によって人から戦う力を奪い、悲しみの底に沈めて生きる気力すらも無くしてしまう文字通り死の笛か。

 聞いた話からおそらく言われているような『剣』ではないだろうとは思っていたが、まさか体内に隠せるほどの大きさのものだとは思っていなかったぞ」


 音孔おんこうに指を当てながら、誰に話しかけるでもなく呟くガスタルデッロ。しかし彼の手の大きさからすると笛の大きさは随分と窮屈に感じられる。


 音の届く範囲、カルゴシアの町の見渡す限りの地域ですでに戦闘は行われていなかった。中でも場所的に近かったガスタルデッロの周りの人間は笛の音によって立ち上がることもできないほどに気力を失っており、特にアルグスは足腰が立たないほどに疲弊しているようであった。


 おそらくはつい先ほど仲間の一人を、自分の手によって亡くし、そのことも含めて自分を責めていたこと。そしてここ数ヶ月のムカフ島関連の探索によって失った冒険者仲間や、守れなかった市民達……そのことで内心自分を責めていたのが、ここにきて一気に噴出したのだろう。もはや彼が立ち直ることは不可能にさえ見えた。


「だが俺の求めているものはこんなものではない。この先にあるものだ」


 そう言って彼は自分のうなじ辺りを確認するようにゆっくりと撫でる。頸椎は重要な器官ではあるものの、しかし彼にとってはそれだけの部位ではない。「転生者」であるガスタルデッロにとってそこは「竜の魔石」を格納している、心臓や脳にも等しき重要な部位なのだ。


 やがて彼は音孔に指を当てて優雅に笛を構えると、唄口うたくちに唇を重ねた。



――――――――――――――――



「もういいぞマッピ……手を放しても」


 ドラーガさんはそう言うと両手でふさいでいた自分の耳から手を放した。というかまあ、実際には彼の言葉は耳を塞いでいた私には届いていないんだけど、彼が手を放したので私も耳から手を放す。


「いったい……何が起きたの?」


 私とドラーガさんに倣って、アンセさんとクオスさんも同様にふさいでいた耳から手を放した。


「おそらくは……野風が発動した」

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